ラクするための経済学

第4回 断罪の人――炎上後記

編集担当者である私は、坂井さんの炎上したツイートを見たとき、やっぱり子育てって簡単にはいかないなと感じました(私にも5か月の子どもがいるため)。炎上を知り、坂井さんという人物を知っている身として、何が問題だったのかわからずただ驚くだけでした。ネットって怖いと。
そこで、あらためてこの炎上騒動を坂井さんに振り返っていただきましたので、ぜひご覧くださいませ。キーワードは「断罪の人」。

初の炎上
 先日初めてツイッターで炎上した。ネットでの炎上じたいは初めてではないが、ツイッターでの発言で炎上したのは初めてだったし、規模が大きかった。J-CASTのインタビューで言いたいことはおおむね言ったので、関心のある方はそちらをご覧いただきたい(https://www.j-cast.com/2018/06/28332516.html?p=all)。フェアに扱ってくれたJ-CASTには感謝している。
 この件は、愉快ではなかったが、学びの多い出来事であったので、全体としてはポジティブに受け止めている。二日ほど落ち込んでそのあいだ一時的に性格が「きれいなジャイアン」みたいになったが、三日目にはもとどおりに戻った。
 ここでは、この件を通じてあらためて感じたことを、いくつか書いておきたい。ネット上にいる「断罪の人」、および私が好む「滑稽の感覚」が、話の軸になる。
 今回は、私が子どもに、ゲームを否定して、ミュージカルの観劇を押し付ける、といった内容への批判を受けた。元のツイートは、うっとうしいリプライが多くついたので削除している(J-CASTのインタビューに画像が残っている)。削除への批判の声があったが、ツイッターは民間企業が運営する無料の遊び場であって、国会の議事録だか何かと勘違いしてはならない。私としても原稿料をもらってない文章を消すのに特段のためらいはない。

断罪の人
 私のツイートについたリプライの多くは、ただ単に誰かを誹謗中傷したい、炎上の「祭り」に参加したい、というものである。
 私は(たいしたものではないにせよ)一定の立場があるので、誹謗中傷の対象になるのは、まあ分かる。そしてまた、炎上への参加に快楽が発生するというのは、わりと分かる。愚行と快楽とが結び付くのは珍しいことではない。
 分からないのは、大真面目に怒ってくる人だ。親が子どもに趣味を押し付けるとは何事だ、と本気で怒ってくるのだ。そこまでではなくとも、冗談を一切解さず、風紀委員のように高々と説諭してくる人もいる。新井紀子氏のベストセラー『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』(東洋経済新報社)によると、少なからぬ人が、文章を読むときに、文脈や語り口を汲み取る能力がないという。私を心配するよりも、AIに淘汰される自分を心配したほうがいい。
 なお、親が子どもの趣味なり文化資本なりにどう関与すればよいかは興味深い問題だが、ここでの本題ではないので措いておく。
 全然知らない赤の他人に対して、わずかの散文を眺めただけで、一刀両断に斬りつけてくる人がネットにはたくさんいる。私はそういう輩を「断罪の人」と呼んでいる。
 私は「断罪の人」に、よくそこまで決めつけて感情をぶつけられるな、疲れるだろうと思うのだが、とにかく腹を立てて断罪してくる。あるいは風紀委員のように高みから説諭を与えてくる。私はそれを見て、お前さん、うちの子はゲーム専用の大型テレビをもっているし、私は毎晩いっしょにマリオカートをやっているぞと思うのだが、いちいち私はそんなことを公開していないし、もちろん「断罪の人」はそんなことを知らない。赤の他人なのだから当然である。
 ネット上で誰かへのバッシングが盛んなときには、必ずそこに多量の「断罪の人」が食らいついている。偉そうなわりには、ほとんどが匿名アカウントである。
 私自身、「断罪の人」にネットで絡まれるのは、これが初めてのことではない。
 私はブログもやっている(雑文を書くのが好きなのだ)。最近は更新しておらず、いまはリニューアル中なのだが、以前そこに「子どもに勉強を教えるが、つい怒ってしまう」という話を書いたことがある。これに「断罪の人」がかみついてきた。子どもに勉強を教えて怒るのは最悪だ、毒親だ、という具合である。ただの罵詈雑言というよりは、何かしら強烈な思い込みだか信念だかがある様子なのだ。口調は激しく、パソコン画面から、ツバの泡が飛んできそうな勢いである。
 だが「断罪の人」、ちょっと落ち着け。
 私がブログで書いていたのは、「子どもに勉強を教えると、つい私は怒ってしまう。これをやめたい。そこで子どもと話し合って、もし私が怒ったら、子どもが私の顔にボールペンで落書きするルールを決めた。落書きされるのもいやだが、このルールにより、お父さんが怒るのはダメという規範がその場で共有された。私は怒れなくなった」というあらすじの話である。
 怒らないよう努力して、しかも成功した私を怒らないでほしい。
 私が聖人君子であるならば、感情を思いどおりに制御できるのだろう。だが、そうではないし、そうなれるわけでもない。人間を変えることは難しいから、ルールを使って人間の行動を変えるのだ。法律みたいなものだ。
 人間を変えるよりも、ルールを変えるほうが、ものごとははるかに効率的にすすむ。これは経済学にかぎらず、およそ制度設計に関わる大抵の学問が前提とすることだ。
 

必死さのおかしみ
 さて、「怒ったら顔に落書きルール」は、馬鹿みたいかもしれないが、これはこれで必死なのである。
 そこまでして勉強を教えねばよいのにと思うかもしれないが、コストベネフィットの問題である。私の場合、これで子どもの学力はかなり伸びたし、何よりも本人が自信をつけてくれたので、ベネフィットが大きい。もう少し大きくなったら塾に行くだろうが、それまでの準備としては悪くないし、塾に丸投げして学力が自動的に上がるというわけでもない。
 そもそも私は、たまにうっかり怒ってしまうのを、できるだけ減らしたいだけである。
 家族のあいだだと、思うようにいかないとき、他人に対してよりも、腹が立つことがある。腹を立ててもしょうがないのだが、抑えようとしても、常にうまくいくわけではない。
 とくに小さい子は、どこか自分の分身のような感覚がある。私の思うようにいくのが自然なのだと、無意識のどこかで思っている。その子の身体の筋肉の付き方や、感情の動かし方が、自分とおそろしいほど似ているのを見ると、私と同じような趣味をもっているのだろうという気がしてくる。
 そして、もちろん、そんなことはない。子どもはゲームが大好きだし、観劇に関心を示してくれない。私が必死にとったS席で、気持ちよさそうにすやすやと寝入っている。私は寝顔に目を向けながら、この演目は退屈だったかなあと反省し、次は何のチケットを取ろうと思案しつつ、舞台に目を戻す。
 そんなとき、同じ趣味をわが子がもっていると暗に仮定していた自分を、滑稽なものだと思う。滑稽の感覚は、独特のおかしみを含むものであって、決して悪いものではない。

滑稽の伝達
 チャップリンは「人生は近くで見たら悲劇、遠くから見たら喜劇」との言葉を残した。 
 この遠近のとりかたを、一人の人間が同時に用いたとき、ふたつの視点の違いが事態を立体的にとらえる。自分の必死なさまは悲劇のようだが、われながら馬鹿馬鹿しいことをしており喜劇のようなのだ。そこに生じる独特のおかしみは、喜劇のようだから生まれるのではなく、悲劇でありながら喜劇という落差にこそ生まれるものだ。滑稽とはそういうことだ。
 自分の滑稽さに笑うのは、自虐というよりは、諧謔である。何も卑下してはいない。
 そういう滑稽さを、ほかの人とも共有できたら、すこし愉しいと思う。だからそのような日常のひとこまを、たまに人に伝えたくなる。伝わる人にはとてもよく伝わるし、それにはその人の年齢や性別や家族構成やらは関係ない。このとき私たちは、大げさな言い方をすれば、ある種の連帯の感覚を共有する。そういう感覚の共有は、生きることを少しラクにする。たかがツイッターやブログであっても、そういうことがときどきある。
 自分の心の中にある記憶や感覚を、文章を経由して、別の人の心の中に再現させる。それが文章を通じた表現である。すべてを文章で記述するのは、表現ではなく説明だ。説明は学問を伝えるにはよいのだが、感情の伝達にはあまり向いていない。
 もちろん表現は、発信する側と、受信する側との共同作業によって完成するものだから、誰とでも通じられるわけではない。文脈や語り口への理解が必要であり、相手を選ぶものだ。誰と通じられるか分からないから、インターネットの宇宙に放り出してみると、多量のスペースデブリがかかることもある。宇宙なのだからそういうものだ。

できないこと、できること
 「断罪の人」との断絶を、すこし残念に思う。滑稽への共感が、互いにできればよいのになと思う。
 インターネットにかぎらず、育児の話はかみつかれやすいと聞く。多くの人は育児された経験があり、各人がそれなりに自分の考えをもっているからだろう。育児する立場になったときは、予算や能力の都合でできない選択もたくさん出てくるから、そのような選択肢じたいを否定したくなることだってあると思う。たとえば「いまの時代は勉強ができても意味はない」とか。
 その結果として、癇に障るブログやらツイッターやらを見て、「断罪の人」になる人がいると思う。私はそれを断罪するつもりはない。その人はその人で必死なのだろうと思うし、当人がその姿を自分で眺める気になれば、たぶん滑稽なものが目に映ると思う。とすれば私たちは滑稽を共有することの可能性にひらかれている。
 私には少年野球へのあこがれがあって、子どもをリトルリーグに入れてみたかった。だがそれには野球好きの親のコミットが必要なので、自分の能力的にできなかった。晴れた日曜日に、土まみれのおそろいのユニフォームを着た野球親子を見ると、いいなあと思う。この子はこれで野球を一生楽しめるし、チーム作業の能力も高まるのだろうなとも勝手に思う。
 うらやましいからといって、私は少年野球を否定したい気にはならない。ただ、ときに人の心がそうなるというのは分かる。隣の芝生は青く見えがちでもある。
 私の場合、なんとか自分ができることとして、勉強を教えたり、舞台芸術に触れさせたりする。他にできることがないのだから仕方がない。ただ、私ができることと他の人ができることは違えども、かぎられたことしかできないという共通点はあるのだ。
 私の試みは、奏功したり、しなかったりする。テレビゲームにはまるで歯が立たなかったりする。心のどこかでは思うようにいくはずだと思っていたりするから、そうならない現実を目にしては、それはそうだと思い直して滑稽をいとおしむ。