PR誌「ちくま」特別寄稿エッセイ

「貧乏まんが」の奥深さ

つげ義春から、こうの史代まで、貧乏の傑作17編を読み解く。

 貧乏を描いた漫画のアンソロジー『貧乏まんが』がちくま文庫からオリジナルで出る。その紹介役を今回、仰せつかったのは、私が同文庫から『貧乏は幸せのはじまり』という貧乏論を出しているからだろう。この時、古今の貧乏人を徹底研究した。変な言い方だが、だから貧乏には一家言を持っている。貧乏については、ちょっとうるさい人間だ。つげ義春「リアリズムの宿」に始まり、こうの史代「長い道」で終わる十七編の貧乏漫画を読むと、貧乏の数だけ貧乏の種類と表現があると思わされるし、貧乏というフィルターを通してしか見えない人間の営みの諸相があることが分る。おそらくだが、金持ちをいくら丹念に描いても薄っぺらいが、貧乏だと奥深いのだ。
 山下敦弘監督の手で映画化もされた「リアリズムの宿」は、漫画のネタ探しに東北を旅する「ぼく」が、一軒の貧しい宿へ流れ着く。ここが病・貧・困が濃縮した宿で、咳き込む父親に泣く童、通された部屋は畳が傾き、窓の外は土手が迫り「眺めがよくないなあ……」と徹底している。この「負」の畳み掛けはギャグとなり、「時そば」などの落語に通ずる。水木しげる「貧乏神」も落語の味。貧乏神を追放する方法を発見した貧乏学者が、看板を掲げて「他人の倍働いて他人の半分しか収入がない」男を治療する。「善良な人に好んではいりたがるのが貧乏神の特長です」と学者がまじめに言うセリフが何とも可笑しい。乱暴な治療により、みごと貧乏神を払うが、今度は逆に学者が取り憑かれてしまう。笑うに笑えないが笑うしかないところが、貧乏漫画の特徴であろうか。この方面での珠玉は松本零士「大バーサンの歌悲し」(「男おいどん」)で、私も四畳半の下宿で愛読した。再読すると陽に灼けたカーテンと畳の匂いを思い出す。いしいひさいち「バイトくん」はカップラーメンの匂い。もし、「男おいどん」が映画化されるなら、南こうせつ主演、下宿の大家は菅井きんがいい、と配役まで勝手に決めていたものだ。そういえば、日本のフォークも、かぐや姫「神田川」、吉田拓郎「リンゴ」、加川良「こがらし・えれじぃ」など、貧乏を歌う曲が多かった。貧乏な歌が最近少なくなって淋しい。
 辰巳ヨシヒロ「いのち売ります」は初めて読んだ。入院中の妹を救うため、殺人犯の身代わりとなって報酬を受け取り自殺する。「血液銀行」も登場し、自分の血を金に換えるシステムが、かつてあったと若い読者は知るだろう。陰々滅々たるストーリーと、それに見合った劇画調タッチに時代を感じる。貸本マンガの味である。永島慎二「赤貧」も、「いのち売ります」にやや似ていて、第三者と契約することで貧乏を脱しようとする。この「赤貧」に、「ニワトリに食わせるといってパンの切れはしを買って来て自分で食べる」というセリフがある。食パンをサンドウィッチにした時に出る「パンの耳」のことで、廉価あるいは無料とあって、貧乏食のトップランクに位置する。「食」で言えば、赤塚不二夫「トキワ荘物語」で、赤塚がもらったモチを二十八円のしょうゆビンでおつゆを作って正月を食いつなごうとする話もいい。貧乏にはつねに、生存のかかる創意工夫があるのだ。
 江戸期に舞台を取った楠勝平「おせん」は、「貧乏が骨の髄までしみこんでいる」ため、あと一歩の寸前で幸せを逃す女が描かれる。ザーザー雨降るラストシーンまで、間然なき出来映えで、ほとほと感心させられる。鈴木翁二は映画的表現で、貧しいカップルにカメラを据え、詩情を絞り出す。本書はそのほか、鈴木良雄「アサイー」(「フルーツ宅配便」)、うらたじゅん「ホットケーキ」、こうの史代「長い道」と、いまの若者たちの貧困を描いた作品も収録。六〇年代末から七〇年代に描かれた「青春=貧困」のテーマが、時代が幾巡りかして、また漫画表現のリアルかつ重要な位置に返り咲いた気がする。貧乏は、懐かしく新しいテーマということになるのか。
 

関連書籍