piece of resistance

25 いやなやつ

なんでそんなことにこだわるの? と言われるかも知れないが、人にはさまざま、どうしても譲れないことがあるものだ。奥様とは言わない、本に書き込みはしない、ご飯は最後の一粒まで食べる、日傘は差さない……等々。それは、世間には流されないぞ、というちょっとした抵抗。おおげさ? いやいや、そうとは限りません。嫌なのにはきっとワケがある。日常の小さな抵抗の物語をつづります。

 その男と知りあったのは、私がとある小さな国の領事館に勤めていたころのことでした。
  どんな小国にも日本のビジネスマンはいますし、そこには縮小版の日本人社会があります。食事会だのお茶会だのと家族ぐるみで日本人同士の交流がもたれ、不慣れな異国暮らしの愚痴をこぼしあったり、噂話に興じたりするのも日常茶飯事です。
 いつしかそのような会に顔を出すようになっていた男は、米国の通信社と契約をしているジャーナリストを名乗っていましたが、その物腰からは売文よりも人脈で生きている人間の匂いをぷんぷん漂わせていました。現地大手企業の社長や政治家たちにやたら通じているだけでなく、その奥方の誕生日や子どもの習い事まで把握していたり。
 人々の会話に少しでも「意味のある名前」がのぼれば、すぐさま紹介してほしいと割って入るような類の人種です。
 産業スパイだのダブルスパイだのと様々な憶測が飛んでいましたが、本当のところはいまだもってわかりません。

 かくも怪しげな風体でありながらも、その男にはどこか独特の人懐こさがあり、とりわけビジネスマンの奥方たちからは人気がありました。
 最初は誰もが警戒心を滲ませていても、共にテーブルを囲んで小一時間もすれば、不思議と打ちとけているのです。会がお開きになるころには、全員が彼を「悪い人ではない」と評するようになっています。
 小柄でずんぐりとした五十男。中途半端に伸ばした髪に、黒々とした口髭。
 およそ外見で得をする容貌からは程遠い男が、なぜこれほど見事に奥方たちへ取り入り、ミニ日本人社会の内情を聞きだすことに成功しているのか。
 若干の好奇心をもって観察した結果、その鍵は彼の話術にあることに私は気づきました。

 皮切りのスピーチ、とでも名付けましょうか。会のはじまり、同じテーブルを囲む者同士の会話がまだ固く、誰かが場を持たせてくれはしないかと待っている時間、なにげなくその役割を引きうけるのが彼はとても上手でした。出しゃばりすぎず、口元に感じのいい含羞を湛えながら、低く落ちついた声色で皆の注意を引きつけるのです。
 たとえば、こんなふうに。
「この国の野花はじつにかわいらしい。私の家の玄関先には、もうね、こんなちっちゃな、花びらなんか三ミリにも満たないくらいちっちゃなやつが群生しているんですけど、それがいかにも一生懸命咲いてますって感じで、私は毎朝、それに見入って、なかなか家を出られなくなっちゃうんですよ。顔を近づけて見れば見るほど、健気なんだよなあ。うちのヘルパーさんなんかは、こんな雑草抜いちまえ、なんて言うんだけど、待って、待って、それは勘弁してって、毎日必死で守ってるんです。アハハ」

  また、べつの会ではこんな皮切りのスピーチを耳にしたこともあります。
「最近ね、私のオフィスが入ってるビルの管理人さんのところに赤ちゃんができたんですよ。で、なぜだか毎日、管理人室で赤ちゃんの世話をしてるんだ、その旦那が。いやいや、うるさいだなんて、とんでもない。もうかわいくてかわいくて、私、用もないのに毎日、管理人室に入りびたってます。掌なんて、もうこんな、楓みたいにちっちゃくてねえ。こんなに脆くて儚げなのに一生懸命生きてるんだなって、見てるだけでなんだかじーんとしちゃって、よちよち、おじちゃんが守ってあげるよって……ハハ。不徳の致すところで大人の女性にはふられっぱなしですけど、これでも子どもには意外とモテるんですよ」

 基本は朗らかな笑いをもたらすトークですが、時には奥方たちを涙ぐませることもありました。
「今日はね、ちょっと落ちこんでるんです。ここへ来るあいだに脚を引きずっている子犬を見ちまって……私ね、そういうのに本当に弱いんです。以前、未熟児で生まれた犬を譲りうけたことがありましてね、やっぱり脚が悪かったり、普通の雑種より体が小さかったり、いろいろ障害はあったんですけど、でも、その犬は精一杯に生きてくれました。もちろん私も最後まで全力で守りましたけどね。もしもあいつが未熟児でなかったら、あそこまで愛せなかったかもしれないなあ」

 おわかりいただけましたでしょうか。
 男は小さきもの、かよわきものを愛おしむ話を頻繁にしては、自分がそれら弱者の味方であり庇護者であることを印象づけていたのです。おそらく彼が弱者とカテゴライズしていた奥方たちへ向けて。
 それを見抜いて以来、私は彼と同じテーブルに着くのを徹底して避けるようになり、「あの男性どのようなお方なのかしら」と奥方たちから尋ねられるたびに、こう答えるようになりました。
「いやなやつですよ」

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