上田麻由子

第18回・まぼろしのギムナジウム

宝塚歌劇花組公演 『ポーの一族』

 イギリスの港町ブラックプールにある両家の子息たちが通う学び舎・セント・ウィンザー。そこに、1人の転校生がやってくることが告げられる。貴族の子息、エドガー・ポーツネル。しかし、そんな鼻持ちならない奴は受け入れられないと少年たちは息巻く。なにしろここにはすでにアラン・トワイライトというリーダーがいるのだから。いざあらわれたエドガーに対し、最初こそ無関心を装っていたアランだが、しだいに敵意をむきだしにし「僕の遊び場」での「アラン・トワイライトの規律」を突きつける。しかしそんな挑発にも決して折れないエドガーは、不敵に微笑むのだった……。

40年の時を超えて

 萩尾望都の『ポーの一族』を、宝塚歌劇が舞台化する。この事件を「2・5次元」という文脈で語ることが果たして適切かどうかはひとまず措くとして、少なくとも少女漫画が原作の舞台化として、これ以上センセーショナルなニュースはない。少女漫画の黄金期「花の24年組」の代表作であり、思春期の愛憎うずまく人間関係をパブリック・スクールやギムナジウムに託し、少年どうしの密な関係を描く今の「BL」の源流として、あるいは愛について、生について、恐れについて、信仰についてというような、もっと大きなテーマを探求した作品なのだから。その魅力は連載が始まった1972年から40年以上の時を経ても、永遠に枯れない薔薇のように読む者の心に突き刺さり、いつまでも血を捧げさせる。

 文庫版のあとがきや、パンフレットなどで語られているとおり、いまや宝塚や東宝をはじめ、日本を代表するミュージカル作品を演出している小池修一郎は、そもそも大学生の時に触れた『ポー』を上演したいという思いがきっかけで宝塚歌劇演出部の門戸を叩いたという。いっぽう原作者の萩尾望都も、こと本作の舞台化に関しては長年決してOKを出さなかったという伝説もある(事実とはやや異なっていたことが今回、明らかになるのだが)。まさに機は熟した、あるいは小池の言葉を借りるなら「神は封印を解かれた」というべき大事件なのだ。

 同じ萩尾作品でも1996年の『トーマの心臓』を皮切りに、『11人いる!』『メッシュ』『マージナル』などが、男性だけの劇団Studio Lifeによってすで何度も舞台化されている。しかし今回、萩尾作品の本丸たる『ポーの一族』が上演されるのは、女性だけの宝塚歌劇。主人公のエドガーとアランは永遠に14歳の少年、しかもただの少年ではなく美しい、しかもバンパネラになる少年たちである。それを成人女性が演じるのはさぞかしハードルが高いだろうと思われた。だが、公演前に発表されたキービジュアルのエドガーの表情を目の当たりにして、わたしたちは美少年というのはあくまで概念であり、女性の身体をもってしても、いやだからこそ表現できると知ることになる。

絵のような美しさ

 白いフリルのブラウス、胸元に緩くむすばれたリボンは華やかに、しかしあくまで上品に美貌を引き立てる。考えにふけるような、企むような表情。目線はすぐそばにいる誰かに注がれているようで、ここではないどこか遠くの世界を思っているようでもある。古い日記から滑り落ちた写真めいたセピア色のなかで、青い双眸と、手元のグラスに注がれた液体の赤が目を惹く――。

 舞台の幕が上がり、4人の「バンパネラ研究家」によって舞台に呼び込まれるエドガーが、赤い薔薇を一輪たずさえて歌い出した瞬間に、その悪魔的魅力はすべてをとりこにしてしまう。原作で読み、わたしたちの心に取り憑き、夢で幾度も出会った、あのエドガーそのものを男役トップスター・明日海りおの身体のなかに降臨させてしまったことが、本作のなによりの魅力であり、説得力の源であり、また罪作りなところでもある。この時代に居合わせた幸運に、ただただ感謝するしかない。ギムナジウムの教室で、たまたま「彼ら」と同じ時を過ごした一少年と同じように。

 とにかく原作に忠実に、愛をもって接していることが随所にうかがえる本作。科白やモノローグは時にメロディーに乗って歌われることで、そこに込められた感情に新たな光が当たる。また絵についてみても、その宝塚らしい華麗でドラマチックなステージング、回転舞台を使った見るものを飽きさせないスピードと緊張感を両立させた展開のなかで、原作のコマがフラッシュバックする瞬間が何度もある。特に印象的だったのは、バンパネラになったエドガーがポーツネル夫妻、妹のメリーベル(彼女の可憐さといったら!)とともに、イギリスのブラックプール・ホテルにやってくるシーンだ。階段の上で並ぶ4人が「きれいなご家族」「まさに一枚の完璧な絵のようだ」と客人たちに称賛される、そのシーン自体がまさに原作から抜け出してきたように完璧で、客人たちの言葉はわたしたちがそれまでのシーンに対して何度も感じてきたことを代弁している。

霊として降ろすこと

 前述の「バンパネラ研究家」4人が伝説を紐解くという外枠を用意しつつ、原作から「メリーベルと銀のばら」と「ポーの一族」を主に取り上げ、あくまでそこに忠実に物語が進んでゆくなかで異質に感じるのが、その第1幕第9場からのホテル・ブラックプールに登場する世界一の霊能者、マダム・ブラヴァツキーと、彼女の降霊術会だろう。降霊術というモチーフ自体は原作「ホームズの帽子」にもあるが、ここでは敢えて非常に印象的な人物としてブラヴァツキーを登場させ、その周りのエピソードに時間がとられている。ここには、新しいものを受け入れられない、因習に囚われた人々を描くという意図があるのだろうが、それだけでない。40年の時を経て叶えられたこの舞台化そのものが、一種の降霊術を行っているようなものなのだ。

 過去に囚われ、恋い焦がれ、すでに手の届かないところにいる者と、なんとかしてもう一度、話してみたいという願い。それは長年この『ポーの一族』の舞台化を待っていたわたしたちの願いとも重なる。そんな思いが見せるのは幻か、それとも魔術か。過去への憧憬という意味では、このブラックプールの場面が、ゴシックへの憧れが新しくゆたかな文化の開花につながった1879年というヴィクトリア朝のイギリスに設定されていること(マダム・ブラヴァツキーのモデルは実在の神秘思想家ヘレナ・P・ブラヴァツキーだろう)、そして本作が「ミュージカル・ゴシック」と銘打たれていることも頷ける。

 しかし、憧れは憧れでしかない。ブラヴァツキーによって呼び出された大老(キング)ポーは、これからエドガーたちを悲劇が襲うことを警告してくれるのだが、結局、その運命は変えることはできない。物語のなかではあくまで脇役だった「バンパネラ研究家」4人が、謎めくポーの一族の生と、わたしたち普通の人間とのあいだを橋渡ししてくれるいっぽうで、結局わたしたちはいくらエドガーたちの辿る道を知っていても、そこに関与することはできない。「私は大人にはならない」というメリーベルに「私も少女のころはそう思ったわ」と(おそらく少しの胸の痛みとなつかしさを込めて)いうジェインのように(しかし彼女にメリーベルの気持ちは永遠に理解できない)、彼らとわたしたちとのあいだにはもともと大きな隔たりがあって、その断絶は月日とともにどんどん広がっていくばかりだ。そのことに、せつなさを感じずにはいられない。だからこそ、この『ポーの一族』にいつまでもわたしたちは惹かれつづけ、この見事な「降霊術」を楽しみにしてしまったのだろう。

ギムナジウムとしての2・5次元

 さて、エドガーだけでなく、もう1人の主人公にも目を向けよう。冒頭のシーンで「たそがれと闇の中に アラン・トワイライトを連れていく」と宣言したエドガーとともに踊るパ・ド・ドゥのなか、アランは催眠術にかかったような、どこか夢心地の表情をしていた。この世のものならぬ明日海エドガーばかりが言及されがちだが、柚香光のアランも大人になる前の少年ならではのナイーブさをはっきりと宿している。なにより、2人が並んだときの圧倒的な美しさ。周りからは「憎み合っているのか、仲が良いのか」と呆れられる、運命のイニシアチブを取ったり取られたりする関係は、この2人なくしては成立しえなかっただろう。2人の孤独が交わるいくつものシーンや、エドガーとその妹、メリーベルへの愛にアランが揺れる3人でのシーンは、いつまでも忘れがたいものになっている。

 そして悲劇のさなか、エドガーとアランはお揃いのブラウスを身につけ、赤い薔薇の絡まるゴンドラに乗って、「時の輪」を歌いながら、永遠へと旅立っていく。原作では、エドガーが道連れにしたアランとの別れまでが描かれているが(なんと2016年より40年ぶりに連載も再開している)、本作でのエンディングはあくまでもにぎやかだ。最後の舞台は1959年のドイツ・ケルン市、ガブリエル・スイス・ギムナジウム。明るい水色の制服に包んだ少年たちが、かしましく過ごしている。ここでくだんの冒頭で歌われた本作のテーマ曲「哀しみのバンパネラ」は、「ポール・アンカよりも、ダイアナよりいい、初登場チャート1位」として、ロックンロール調にアレンジされている。「この世に生まれ出でしもの いつか亡びて土に還る」という歌詞からは、本作を徹頭徹尾、深い霧のように支配していた耽美さが剥がれ落ち、男子生徒3人による、軽快でどこかお気楽な、つかのまの生の謳歌へと変わっている。

 そして、ひいおじいさんの日記から飛び出してきたような、どこか神話めいたエドガーとアランが変わらず君臨する背景で、テニスラケットやバスケットボールを手に踊り続けるヴァイタリティーあふれるギムナジウムの生徒たちの姿は、あの「ミュージカル『テニスの王子様』」で青春を賭けてラケットをふるう少年たちの姿と、非常によく似ている。

 宝塚を一歩出れば、東宝ミュージカルなどで城田優、加藤和樹、古川雄大など、「テニミュ」出身の美しき男性俳優たちを主役に据えた作品をつくりつづけている小池修一郎が、エドガーとアランのようなバンパネラの安住の地、とまではいかなくても、かりそめの住居、安全地帯としてのギムナジウムを、テニミュが15年も続いているような、この現代の2・5次元舞台シーンのなかに見ているのだとしたら、それは喜ばしいことである。目に見える景色や触れあう人たちがどんなに移り変わっていっても、彼らはもう孤独ではないのかもしれないと、思わせてくれるのだから。

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