アメリカ音楽の新しい地図

6.チャンス・ザ・ラッパーとシカゴの政治/文化

トランプ後のアメリカ音楽はいかなる変貌を遂げるのか――。激変するアメリカ音楽の最新事情を追い、21世紀の文化=政治の新たな地図を描き出す!

フリーな音楽
 2017年2月12日に開催された第59回グラミー賞において、チャンス・ザ・ラッパーは7部門にノミネートされ、最優秀新人賞、最優秀ラップ・パフォーマンス賞、そして最優秀ラップアルバム賞の三冠を受賞した。前年にリリースされたアルバム『カラリング・ブック』(2016)は、ストリーミング配信のみの作品として初めてグラミーを獲得したが、ここでより重要なのは、チャンスがCDなどのフィジカルを流通させないだけでなく、そもそも彼は初めから作品を「販売」していない点だ。
 チャンス・ザ・ラッパーは高校時代に友人とインストルメンタリティというデュオを組んでいたが、2011年12月に「ウィンドウズ」という楽曲をリリースし、翌年にはこの曲を含むアルバム『10デイ』を音声ファイル共有サイトに発表した。念のために補足すれば、ヒップホップというジャンルでこうしたミックステープを無料で流通/配信することはとくに珍しいことではなく、むしろ新人ラッパーとしてはきわめて一般的なふるまいだといえるだろう。チャンス自身も、二作目のミックステープ『アシッド・ラップ』(2013)のリリース後にレコード会社と契約するつもりだったようで、いくつかのメジャー・レーベルと交渉の席に着いたことを告白している(14)。
 だが結局、彼はどこのレーベルとも契約することなく、現在まで活動を続けている。『アシッド・ラップ』はiTunesやアマゾンのダウンロードだけでビルボードのR&B/ヒップホップチャートの63位に上がり関係者を驚かせただけでなく、多くのメディアでその年の年間ベストにランクインした(ピッチフォーク12位、ローリングストーン26位、コンプレックス4位)(15)。 翌年にはXXL誌が毎年公表するフレッシュマンリスト(期待の新人10人)にタイ・ダラー・サイン、ケヴィン・ゲイツ、リッチ・ホーミー・クァン、それに同じセイヴマネー・クルーに属するヴィック・メンサなどとともに選出され、2015年には盟友ニコ・シーガルがリリースしたソーシャル・エクスペリメント名義のアルバム『サーフ』にも深くかかわった。
 グラミー賞を受賞した『カラリング・ブック』もリリース後の二週間はアップルのストリーミングサービス限定で配信されたものの、その後は他の作品と同じようにインターネット上のサイトから無料ダウンロードが可能になった。同作品はスポティファイやタイダルなど主要なサブスクリプションサービスに登録されているので、チャンス・ザ・ラッパーが作品によって金銭的な利益をまったく得ていないという言い方は間違っているものの、本人がいうように、彼は基本的にはライブ(ツアー)とマーチャンダイズ(関連グッズ)の売り上げでミュージシャンとしての生計を立てている(16)。
 一見して、これはビジネスの世界で「モノ消費からコト消費への移行」といわれる消費行動の変化を裏書きする行為にみえる。もはや消費者はCDのような大量複製商品に積極的にお金をかけることはなく、むしろ一度限りの〈体験〉――何月何日に誰々とあのミュージシャンのライブに行った――にこそ財布の紐を緩めるのだと。極端にいえば、チャンス・ザ・ラッパーの音楽活動においてアルバムはライブに集客するための宣伝材料として位置付けられており、それはいうまでもなく、アメリカで2000年前後にCDの売り上げが減少し始めたことと、2010年以降、サブスクリプション/ストリーミング・サービスが急速に成長しているという業界の変化に対応している。2007年にマドンナがレコード会社であるワーナーからコンサートプロモーターのライヴ・ネイションに移籍した際、それは複製可能な「モノ」から一回性の「コト」へと音楽業界の収益構造が変化する、その象徴的かつ先駆的な契約として報道されたのだ(なお、マドンナは2017年にライヴ・ネイションからインタースコープに移籍している)。
 こうした「モノ消費からコト消費」という現象を文学研究の立場から予測・分析し続けてきたのがシカゴ大学教授のアメリカ文学研究者ウォルター・ベン・マイケルズである。マイケルズは2004年に刊行した著書で文学作品の「解釈」が不可能になった理由のひとつとして、冷戦の終焉によってイデオロギーの対立がアイデンティティーの差異に置き換えられたことをあげる。「イデオロギーの紛争」は、それが「意見の不一致をふくむ可能性があるということで、それは普遍化の構造をはら」んでいる。だが、「イデオロギーではなく文明が衝突する新世界においては、問いは、どちらの側につくかではなく、〈あなたは何者であるか?〉となる」。
つまり、「意見の不一致なき差異は主体の位置を本質的な問題とする」のであり、主体の〈経験〉こそが重視されるようになる。


あなたはそれをきれいと言い、私がそれを崇高だと言うとき、われわれは意見の不一致をみる。あなたがある対象を見て気分が悪くなると言い、私が気分が悪くはならないと言うとき、われわれの意見は不一致をみるのではない。われわれは単にわれわれのあいだにある差異を記述しているのだ。(17)
 

イデオロギーの対立がアイデンティティーの差異に置き換えられる――このことが文化研究に及ぼす影響は計り知れないだろう。アイデンティティーの差異は、普遍的な基準を前提とした〈解釈〉の優劣を無効化し、そのテキストが個人や民族に及ぼす効果、すなわちその作品がもたらす〈経験〉こそを前景化する。それは個人、あるいは民族固有の取り替えのきかない〈経験〉であり、〈解釈〉の対象とはなり得ない。私自身がこの書を読んだという〈経験〉――アフリカ系アメリカ人としての〈経験〉、女性としての〈経験〉――こそが重要であり、それこそが多文化主義が文化の領域にもたらした最大の衝撃だといえるのだ。
 ハロルド・ワシントンからオバマにいたる黒人指導者を輩出したシカゴのサウスサイドに育ち、アフリカ系アメリカ人コミュニティーの〈経験〉に根ざした表現に誇りを持つチャンス・ザ・ラッパーが、彼の地元を対象とするスパイク・リーの〈解釈〉行為に暴力性を感じたとしても不思議はないだろう。それは2016年の大統領選挙でドナルド・トランプが当選したのちに盛んに分析されたように、ここ数十年に渡ってリベラルの戦術が階級闘争からアイデンティティ・ポリティクスにゆるやかに移行した事象とも並行しつつ、「モノ消費」から「コト消費」という音楽業界の消費行動の変化を先取りする態度でもあったのだ。

(13)  https://statisticalatlas.com/neighborhood/Illinois/Chicago/South-Chicago/Race-and-Ethnicity

(14)  Lisa Robinson, “Why Chance the Rapper Makes Music for Free (and How He Actually Makes Money),” Vanity Fair Feb 2017, https://www.vanityfair.com/hollywood/2017/02/why-chance-the-rapper-music-is-free-and-how-he-makes-money

(15)  https://pitchfork.com/features/lists-and-guides/9293-the-top-50-albums-of-2013/?page=4, https://www.rollingstone.com/music/lists/50-best-albums-of-2013-20131202/chance-the-rapper-acid-rap-19691231, http://www.complex.com/music/2013/12/the-50-best-albums-of-2013. 

(16)  Robinson, “Why Chance the Rapper Makes Music for Free ,” Vanity Fair Feb 2017.

(17)  ウォルター・ベン・マイケルズ(三浦玲一訳)『シニフィアンのかたち――1967年から歴史の終わりまで』彩流社、2006年、132頁。

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