世の中ラボ

【第96回】超高齢社会に向けて玄冬小説の時代が来た?

ただいま話題のあのニュースや流行の出来事を、毎月3冊の関連本を選んで論じます。書評として読んでもよし、時評として読んでもよし。「本を読まないと分からないことがある」ことがよく分かる、目から鱗がはらはら落ちます。PR誌「ちくま」2018年4月号より転載。

 今期芥川賞を受賞した若竹千佐子のデビュー作『おらおらでひとりいぐも』が、なんと五〇万部を突破して、ベストセラーになりつつある。昨年の文藝賞受賞作であり、私も選考委員のひとりだったこともあって、文藝賞の選評はじめ、この作品については、折にふれてすでにあちこちで書いてきた。
 だからもう、これ以上書くことはないです。と思っていたのだが、ふと文芸書の棚を見ると、あれっ、なんか老人を描いた小説が増えてない? いまってそういう時代なの?
 その前に『おらおらでひとりいぐも』について、軽く紹介しておこう。主人公は一九四〇年生まれ、七四歳の「桃子さん」。岩手県とおぼしき東北で生まれ、地元の高校を出て農協で働いていたが、一九六四年、組合長の息子とあと三日で祝言という日、東京オリンピックのファンファーレに押し出されるようにして、後先も考えずに上京した。二四歳のときだった。その後は蕎麦屋や食堂で働き、同郷の男性・周造と結婚。以後は専業主婦として二人の子どもを産み育て、家族のために生きてきた。子どもたちは独立していまは疎遠になっており、最愛の夫も一五年前に逝った。
 テキストは、そんな桃子さんの東北弁によるモノローグと、「桃子さん」という少し距離を置いた三人称による説明的な語りと、二種類の語りを絶妙なバランスで駆使する形で書かれている。
 なんたって、書きだしがもう、こうですからね。
〈あいやぁ、おらの頭このごろ、なんぼがおがしくなってきたんでねべが/どうすっぺぇ、この先ひとりで、何如にすべがぁ/何如にもかじょにもしかたながっぺぇ/てしたごどねでば、なにそれぐれ/だいじょぶだ、おめには、おらがついでっから〉
 だいたいここで、読者はノックダウンされる。こんな小説、いままで読んだごとねがったべ、である。
 桃子さんはべつに、最初からこうだったわけではない。東北弁はむしろ封印して暮らしてきた。ところが、ひとり暮らしを続けるうち、〈いつの間にか東北弁でものを考えている。晩げなのおかずは何にすべから、おらどはいったい何者だべ、まで卑近も抽象も、たまげだごとにこの頃は全部東北弁でなのだ〉という状態になり、しかも〈おらの心の内側で誰かがおらに話しかけてくる。東北弁で。それも一人や二人ではね、大勢の人がいる〉。

「典型的」で「普通」の老人が小説になる
『おらおらで』について特筆すべき点は、戦後日本の典型的な女性像を描いていることだろう。婚礼の直前に家を飛び出すのは典型的ではないでしょうよ、という意見もあろうが、そのくらいは許してあげなさいよ。家出ではなく進学で、あるいは集団就職で上京しても、あとの人生は似たようなものじゃない?
 実際、この小説の読者は五〇〜六〇代の女性が多いらしく、版元HPの感想欄にも「自分のことのようだ」という共感の声が少なくない。そりゃそうだろう。逆にいうと、高齢の女性を描いた文学作品で共感を呼べるタイプのものは少なかったのだ。
 そもそも、おばあさんといえば、日本の昔話では「川で洗濯をする人」、西洋のおとぎ話では「魔法使い」である。その伝統はいまもそこはかとなく生きており、現代の小説に登場する老女は、少年少女をサポートする人だったり(例・梨木香歩『西の魔女が死んだ』)、翔んでるスーパーばあちゃんだったり(例・田辺聖子『姥ざかり』)、山姥めいていたりした(例・中上健次『日輪の翼』)。その点は男性の高齢者も同じで、文学に描かれた老人といえば、まず変態でしょ(例・川端康成『眠れる美女』)、でなきゃ家族の目から見た認知症老人でしょ(例・有吉佐和子『恍惚の人』)。もちろんそうじゃない老人の小説もありますよ。ありますが、概して「普通じゃない人」の比率が高いのは確か。
 だけど最近、少し事情が変わってきたのかもしれない。そう思ったのは、『おらおらで』以外にもう一冊、普通の男性の老いを描いた作品を読んだからだった。昨年の野間文芸賞と大佛次郎賞をW受賞した、髙村薫『土の記』である。
『土の記』の主人公・上谷伊佐夫は七二歳。東京の大学を出て関西の大手電機メーカー(シャープの前身である早川電機工業)に就職し、奈良県大宇陀の旧家の娘・昭代と結婚。婿養子として大宇陀に移り住んだ。妻の昭代は一六年前の交通事故で植物状態となり、伊佐夫が介護してきたが、その妻も半年前に他界。現在は妻が残した田畑を耕しながら、ひとりで暮らしている。
 同じ集落の人々や親戚の近況、物語の途中でニューヨークへ行った娘の陽子と孫娘の彩子の消息などを挟みつつ、物語は二〇一〇年六月からはじまって翌二〇一一年八月まで続く。妻の交通事故は本当に事故だったのか、妻は生前不貞を働いていたのではないかといった謎を孕みながらも、そこには深く拘泥しない。移りゆく季節と自然、棚田の稲の生育状況、そして伊佐夫の中に去来する過去への回想が、物語のほとんどすべてといっていいだろう。
〈ふと自分がヤモリかゲジゲジ、あるいはカメムシになって、この柱や梁、壁土、天井、畳などと一体化したような感覚に襲われ、四十年の間に自分は旧姓の佐野ではなく、もう完全に上谷の人間になって、上谷の地所で上谷の人びとと同じように考え、生きているのだと感じる。昭代の身体の一部だった農事と土と自然のすべてが、確かに自分の身体にも滲み込んだのを感じる〉。
 妻は逝っても、なんかよさげな老後ではないか。
 ところが! 『土の記』はラスト二ページで読者に衝撃を与えるのだ。八月二四日、出穂のときを迎えた稲と伊佐夫の静かな喜びを伝えた後、テキストはぷつりと終わるのである。その後に続くのは、紀伊半島から奈良県一帯を襲い、九月三日から四日にかけて県内に二六人の死者・行方不明者を出した台風の記録だけ。
 えっ、じゃじゃあ、伊佐夫は台風の土石流で?
 この年の三月一一日の震災も、原発事故も、遠い出来事として受け止めた伊佐夫を突然襲った、まさかの結末。でも、そうよね。伊佐夫の意識にそって物語は進んできたのだ。土石流に襲われた瞬間のことなんか書いたら、噓になるよね。

老後を描き、地方を描く
 高度経済成長期には大手電機メーカーに勤務し、ひとり娘を大学まで出し、長い介護の末に妻を看取った『土の記』の伊佐夫は、『おらおらで』の桃子さんと対をなすような、戦後の日本男性の典型的な人生を送ってきた人である。婿養子という点は典型とズレているかもしれないが、それもたいした逸脱ではないでしょ。
 二作に共通して感じるのは、平凡な人生を送ってきた人の平凡な老後が文学になっちゃうんだ、という感慨である。もちろんただの自分史では、こうはいかない。記憶がはっきりしない人の過去と現在、現実と妄想が交錯する、そこが妙味。
 若竹千佐子は文藝賞の受賞に際して、青春小説ならぬ「玄冬小説」を書きたいと語った。人生を青春、朱夏、白秋、玄冬に分けるとしたら、その最後のステージが玄冬だ。その意味では『土の記』もまったく見事な玄冬小説である。
 もうひとつ、二作から感じたのは文学における地方回帰ともいうべき傾向だ。二葉亭四迷『浮雲』、夏目漱石『三四郎』以来、日本文学は青年が青雲の志を抱いて地方から出てくる「上京小説」が主流だった。司馬遼太郎『坂の上の雲』も五木寛之『青春の門』も、上京小説ですからね。だが、老人が主役になると、逆のベクトルが生まれるのだ。『おらおらで』の桃子さんは脳内に東北弁がよみがえり、東京生まれ東京育ちの『土の記』の伊佐夫は老いて奈良の人や自然と一体化する。「脱京小説」「帰郷小説」と呼びたくなる。
 なにしろ人生一〇〇年時代である。こういう小説がもしかして今後増えてくるのかな。と思っていた矢先、玄冬小説の新作を発見してしまった。橋本治『九十八歳になった私』である。
 舞台は二〇四六年。いわば近未来SF私小説である。〈他人に向けてひとりごとを言うのが俺の仕事だから、それがなくなったら惚けちゃう〉と思い、彼は自分のために備忘録を書いている。
〈九十八になった。/ふと見ると、ボランティアのバーさんが、こっちを見て目を剥いていた。/(うーん、さすがに元小説家の展開ではあるな)/昼前に、「さて――」と思って立ち上がり、部屋の中を歩いていたら、バーさんがやって来た。/(「さて――」と思ってなにをしようとしていたのかは忘れた。なにをしようと思ってたんだっけか?)〉。
 こんな調子でテキストは、あっちへ行ったりこっちへ行ったりするのだが、二〇四六年の近未来は、どうやら東京大震災後らしいのである。ところが元作家の「私」は右のような案配なので、『東京大震災顛末記』というタイトルだけは記しても、いったいそれが〈(何年前だったんだ? よく分かんないな)〉というありさま。わかっているのは東京の家が崩壊したため、仮設住宅にいること。〈ジジーばっかの共同生活なんかやだ。どんなボロ家でもいいからシングルルームにして下さい〉とゴネた結果、「栃木県の日光の杉並木の辺」の仮設住宅に来たことだ。
 ほらあ、九八歳の元作家まで「脱京」しているじゃないの!
「独居老人の生活と意見」ともいうべき作品が、こうも重なったのは偶然だろう。だが、ここに新しい鉱脈がありそうな予感はする。留意したいのは、彼らがけっして寂しい老人なんかじゃないことだ。人口の四人に一人を高齢者が占める時代だからこその玄冬小説。まだまだ開発の余地がある新ジャンルだといっておこう。

【この記事で紹介された本】

『おらおらでひとりいぐも』
若竹千佐子、河出書房新社、2017年、1200円+税

 

六三歳の新人作家が書いた七四歳の女性(桃子さん)のお話。故郷を出て五〇年になるが、自身の半生を語るというより現在の桃子さんの心境に力点があり、単調な生活のはずなのに、彼女の脳内にはさまざまな「おら」の声が鳴り響いてにぎやかなことこの上なし。タイトルは宮沢賢治の詩「永訣の朝」の一節をアレンジしたもの。標準語に直せば「私は私でひとりで行く(逝く)のだ」。

『土の記』上下
髙村薫、新潮社、2016年、各1500円+税税

 

六四歳の作家が書いた七二歳の男性(伊佐夫)のお話。電機メーカーに勤務しながら、妻の実家である奈良の大宇陀に住み着いて四〇年。長く植物状態にあった妻が逝き、定年退職したいまは、妻が丹精した棚田づくりに精力を傾ける。自然や天候、とりわけ雨の描写が印象的。季節ごとの稲の生育状況、亡き妻の妹をはじめとする親戚縁者の話なども盛り込んで、山間の農家小説の趣きも。

『九十八歳になった私』
橋本治、講談社、2018年、1600円+税

 

六九歳の作家が書いた九八歳の男性(作者自身の未来?)のお話。元作家である「私」は世間に毒づいてばかりいるが、ボランティアの「若いバーさん」や原稿をとりにくる「五〇歳の若造(君塚)」との会話は、ピントのずれ具合が絶妙で抱腹絶倒。君塚は結婚せずにロボットと暮らしているし、仮設住宅近くにはプテラノドンが飛んでいるし、未来の日本の変テコぶりもおもしろい。

PR誌ちくま4月号

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