水木サンと妖怪たち

世の中には不思議なことが多すぎて……

 私は、子供の時に頭の中に入ってきた、カミサマの観念から、いまだに抜け出せないままでいる。
 大人になってから、いろいろな〝ヒト〞の神様、例えば、菅原道真とか、武将をカミサマにしたものなどは、どうしたわけか、ぜんぜん受付けない。
 子供の時、出来上がってしまった、カミサマ観は、アニミズムに近いもので、妖怪とごちゃまぜになったものだった。
 神社には、願いごとをかなえてくれるカミサマがいた(それはどうしたわけか、ひげを沢山生やした男の形だった)。お稲荷さんには、狐とおぼしき神がいた(これは狐の形で頭に入ってしまった)。道端によく、団子なんかがおいてあるのは〝狐落し〞のまじないであった。また家から千メートル位はなれた〝病院小屋〞には幽霊に近いものがおり、その近くをながれる〝下の川〞には河童がいた。従って、この川には小学校五年生くらいまでは、あまり近よらないようにしていた。
 島根半島の山には所々に祠があり、名前も分からなかったが、なにか・・・神霊に近いものがおり、この山を掘ってみれば、なにか出るというのは、この間まで信じていた。
そもそも私を〝神秘主義者〞にしたのは、近所にいた、五歳の松ちゃんという女の子だった(同年だったので仲が良かった)。畠のある、水のない川で遊んでいると蛇が出てきた。
「うわーっ蛇だ」といって指をさしたのがいけなかった。松ちゃんは、蛇はたたる・・・から自分の年齢の数だけ、指をかまねばならぬという。即ち指を五回かめば、たたられる・・・・・ことはないというわけだ。私は、ヒジョーニ・・・・・、おどろいた。こんな不可思議なことってあるだろうか。そのショックが、私を神秘主義者にしてしまったようだ。
 今になって考えると、世の中には不思議なことが、多すぎて、とてもたのしい。

5歳の頃、水木しげるが〝見た〟不思議な世界

 

「不思議なことが多すぎて」世界じゅうを飛び回った水木しげる。
どんな日々を送っていたのか、編者・松田哲夫の解説も無料公開!

水木しげる・九〇年代の充実した日々
編者 松田哲夫


 この本には、水木しげるが、一九九〇年代に発表したエッセイ、旅行記、対談などのうち、「妖怪」や「旅行」に関わるものを厳選して収録した。(すべて、単行本未収録のものである)。
  九〇年代には、水木はほぼ七十代だった。だが、いたって元気で、充実した日々を送っていた。それまでの彼は、六〇年代後半からの人気急上昇にともない、多忙な毎日が続いていた。しかし、売れっ子の漫画家、手塚治虫が睡眠時間を削って仕事をし、早死にしていく姿を見て(八九年没)、水木は仕事や生活の方向を変えようと真剣に考えたようだ。
 まず第一には、漫画の連載を減らすこと。これは、八〇年代から始めている。漫画が嫌になったわけではなく、締め切りに追われ、睡眠時間が削られるという、余裕の持てない生活を続けたくなかったのだろう。
 第二には、日本の(さらには世界の)妖怪の絵を描き続けていくこと。それと並行して妖怪研究も深められた。そこからは、人間の想像力の限界から見て、妖怪の種類の上限は一千種類ぐらいであるという「妖怪千体説」や、気配を感じることはできるが、目には見えない、人魂、幽霊、妖怪、妖精、神々などを一つの視野でとらえようという考え方などが生まれてきた。
 漫画から妖怪画へと重心を移した結果、『カラー版妖怪画談』(岩波新書・九二年)という大ヒットも生まれた。
 この妖怪画シフトは、いつでも漫画を描ける態勢を整えておくという意図も籠められていた。画力のあるアシスタントをキープして、その技術を劣化させないようにしていたのだ。
 第三には、旅行(とりわけ海外)に積極的に出かけること。締め切りに追われていたときには、旅行に行く時間を作ることができなかった。その反動もあったのだろう。そして、これらの旅が、妖怪の探索、研究の広がりと密接に繋がっていたことは確かである。
それにしても、水木が九〇年代に出かけた海外旅行の回数には驚かされる。『Oh! 水木しげる展 図録』(朝日新聞社・〇四年)に掲載されている「詳細年譜」の記述からカウントしてみると、海外旅行の年平均回数の推移は以下の通り。
 七〇年代前半=一・〇回 同後半=一・四回
 八〇年代前半=一・二回 同後半=二・四回
 九〇年代前半=三・〇回 同後半=三・六回
 〇〇年代前半=二・八回
 単年度では九五年の七回が最高であり、九〇年代の合計は三十三回にもなっている。
 これらの旅には、家族旅行や社員旅行もあり、テレビ番組の取材もあった。荒俣宏、井村君江、大泉実成、宮田雪(映画監督・漫画原作者、「精霊の呼び声」に出てくる「M氏」)、多田克己、足立倫行などが同行したり、案内人になったりしたこともある。しかし、どういう趣旨の旅であれ、水木はいつも同じだった。

おお先生は現地に着かれると、よく食べ、よく眠り(放っておけば昼まで御就寝だ!)、よく驚き、よく土産物を買われる。まるで観光旅行に来たかのような気軽さなのだが、そうするうちに、たとえば妖怪の面を被ってダンスする人や、非公開の儀式を行う人、また巫女や、魔法医者といった人々が、自然と大先生のまわりに集まってくるのである。水木大先生が土地の子に妖怪まんがを見せると、子供は興奮して、『これ、森にいる!』と叫ぶ。水木大先生は『そうか!』と驚いて見せる。これで長老や女の人々も集まってきて大騒ぎになる。」(荒俣宏「水木しげるおお先生の妖怪探険」『Oh! 水木しげる展 図録』)

 妖怪画を描き、日本や世界の妖怪に出会う旅を重ねていた九六年、荒俣宏、京極夏彦などの協力を得て、「世界妖怪協会」を発足させ、PR誌「怪報」一号を配布した。
 また同年、「第1回世界妖怪会議」を島根県境港で開催し、第2回(境港・九七年)、第3回(和歌山県田辺・九九年)、第4回(東京都早稲田大学・〇〇年)、第5回(東京都新宿・〇一年)、第6回(東京都調布・〇二年)、第7回(境港・〇二年)、第8回(青森県むつ・〇三年)、第9回(滋賀県八日市・〇四年)、第10回(東京都中野・〇五年)、第11回(広島県三次・〇六年)、第12回(京都市太秦撮影所・〇七年)と続いた。〇九年には、水木総長、荒俣教授、京極教授の「お化け大学校」も開設された。
 九七年に世界妖怪協会公認雑誌「怪」(角川書店、現在はKADOKAWA)が創刊されると、協会や学会の事務や運営などは同編集部に引き継がれていった。
 ところで、京極夏彦との対談で、水木は「妖怪博物館」の夢を語っているが、未だに実現してはいない。コレクションの一部は境港の水木しげる記念館に展示されているが、大半は自宅のプレハブ倉庫に納められている。

 さて、この本の「水木しげる妖怪博物館」の冒頭に出てくる「松田編集長」とは私のことである。ここでは「アシスタントの下の仕事を手伝っていた」とあるが、これはちょっと違う。私は、一九六八年頃、彼から「原作を書いてみないか?」と言われたのだ。半年ぐらいの間に、二十編ほどのあらすじを大学ノートに書いて提出した。「ゲゲゲの鬼太郎」の「妖怪大裁判」「泥田坊」など数編、採用になったが、その後は採用もなく、筑摩書房の編集アルバイトも始めたので、呉智英を後任に紹介して辞めてしまった。ちなみに、原稿料は採用するしないにかかわらず一編あたり約三千五百円だった。
(二〇一六年四月) 

2016年5月24日更新

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水木 しげる(みずき しげる)

水木 しげる

1922年生まれ。鳥取県境港市で育つ。マンガ家・妖怪研究家。戦時中、ラバウルで左腕を失い、戦後神戸で、リンタク屋、アパート経営などをした後、紙芝居を書きはじめ、上京して貸本マンガに転じる。1965年『テレビくん』で講談社児童まんが賞を受賞。『ゲゲゲの鬼太郎』『悪魔くん』『河童の三平』などで人気作家になる。自らの体験を踏まえた戦記物や、妖怪関係の著書も多い。1991年紫綬褒章、2010年文化功労者。2015年没。

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