考える達人

第17回 証拠とはなんだろうか 
松王政浩さん:前編

この連載の最後のゲストは、北海道大学教授の松王政浩先生です。科学哲学が専門の先生との対談は、まさに「考える」ことをめぐる刺激的な対話となりました。
 
 

松王政浩(まつおう・まさひろ) 1964年大阪府生まれ。1996年京都大学大学院文学研究科博士課程修了。静岡大学情報学部助教授などを経て、北海道大学大学院理学研究院教授、京都大学博士(文学)。訳書に『科学と証拠――統計の哲学 入門』(エリオット・ソーバー著・名古屋大学出版会)『科学とモデル――シミュレーションの哲学 入門』(マイケル・ワイスバーグ著・名古屋大学出版会)がある。

●文系と理系という分け方が嫌いだった
石川  松王先生は、アメリカの科学哲学者の大家であるエリオット・ソーバー先生の『科学と証拠――統計の哲学 入門』を訳されています。私は、Amazonで「統計の哲学」という言葉が目に入り、「これが知りたかったんだ!」と興奮して入手したんです。
 実際に読んでみると、ものすごく面白い。しかも先生が書かれている解説がさらに面白くて、もしかしたら訳者である先生のほうがソーバー先生よりすごいんじゃないかと思い、ぜひお話を伺ってみたいと思いました。
この本に書かれている内容に関しては、のちほどじっくりお話しいただきたいのですが、最初に先生がどういう経緯で、専門である科学哲学の研究に取り組むようになったのかを教えてください。
松王  学部で学位をとってから30年も経っているので、どこからお話をしたらいいのか戸惑いますが、大前提として、理系、文系という分け方が大嫌いと言いますか、私に合わないなとずっと思っていたんです。
石川  それはいつごろからですか。高校生ぐらいから?
松王  高校生のころからですね。どちらかだけを専門的に勉強するのは、自分の趣味に合わないし、どちらもやりたい。そういう受験生はあまりいないかもしれないけれど、私は高校3年生のときに文学部を受けようか、それとも理学部を受けようかで迷ったんです。文系と理系の両方に興味・関心があって、何か一緒にできるような研究分野があればいいなということを、もうずっと考えていました。
 結局、入学したのは京都大学の文学部で、最初は倫理学を勉強していたんですが、ちょうど私の指導教員だった内井惣七(うちいそうしち)先生が「科学哲学」という新しいコースをつくられた。これこそ自分がやりたいと願っていた分野ではないかと思い、私もそちらに入ることにしました。これが科学哲学に入ったきっかけですね。
石川  なるほど。まだ当時は、科学哲学という分野じたいが、それほどメジャーではなかったんですね。
松王  そうですね。少なくとも日本の大学では、きちっとした形で教育の中に入っていませんでした。
石川  当時の先生は、科学哲学をどのように捉えていたんですか。
松王  大雑把にいえば、科学研究をそのままおこなうのではなくて、その前提になっていることや、あるいはその判断の基準を探るのが科学哲学なんだろうな、と。まあ、だいたいその見方は間違っていなかったなと思います。
石川  素人的に考えると、科学も哲学も両方とも歴史がありすぎて(笑)、これをガッチャンコするというのはさぞかし大変なんだろうと思ってしまうんですが。
松王  まあ、ただ歴史的なことを言えば、科学と哲学は最初から違う分野として成立して、発展してきたのかというと、決してそうではないわけですよね。もともとは、哲学という大きな枠組みがあり、その中の一分野として「自然哲学」があった。それが、今日の科学として成立していったわけです。
石川  そうですよね。ニュートンも科学者ではなく自然哲学者だった。
松王  17世紀、18世紀はそうですね。それがだんだんと哲学と科学に分化していくことになりましたが、科学哲学は、ある意味では、そのように分岐した道をもう一度ひとつにしようという考え方が根っこにあると思います。

●確率の解釈はひとつではない
石川  では、本の内容について伺いたいんですが、まず先生の訳者解説では、「確率の哲学」と「統計の哲学」は違うということが書かれています。このあたりから、お話いただいてもいいですか。
松王  はい。「確率の哲学」とは一言でいうと、「確率とは何か」という解釈です。なぜ、そんなことを考えるかというと、確率の解釈は一通りではないからですね。
石川  一見、自明に思えるんですが。
松王  思えますよね。たとえば、サイコロを振って1の目が出る確率は、多分小学生でも「6分の1」と答えると思います。じゃあ、「6分の1」の根拠は何か。それを考えてみると、6面あってそのうちの1つだからというのは、ひとつの解釈です。でも実際には、現実にあるサイコロを振って実験すると、必ずしも6分の1にならないかもしれないわけですよね。
石川  10回振ったら、絶対6分の1にはならない(笑)。
松王  ならないですよね。そうすると、6面あるうちの1つだという解釈は、「論理主義的な解釈」と言われ、実際にサイコロを振るほうは「頻度的な解釈」と言われます。ですから、確率は決して自明なものではなく、それをどう解釈するかということが非常に重要になります。そこで、いずれの解釈が妥当かということを議論するのが、「確率の哲学」です。
 それに対して統計というのは、与えられたデータをどう解析するかという話ですよね。もちろんその背景として、確率をどう解釈するかということは入ってくるけれども、主題としては解析手法が焦点になります。その解析手法の妥当性を検討するのが、「統計の哲学」ということになります。

●ロイヤルの3つの問い
石川  証拠からどのような推論を行うのが妥当なのかを考えるということですね。私は、この本の冒頭に出てくる「ロイヤルの3つの問い」を読んだだけで、感動しました(笑)。「証拠から何がわかるのか」「何を信じるべきか」「何をなすべきか」は、区別しなければいけないんだ、と。
松王  ええ。目的が違う。
石川  たとえば私の専攻である公衆衛生の分野でいうと、「タバコを吸うと健康に悪いのか」という問題も、この3つの問いで整理できると思ったんです。「現在の証拠から何がわかるのか」というのは、喫煙者が3人いたときに、1人はなにがしかの健康被害があって、健康を害している。2人は何もない。これが証拠から言えることですね。
松王  直接言えること、最初に言えることはそれですね。
石川 「何を信じるべきか」は、タバコは健康に悪いと信じるかどうかという問題で、これは信念にかかわる問いです。「何をすべきか」は、タバコをやめるべきかどうかという行為にかかわってくる。この3つは全然違う問いだということが、私にはものすごい衝撃で。
松王  ああ、そうですか(笑)。
石川  世の中のさまざまな議論を見ると、こういった問いの区別を自覚しないで、いろんなことを言ってますよね。私も、なぜレベルの違う議論をするんだろうとモヤモヤしていたんですが、こういう整理をすると、すごくよくわかる。
松王  そうですね。ロイヤルさんの場合は、科学的な探求としてはどの問いが一番ふさわしいかを最終的に考えようとしています。彼の立場は、「証拠から何が言えるか」に答えていくのが統計学の仕事だし、科学における統計学として妥当な形だというものです。
石川  この「ロイヤルの3つの問い」に対して哲学的な基礎づけをしていったのが、ソーバー先生なんですね。この本に初めて触れたとき、松王先生はどういう感想を持ちましたか。
松王  もう本当に、心躍りましたね。ああ、これがやりたかったんだ! ということでね。幸いなことに、この本にはヒントがちりばめられているんですけど、詳しい背景的な議論についてはほとんど書いてくれていない。だから、この本は注釈がすごく多くなったんですけれども。
石川  ああ、そうですよね。僕もこの注釈を何度も何度も行ったり来たりしながら読んだし、注釈そのものが勉強になったので、とてもありがたかったです。詳しい訳注が70近くあって、どれも非常に丁寧に書かれています。
松王  この訳注をつける作業が、もう楽しくて仕方なかった。本当に寝食忘れる感じでやってました。自分が学べる喜びもあるし、こういう形で世の中に「統計の哲学」を紹介できることの喜びと両方ありましたから。これを訳していた期間は、僕の人生の中でも一番楽しい時期のひとつかもしれませんね。

●エビデンスをどう考えるか
石川  この本は、統計学についてかじったことのある人は、ものすごく面白く読めると思うんですが、統計学を知らない人だと、なかなか読み進めるのが難しいかもしれません。そこで、一般的な話題を材料にしたいんですが、最近「エビデンス」という言葉が、メタボと同じぐらい広まっています(笑)。何かの効果を説明するときに、二言目には「エビデンスに基づいて」とか言いますよね。昨今のエビデンス流行りについて、先生はどうお感じですか。
松王  エビデンスを求めること自体は、それほど悪いことではないと思います。実際、本の中で支持されている「尤度(ゆうど)主義」は、エビデンシャリズム、証拠主義とほぼ同義で言われていますから。
石川  尤度主義を噛み砕いて説明すると、どういうことになるでしょうか。
松王  尤度主義は、基本的に比較に基づく考え方です。異なる仮説が2つ以上ある場合、得られたデータを導く上でどれが一番確率的に優位になるかというようなことですね。そういう相対的な比較の中で仮説を評価しようというのが尤度主義です。
 それに対して「頻度主義」という言葉があります。こちらは、しばしば仮説を棄却する、あるいは採択することまでやる。つまり、正しいか間違っているかという判断をするんです。尤度主義は単に相対的な比較しかしないということですから、「どちらのほうがより支持されるか」というところで判断をとどめようとする。これが尤度主義の基本的な考え方ですね。
石川  尤度主義は、真偽の判断まではしないわけですね。
松王  ええ。一足飛びにそこまで行かないし、行けないでしょう、というのが尤度主義です。だから非常に控えめな考え方とも言えるわけですが、確実に言えることにとどまろうとする、より客観的な結論を得ようとする立場であるとも言える。
石川  いまの話をふまえたとき、最近のエビデンスはどう整理できますか。
松王  その場合、エビデンスが何を指すかが問題なんですよ。それがもし尤度主義的な考え方に基づくのであれば、非常に健全なものだと思います。しかし、一般に多用されているエビデンスは、おそらく尤度主義とは違いますよね。あちこちにはびこっている「エビデンスに基づいている」という言い方は、「統計的なp値(有意確率)を用いて、正しいかどうかを判断しました」という形で使われていることが非常に多いと思うんです。
石川  たとえば、飲み物Aと飲み物Bを比べて、Aのほうが効果があることを示す場合、「AとBには効果の差がない」という逆の仮説を立て、それが起こる確率を調べる。これがp値ですね。このp値が、0.05より小さいと、「AとBには効果の差がない」という仮説が棄却されて、Aのほうが効果があると判断する。トクホ(特定保健用食品)なんかでも、p値が0.05より小さいことをエビデンスと呼んでいる気がします。
松王  そう思いますね。でも、その考え方はもう改めないといけない。これは私だけが言っているわけではなくて、学術的にはあらゆる方面で、p値の単純な適用で、何が正しいかを直接的に判断するのはおかしいということは常識化してきていますから。日本の統計学でもそういうことは自覚されてきていますし、統計を使っているさまざまな科学の分野でも、「考えないといけないよね」という動きにはなってきています。
石川  p値は、英語では“p-value”ですよね。私たちはp(probability=確率)の議論ばかりしていて、本当のヴァリュー(価値)がどこにあるのか、全然議論していない。
松王  本当にそうですね。
石川  世界的に、このp値という考え方が崩れ始めてきているのは、どうしてなんですかね。
松王  いままでp値ベースで議論が進んできたけれど、その通りの再現実験ができないといったことが、学者の間で大きな問題になってきたことがひとつの背景としてあると思います。特に医学系はそうですね。「ネイチャー」誌でも、p値を疑問視する特集が組まれましたし、統計学会でも盛んに問題になっている。要するに、それを実際に使ってきた弊害が出ているということですね。
石川  それに対して、尤度主義はどういうふうに捉えたらいいでしょうか。
松王  尤度の捉え方は必ずしも一様ではないんですけれど、仮説に関するひとつの物理的な性質と考えれば間違いではないかな、と思います。先の「ロイヤルの3つの問い」で言えば、「証拠から何が言えるか」、つまり証拠から直接言えることだけを言うのが尤度なわけですから、仮説に関して成立する、誰も疑いようのないひとつの物理的な性質、という捉え方がわかりやすいんじゃないでしょうか。

[構成:斎藤哲也]