人生がときめく知の技法

第29回 エピクテトス先生をアップデートする(その三)

 

巨人の肩の上に乗る

吉川 前回は、政治・経済の観点から、エピクテトス先生が生きた時代と現代とを比べてみました。

山本 帝政ローマの社会と現代日本の社会では、そこで暮らす人びとの権能のおよぶ範囲がずいぶんちがう。

吉川 そこのところを見極めないといけない。

山本 そうでないと、なにが権内のものでなにが権外のものであるのかの判断もできないだろうね。

吉川 もし上司や社長をローマ皇帝のように考えてしまったら、ブラック企業の思うつぼになってしまう。

山本 権内/権外の境界線は、時代や場所に応じてある程度は動くものと考えたほうがいい。

吉川 勉強しなきゃ。

山本 うん。勉強といえば、エピクテトス先生が亡くなってから2000年、学問もおおいに進展した。

吉川 当時と比べたら、もう別物といってもいいくらいだね。

山本 自然の探究ひとつとっても、ガリレイやニュートンの元祖科学革命、ダーウィンによる生物学の革命、相対性理論と量子力学による20世紀の科学革命と、幾度もの革命を経て、われわれの「自然学」「論理学」はずいぶん豊かになってきた。

吉川 かつて天才のみがなしえた世紀の大発見や大発明も、いまでは教科書などで小学生でも学ぶことができる。

山本 まさに。そんなふうに巨人の肩の上に乗ることで、ものすごく遠くまでを見渡せるようになった。

吉川 医薬や医療、テクノロジーの発展も見逃せない。

山本 そうだね。

吉川 不治の病と呼ばれた病気でも、いまでは治療可能なものとなっていることが多い。

山本 かつては発病したが最後、快復など権外のことと覚悟しなければならなかった病気の治療も、いまでは権内のこととなっているということだね。

吉川 うん。権内と権外の境界線は動いている。

山本 多くは権内の領域を拡大するかたちでね。

吉川 テクノロジーの発展もそうだね。

山本 交通機関の発達はわれわれの移動の能力を、通信機器の発達はコミュニケーションの能力を高めた。

吉川 最近では人工知能プログラムの実用化も急ピッチで進んでいる。

山本 巨人は今後も成長をつづけるだろうね。

吉川 どこまでいくんだろうね。

山本 それは神のみぞ知るところ。

 

なにをなすべきか

吉川 神ならぬわれわれとしては、それでも、すべてのことが権内におさまるなんてことはないよね。

山本 サイエンスやテクノロジーの観点からは権内の領域がどんどん広がっているのはたしかだけれど、それでも権外の領域がなくなることはないだろうね。

吉川 難儀だ。

山本 それは有限な存在であるわれわれの宿命だね。

吉川 どれだけ学問や科学技術が進展しても、ままならないことは依然としてある。

山本 ひょっとしたら減ってすらいないかもしれない。

吉川 公害や環境問題などはその最たる例だ。

山本 できることが増えたせいで、かえって新たな面倒を引き寄せるケースだね。

吉川 身近な例でいえば、人間関係は相変わらずむずかしい。

山本 この科学技術の時代に、あらゆる問題のなかでももっとも身近で日常的な問題である対人関係の問題が、あいかわらずこんなにむずかしいというのは、なかなか興味深いものがある。

吉川 考えてみたらそうだ。

山本 おおいに流行したアルフレッド・アドラーの心理学では、人間の悩みはすべて対人関係の悩みである、と言い切っている。

吉川 たしかに、そうかもしれない……。

山本 なぜそうなるかといえば、あたりまえのことだけれど、他人は自分の思いどおりにならないからだよね。

吉川 うん。そしてその他人もまた、そのように考えている。

山本 おたがいがそんなふうに考えているものだから、人間関係はこじれてしまいがちだ。

吉川 他人はままならないものと割り切れたらいいんだけど、なかなかそれができないで、ぐずぐずと悩むことになる。

山本 本来、権外にあるものを、強引に権内に引き入れようとしたって、それはできない相談だ。

吉川 やっぱりここでも、権内と権外の境界線を見極めることが大事なんだね。

山本 そして、まさにそれこそエピクテトス先生の「倫理学」のテーマでもある。

吉川 対人関係の話題が出てきたところで、以前紹介した相談にふたたび登場を願って、現代的な観点からなにが言えそうか、あらためて考えてみようか。

山本 そうだね。それでこの連載も終了かな。

 

 

 

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