ちくま新書

京都は一日にして成らず

今や、世界中の人をひきつける有数の観光地である京都は、なぜ今の京都になってきたのか。宗教学者であり、文筆家である著者が、清水寺、金閣寺、苔寺などの名高い神社仏閣のいまだ隠された魅力を見つけ、人を惹きつけてやまない源泉を明らかにする。5月注目の新刊、ちくま新書『京都がなぜいちばんなのか』、その「はじめに」を公開します。

「千年の都」の奥深さ
 ここ10数年、私はたびたび京都を訪れている。仕事であったり、観光であったりするが、この2、3年、京都駅をはじめ、どの場所もひどく混んでいると感じるようになった。
 なにより外国人の観光客が多いのだ。
 もちろん、京都は昔から日本観光の定番の筆頭にあげられる場所だった。著名人が来日すれば、滞在している間、一度は京都を訪れるというのは当たり前に行われていた。
 だが、近年は、ありとあらゆる国からさまざまな人々が京都を訪れるようになっている。むしろ京都観光では、外国人が日本人を圧倒しているような気配さえする。
 たしかに京都は、日本のなかにあっても独特の街である。同じ古都でも、奈良とは違う。奈良には、そこが都であったときに建てられた古寺や古社が今でもしっかりと受け継がれているものの、街ということでは、到底京都の賑わいに及ばない。
 京都には、古い寺や神社だけではなく、独特の文化が形成されている。京都を訪れるということは、そうした文化にふれることでもある。その文化は衣食住全体に及んでいる。
 京都は、「千年の都」と呼ばれる。
 桓武天皇が京都に都を開いたのは延暦13年、西暦に直すと794年のことである。それ以降、一時は鎌倉に幕府が開かれたこともあったが、天皇はその間も京都にいて、京都は都と考えられていた。
 明治に時代が代わることで、首都は東京と定められ、天皇もまた京都から東京に移っていった。それに合わせて、華族に列せられることとなった公家たちも東京へと移住した。
 これによって、京都は都ではなくなる。
 だが、それまで1000年以上にわたって、京都は都であり、そこから「千年の都」という表現が生まれたわけである。
 東京が首都となって150年が過ぎた。その前、東京の前身である江戸には、江戸幕府が開かれ、その時代も日本の中心であった。その期間を入れれば、東京(江戸)が日本を代表する都市となって、すでに400年以上が経過している。
 1000年と400年では二倍以上の開きがある。1000年かけて形成された文化と、400年しか経ていない文化では、そこに大きな違いがあっても不思議ではない。
 だが、それにしても、東京で生活をしていると、歴史を感じることが少ない。そこには、東京が、関東大震災や戦災で焼け野原になったことも影響している。あるいは、江戸時代には富士山が噴火するようなこともあった。
 東京の人間が京都に魅かれるのも、そうした文化の違い、歴史の違いが大きい。
 京都の街ももちろん、近代化が進んでいる。東京駅がレトロな雰囲気を今もって保持しているのと対照的に、京都駅は超モダンな建物である。
 その京都駅のすぐ北側には、建設された当初には議論を呼んだ京都タワーが建っている。これが建ったのは、1964年に東京オリンピックが開催される直前の8月のことだった。
 それまでは、駅の南にある東寺の五重塔より高い建物を建てないのが京都の不文律だった。五重塔の高さは約55メートルで、京都タワーはその二倍以上、131メートルの高さがある。
 今では各都市に131メートルをはるかに超える超高層ビルが建っている。一番高いあべのハルカスなどは300メートルもある。
 それに比べれば、京都タワーは決して高くはない。だが、古都にこうしたタワーが必要なのかどうか、考えはいろいろあることだろう。
 ガラスを一面に貼った京都駅ができたことで、夜、そのガラスに映る京都タワーの姿が、なかなかの見ものになっていることも事実である。今風に言えば、「インスタ映え」するのである。
 東京や大阪では、超高層ビルが建ちはじめると、次々とその高さを競うように、新しいビルが建てられていった。初期に建てられたビルになると、もう超高層ビルとは言えないほどになっている。
 ところが、京都では、建物に対する高さの制限があり、地域によって異なるが、20メートル、あるいは31メートルを超える建物は認められない。その点で、超高層ビルが京都に林立することは考えられない。
 長い歴史を経てきた京都は、いつの間にか、京都タワーも、京都駅も、街の景色のなかにさりげなく溶け込んでしまっている。夜タクシーで京都駅に向かえば、京都タワーまでの距離が現在地を教えてくれる役割を果たしてくれる。

散歩がそのまま歴史探訪
 京都では、長い歴史の積み重ねがある分、ただ散歩していても、歴史を感じさせるものに出会う。
 私にとっては宗教学の大先輩である山折哲雄先生が、そのことを本のなかで書いている。『法然と親鸞』(中央公論新社)と題された本の序においてである。
 先生は、ときどき散歩を楽しんでいて、あるとき、住まいから数分歩いて、西洞院通りを下がり、高辻通りの辻を曲がったところで、大きな石碑に気づく。そこには、道元禅師御示寂之地と刻まれていた。京都では、通りが重要だ。
 晩年の道元は、病をえて、生まれ故郷である京都に戻ってきた。医者にかかるためだが、病は癒えず、この地で亡くなってしまった。先生は碑の前にたたずんでいると、「道元の無念の思いが伝わってくるようで、立ち去りがたかった」と書いている。
 後日、先生は、やはり西洞院通りを南に歩いて、松原通りにぶつかると、その辻を東に入ったところに石碑が立っているのに気づいた。やはり、住まいから数分の距離だという。
 近づいてみると、それには、「親鸞聖人御入滅之地」と刻まれていた。
 先生は、「そのあまりの近さに驚いた。親鸞が道元のすぐ目と鼻の先で眠っていると思ったのである」と書いている。
 道元が亡くなったのは1253年で、親鸞は63年である。したがって、道元が京都に戻ってきたとき、親鸞は京都にいたことになる。
 しかし、山折先生が注目するのはその時期ではなく、親鸞が関東から京都に戻ってきた時期と、道元が中国から戻ってきて、伏見に興聖寺を開いた時期が接近している点で、それを踏まえ、二人が「いま私が住んでいる下京で西洞院通りを歩き、すれちがっていたかもしれない・・・・・・」という妄想めいたものが脳のなかに広がりはじめる、と記している。
 こんなことは、京都でしか起こり得ない出来事であり、京都でしか生まれない妄想めいた事柄である。それが実際に起こったことなのか、今になっては確かめようもない。少なくとも、道元の書いたものに親鸞は登場しないし、親鸞の書いたものに道元の名は出てこない。
 その時代の京都には、今以上に多くの僧侶がいたことだろう。それに、妻帯した親鸞が、果たして僧侶の姿をとっていたかどうかも分からない。
 しかし、両者が、まさに山折先生が指摘する場ですれちがったということは、十分にあり得ることである。
 散歩がそのまま歴史探訪になる。もちろん、それはどの街でも起こり得ることかもしれない。だが、その確率が京都では圧倒的に高い。
 多くの観光客が世界中から京都を訪れるのも、こうした歴史の積み重ねがあり、それに容易にふれることができるからだ。
 ただ、歴史の積み重ねということでは、京都の街が今ある姿を取るまでにさまざまな出来事を経験している。
「ローマは一日にして成らず」ということわざがあるが、まさに「京都は一日にして成らず」である。
 京都が一日にして成らないのであれば、どうやって京都は今の京都になってきたのだろうか。この本で探ってみたいのは、その過程である。そこには、数々の謎があるように思われる。
 対象となるのは、京都の名高い神社であり、寺院である。京都観光と言うとき、多くの人はそうした神社仏閣を訪れる。
 神社仏閣にも歴史があり、謎がある。その謎を一つ一つ解いていくと、それぞれの神社仏閣が今とは違う姿をとっていたことが明らかになってくる。
なぜ京都は、日本で有数の、さらには世界の人々を引きつける観光地になってきたのか。
 その魅力の源泉はどこにあるのか。
 突き詰めて言えば、「京都がなぜいちばんなのか」。
 その謎を、なんとか解きたいと考えるのである。