PR誌「ちくま」特別寄稿エッセイ

迷惑メールについて

雲をつかむような方法・1

PR誌「ちくま」5月号より中田健太郎さんのエッセイを掲載します

 きっとだれもがそうであるように、私も「迷惑メール」というものが好きで、捨てがたいメールをいくつか記憶や記録にとどめている。不況がつづくうちに、そうしたメールのなかでさえ、性的な申し出よりも金銭的な授受の話題が増えたというのは、ほんとうなのだろうか。いずれにせよ、われわれの迷惑メールフォルダのなかには、魅惑的な誘いかけの一大標本がある。
 顔も名前も知らない深窓の令嬢が、アドレスの符号だけを頼りに何かを感じて送ってきたという、そんなメールは儚いものだ(深窓の令息からのメールも、おなじくらい儚いのだろう)。メールがくるたびに開いていると、彼女はそれに気がつくのか、あるいはしかるべきソフトが反応するのか、返事をしないわれわれの怠惰をなじる。「どうして一歩を踏みだしていただけないのですか。そのためには、返信に必要なポイントをサイトから購入していただくだけでよいのに。しかもそのようなお金は、お会いしたときにお渡しする謝礼によって十分にお返しできるというのに」云々。
 ほんとうにどうして、われわれはあと一歩を踏みださないのだろう。理屈ははっきりとしていて、彼女たちの書いている内容の実現可能性が高くはないことを、どこかで知っているからだ。それはきっとありえない、十分に確率の低い話なのだろう。確率の低いことにこだわりすぎれば、均衡を崩してしまうものだから、そうしたメールに返事をしないのは自然なことでさえある。
 しかしそれでも思うのだが、われわれの迷惑メールフォルダのなかには、ひとつはほんとうの誘いのメッセージが、やはりありうるのではないだろうか。一件のメールの実現可能性の低さは、蓄積されていくうちに、どこかで現実に触れるのではないか。このような考えは、数学的な間違いをふくんでいるとしても詩学的には消えないだろう。というのも言葉は、ありえないはずのものを名指すことによって、ありえないような生をそれにあたえてしまったのだ。だから、どれだけメールの内容の蓋然性が低いと知っても、それに惹かれたことは妨げられない。雲をつかむような話だろうか。言葉は雲をつかむための方法なのだ。

 われわれの日常は、そんなふうに雲をつかんで離さない言葉たちに、ますますとりまかれていくようだ。あらゆる事物の情報化がすすみ、情報が過剰になっていくなかで、事物と出会えそうにない、意味をもてない蓋然性の低そうな言葉たちが、あちこちにちらばっている。
 たとえばインターネットの罵倒語に、「むしろ生きろ」というものがかつてあって、私はそんな言いまわしが好きだった。虚しく重なる罵倒語は、意味内容をもたないがゆえに生死の価値を反転させて、「むしろ生きる」ようにとだれかに命じることができる。雲をつかむような言葉だけにもちうる詩学が、きっとありえて、私はそれを日常のなかからかき集めてみたい。そうすることによって、どうして一歩を踏みださないのかという、彼女の虚しくも魅惑的な呼びかけに、ポイントを買うのとはちがう仕方で応えてみたいように思うのだ。

PR誌「ちくま」5月号