荒内佑

第19回
iPhone SF

今、注目のバンドceroのメンバーとして多くの楽曲で作曲、作詞を手がける荒内佑が、〈日常〉とそこに流れる音楽の話を綴る大好評の連載が公開中です。 更新は毎月1回、第4水曜日になります。

 
 「iPhoneが欲しいのでパチンコにいってきます」と言って彼女は家を出て行った。狩人が獲物を狩りに行くときのような頼もしさ。ぼくは「いってらっしゃい」としか言えない。数時間後、猟銃で撃ったウサギや鹿ではなく、CRエヴァンゲリオンを打ち使徒を殲滅した彼女は、現金5万円を持ち帰る。ぼくは尊敬の眼差しで見つめる。金はないが欲しい物がある、だったらパチンコ、というシンプル過ぎる彼女がとても好きだ。そして「一緒に買うと安いから」という理由により、ぼくはお気に入りだった韓国製ガラケーを解約し、iPhoneを買うことになった。8年前の話である。なんのこだわりもないので未だにその時のiPhoneを使っている。ボロ過ぎてアップルミュージックとかそういうのは使えない。


 iPhoneに限らず、スマホ、ひいてはその中で一番強力なファンクションであるネットが消し去った、縮小させたモノを挙げたらきりがない。カメラ、メモ帳、スケジュール帳、ポータブルCDプレイヤー、iPod、小型ゲーム機、とか。それによって人々のカバンはどれほど軽くなったのだろうか。よく聞く話だが。グーグルの会長は以前「インターネットは消える運命にある」と発言したらしい。その真意は、簡単にいえば「あらゆるガジェット、デヴァイスはネットに接続され、その存在をわれわれは意識しなくなるだろう」という回りくどい話だった。なんだそんなことかよ、と思う反面、この発言は例えばスパイク・ジョーンズの映画『her/世界でひとつの彼女』で描かれた近未来の世界を思い出させる。主人公の中年男性は、音声のみの存在である人工知能のOSと恋におち、ヴァーチャル・セックスをし、暗い部屋に浮かび上がるホログラム状のスクリーンでゲームに興じる。この世界ではまさにガジェットの存在感は希薄である。インターネットが消えるとは、あらゆる空間がより直接的にネットに繫がっている状態、と言えるだろう。


 ものすごい曖昧な記憶で書くので多少の間違いはご容赦願うが、アンリ・ベルクソン(という哲学者)は「目があるからものが見える」のではなく「目があるにもかかわらずものが見える」ということを言っている。要は目が視覚を可能にしているのではなく、生物には「見ようとする意思」が先にあり、その意思が目を形成する。そして生物は目という組織によって視覚が「制限されている」という意味である。グーグルの会長もベルクソンもなんて回りくどいんだ。だが、両者とも同じ発想ではないだろうか。彼等の言うことを鵜呑みにして、合わせ味噌にして言うならば、「スマホがあるにもかかわらずネットに繫がっている」のだ。つまりネットがこの世に先天的に存在するとする(今の若者にとっては事実である)。そしてネットが「接続しようとする意思」ならば、その接続はスマホによって「制限されている」。スマホがガラケーを駆逐したように、ネットがスマホを駆逐し、『her』のような未来が到来するのはSFだろうか。究極的な形は、人体がインターフェイスになってネットに直接接続されることだろう。ぼくにはさほどトンデモ論には思えないし、すでに散々語られているはずだ。


 話を現実に少し戻す。スマホやタブレットに機能を一本化することは、意外にも宗教的な問いを誘発する。それは本当に必要か? その本質は? 例えば音楽におけるCD。あの円盤やブックレット、ケースは本当に必要だろうか。音楽を聴くとき、それらは余分な情報ではないのか。データ化された音楽はパッケージや物質としての重力から解放されているので、より音の本質と向き合えるような気がしてくる。いや、実際本質的なのかも知れない。前述したようにスマホは多くのモノを消し去り、最低限のモノ、ガジェットしかない空間は、禅宗の僧侶の生活を想起させる。しかし人類は皆、真理を追い求める修行僧か? アップルミュージックをはじめとするサブスクユーザーは、文字通り天から降り注ぐ音楽を直接耳に入れる訳だが、知らず知らずのうちに厳しい修行を行っているように思えてならない。しかし、反対に最低限のモノしかなくなってしまった空間――例えば瓦礫になった戦場において、スマホが担う役割はとても大きいだろう。批判したい訳ではなくて、本当に変わったな、と思うばかりだ。

 

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