考える達人

最終回  考えることをどう考えるか
松王政浩さん:後篇

いよいよ、この連載も最終回です。最後にふさわしく「考える」ことの本質に迫っていきます。人間は「自分」を疑うことができるのでしょうか?

●科学は真理に到達できたと言えるか
石川 『科学と証拠』は、研究者の友達にはみんなに薦めました。そうすると、みんな、私と同様に、目から鱗だというんです。ただ、なぜ、研究者はこの本に衝撃を受けるんだろう、ということがちょっと不思議というか。うまく説明できなかったんです。
 自分なりに考えると、統計的な推論の大元が体系的に提示されているすごさもあるんですが、もっと深いところで、「知識とは何か」とか「私たちは知識をどう認識しているのか」ということに関して、暗黙のバイアスを見破られている感じがしたんです。
松王  それはあると思いますね。この本に限ったことではないけれど、実際に統計学の根本を探っていくと、私たちが持っている真理に対する考え方がいかに漠然としているか、あるいは非常に極端な考え方をとっているかということに気づかされます。
 科学研究の目的は「真理の探求」だとよく言われますよね。じゃあ、科学は真理に到達したと言えるのか。科学哲学者だったら、「そんなことはとうてい言えないでしょう」と答えますし、科学者もたいていの人は「そこまでは言えない」と答えると思うんです。確かに真理の探求は目的ではあるけれども、そこに直接到達できる手段を私たちは持っているわけではない。そうすると、科学研究にしても日常的な思考にしてもそうですけど、真理との距離感をどう見積もればいいのかという問題が重要になってきます。この点について私たちはあまりに無自覚だと思うんですね。科学者の中にも、そのへんの自覚が少ない人はいると思います。
石川  特に、人や社会に関わる問題では、100%の真理はないじゃないですか。一方で、絶対に起きないかというと、そうでもない。
松王  ええ、そうですね。
石川  その100でも0でもない間の中で、私たちは真理らしい説を探しているんですよね。
松王  まさにそうですね。その場合に何が重要かというと、統計的な手段だけで100%に到達できることは当然ないわけです。統計的な解析は、真理に近づくための補助具でしかないということですね。僕の尊敬する世界的な統計学者は、「科学的な真理とは、人と人との合意形成だ。それに尽きる」と言っています。結局、統計解析なんていうのは、合意形成する上でのひとつの手段にすぎないということですね。何か確実な方法に頼りたいということは誰しもあるわけですけれども、そんな方法はないんです。
石川  それは深いですね。証拠から「これが真実です」ということは言えなくて、合意形成に尽きる、と。いやー、それはすごいなあ。

●分野によって統計解析の目的は異なる
石川  いろんな分野の人と仕事をすると、分野ごとに、統計のなかで注目するポイントが違うんです。単純化していうと、たとえば「y=bx」という関数があったときに、コンピューターサイエンスの人は目的変数yに興味があって、yの精度を上げたい。医学の人はxという要因に興味がある。経済学の人はbですね。どこに興味を持つのかによってこんなに統計手法が変わるのかと、私自身もコラボしてみて初めて気づくことがあります。しかも、お互いがお互いをバカにしあっているんですよ。「あいつがわかっていない」って(笑)。
松王  それに関連して、一緒に研究をしている統計の専門家から、最近、面白い話を聞きました。その人のバックグラウンドは生態学なので、データ的には生態学が詳しい。そこで、生態学に関するデータを使って、他の分野の人に統計解析について教えようとしたら、やっぱりなかなか勘所がわかってもらえないことがあったそうです。
 石川さんがおっしゃった注目の違いというのは、統計解析で何を得ようとしているかという根本の目的の違いとも関係するんですね。そういう意味では、統計学教育というのは難しい。その生態学の人は、最近流行りのデータサイエンス学部みたいなものをバカにしていて、私もその気持ちはわかります。本当にそういう一括の教育で、それぞれの分野で本当に役立つような教育ができるのかということですよね。そこはよくよく考えないといけないところだと思います。
石川  一方では、この本で議論しているような哲学的な問題は、どんな統計であっても土台になるものだと思います。他方では、先生が今おっしゃったように、学問ごとに注目しているところや目的が違う。
松王  教育の中でも、最終的に個別の科学に適応できるところまで分化していくシステムがうまくできるといいんですが。この本に書かれていることは、その土台になりうるかなとは思いますけど。

●モデルとは何か
石川  先生が最近、関心をもっているのはどのようなテーマですか。
松王  宣伝みたいで恐縮なんですが、昨年『科学とモデル――シミュレーションの哲学 入門』という本を翻訳しました。「モデル」という概念は、いろんな分野で共通しているわけですよね。しかし言葉は共通しているけれども、必ずしもその使い方は共通していないかもしれない。モデルとかモデリングということについて、どれだけ科学者はわかっているんだろうと。科学哲学のなかでは、「モデル」という概念の成り立ちに関して、わりと長く議論をしてきた歴史があります。そういった議論と現代の科学を付き合わせる中で、モデルについてもう少し深い理解を得よう、というのがひとつのトレンドかなと思いますね。
石川  みんながさまざまな「モデル」を作ってきたなかで、「はて、モデルとは何だ?」と。『科学とモデル』では、科学のモデルは、具象モデル、数理モデル、数値計算モデルという3つのカテゴリーに分けられると書かれています。モデルの科学哲学は、どういう議論をしようとしているんですか。
松王  いまのところ、科学者があっと驚くような結論が導かれたということはないと思うんですね。まず、モデルの分類から始めないと仕方ない。私たちは「モデル」「モデル」と、あちこちで勝手に使っているけれども、何種類ぐらいに分類するのが妥当かという問題があります。『科学とモデル』の著者であるワイスバーグの結論は、石川さんが挙げた3種類ということなんですが、そうじゃないという説もあります。
 いずれにせよ、すべてはそこから始まっていかざるを得ないところはあるんですが、そのあとは、対象とモデルの間にどんな関係があるのか、というところに話が進んでいくわけです。「モデルというぐらいだから、対象とどこか似ているんだろう」と思うかもしれません。つまり類似性ですよね。しかし、モデルと対象が似ているというときの基準は何だろうかといざ問われると、なかなかはっきり答えられない。あるいは、似ている度合いは、どうやって測ったらいいのかという問題もあります。
 こうしたモデル化は科学者が経験的におこなっていることがほとんどで、一般的にも、経験に基づいて直感的に判断しているところがあると思います。何かそれを測れる尺度があるのか、ないのかということが、モデルの哲学の重要な議論のひとつです。
石川  それは、相当本質的な議論ですね。モデルと対象は、物理学で言うと、理論と現象みたいなものですよね。それを行ったり来たりしながら科学は発達してきたわけですけれど、あらためて今、そこから考え直そうとしているんですね。
松王  そうですね。もう当たり前のようにして私たちが考える土台として、意識もしないような形で使ってきたものですよね。しかしいざ問われると、何も答えられないというようなことだと思いますね。
石川  科学も哲学も、そういう漠然とした概念を具体的に定義する中で進んでいくということはありますよね。社会科学で今最もホットなのは、「ウェルビーイング(well-being)」という概念です。人が満足して生きるとか、幸せに生きるというのはどういうことなんだろうか。そこから始めようよ、という議論になっている。これも古今東西で考え尽くされたようでいて、意外と考えられていないんです。
松王  いつの間にか常識化してしまっているというか、思考の背景に追いやられてしまっているものが結構あります。哲学のひとつの役割は――哲学者だけの役割じゃないかもしれないですが――、そういったものを丹念にひとつひとつ明らかにすることにあると思いますね。

●考えることをどう考えるか
石川 「考える」ということも、まさに盲点になっているような気がするんです。「考えるとは何か」ということを、私は一度も習ったことがない(笑)。習ったことがないのに、先生たちから「ちゃんと考えてから持ってこい」とか言われたなと思って(笑)。「考えるとは何か」ということを、先生は考えられたことがありますか?
松王  ええ、ある意味では常々考えていることかもしれません。『考えることを考える』(ロバート・ノージック著)という有名な哲学書もあります(笑)。哲学は、そういう思考の基盤や方法を探ろうとすることなので、常にそういう意識で動いているということはあると思います。でも、一般にはなかなかそういう問いは立てられないし、立てたとしても、何をどういうふうに考えることを考えていけばいいのかということは、なかなかわからないかもしれませんね。
石川  科学の世界では、考えることの武器といえるのは、デカルトの演繹とベーコンの帰納ぐらいなんですよ。何かを定義して演繹的に進んでいくのか、データから帰納的に何かを見るのか。400年前に開発されたものをいまだに使っているんですが、他にないのかな、と常々考えているんです。
松王  推論方法というのは、思考のアルゴリズムの問題になりますが、これは非常に難しい話です。人間がどうやって思考しているかということを、明示的に示せるかというと、基本的にはまだできていない。「考えることを考える」というのは、非常に難しい作業で。自分たちがやっていることを記述的にきっちり取り出せるかという問題があって、これはまず無理だと思うんですね。
 それができるなら、人間を再現したAIが既にできているはずです。でも、そうはなっていません。AI研究は、一方で合理的な推論方法を探ると同時に、人間の思考方法なり、そういうメカニズムを探ることが目的としてあると思いますが、まだどちらも明確な答えは出ていないということですよね。
石川  文科省の人たちは、「考える力を育もう」とか言うわけじゃないですか。でも「考えるとは何か」をあなたたちは考えたことがあるのか、と常に思うんですよね。
松王  それはおっしゃる通りです。「考える力を育む」と言う場合、おそらく2つの意味があります。1つは、いかに効率よくパターンを利用できるかという意味での「考える力」があります。もう1つは、どんな形かわからないけれども、何か創造的な結果を出せる力という意味です。でも、後者の創造的にものを考えるプロセスが何かということは、誰にもわかっていないわけです。なのに、そういったことを押し付けるのは、ものすごく無責任極まりないことだと僕は思いますね。
石川  そういう意味で、僕が哲学の人を見ていつも面白いなと思うのは、ものすごく大元から考えているところです。哲学者の本って、見るとわけがわからないんですよね。そんなところから組み立て始めるのか、と。「我思う、ゆえに我あり」じゃないですけど、疑って疑って、最後に残った「疑っている自分」がいることは間違いがない。そこから考えようとか(笑)。
松王  すごい極端ですよね。
石川  すごい極端ですよ。やっぱり人って弱いもので、流行や権威に飛びつきやすいと思うんですが、哲学はあえて大元から考える。そのためには、大元までたどり着く力が必要ですよね。それはどういう力だとお考えですか。
松王  一言で言うと、疑う力ということでしょうか。あるいは、ものをずらして見る力ですね。結局、哲学者は大元から考えようとするけれども、それできちっとした答えを導けたことはまずないわけですね(笑)。ないけれども、その哲学者を見て、ほとんどの人は「これは重要なことだ」と、問題の重要性には気づくわけです。その意味では、哲学者というのは、ずらして見ることに非常に長けた人だし、ひねくれた人たちと言えるかもしれません。「常識を疑う」ということをよく言いますけど、その力は大元から物事を考えようとするときには必ず必要です。
石川  みんながなんとなく言っている常識を疑うことはできるかもしれませんが、ほかならぬ自分が常識的に思い込んでいることに気づくのはすごく難しい。
松王  最近、クリティカル・シンキングということがよく言われます。物事を合理的に考えるための思考訓練ということですが、そのなかには、疑う訓練というのはそれほど含まれていないんじゃないかと思うんです。言ってみれば基本パターンを示して、それを上手に使っていきましょうというのがクリティカル・シンキングの重要な柱になっています。でも、一番重要なのは、今、石川さんがおっしゃったように、自分がなかなか気づけないようなところの裏側にいかにして入り込むかということなんです。
石川  その出てないところに気づけた人がすごいんですよね。
松王  そういった思考訓練をしていくときのひとつの道筋として、ギリシャ時代にアリストテレスが『ニコマコス倫理学』のなかで唱えた「中庸」という考え方があります。両極端な性質を避けて、そのちょうど中間にあたるような道を選んでいく生き方が優れた生き方だ、というのが「中庸」の考え方です。
 一方には、物事に対して非常に慎重で、少しでも危険だと避けようとする態度がある。他方には、自分がやりたいと思うことはリスクにかかわらずなんでもやってしまうという向こう見ずな態度もある。これが両極端な態度として考えられるときに、その間の中庸という態度が考えられます。それは思慮分別の態度と言われますが、そういった態度を選んでいくのが、最も智慧のある生き方だというのがアリストテレスの考え方です。
 これは倫理的な実践知の話として言われているけれど、物事を考えるとき一般に当てはまることなのかなと思うんです。ものを深く考えようとするときに、両極端を立ててみる。それぞれの間でよりいっそう適切な考え方がないかと探ってみる。そういう思考が、もしかしたらその裏側を見ていくための道筋になるかもしれないですね。

[構成:斎藤哲也]