人生につける薬

第4回 説明の背後に、一般論がある

人は物語に理由が欲しい

 前回までのおさらいです。

・人間はできごとを時間の流れのなかに置いて、ストーリー形式で把握する

・できごとの理由がわかると、できごとが理解できたという感情が生じる

・そのさい、時間上の前後関係を因果関係に置き換えてしまうことがある(前後即因果の誤謬)

・人間にはポジティヴなできごとより、ネガティヴなできごとに注意をフォーカスしてしまう傾向がある(ネガティヴィティバイアス)

・したがって、不本意な状況にたいして、人間は「なぜ?」と問う(理由がほしい)

 こういった観察結果を手に、物語の人間学的考察をさらに前に進めていきましょう。

 

ネガティヴィティバイアス

 ネガティヴィティバイアスは現代の心理学の概念ですが、他の分野においても似たことは言われます。

 ノーベル経済学賞を受賞した行動経済学者ダニエル・カーネマンによれば、人間は利益から得る満足よりも、同額の損失から受ける苦痛のほうを大きく感じるということです

(ちなみに人間の心は逆に、ポジティヴな側面に焦点を当てる力も持っています。しかしそれはまたべつのメカニズムで、これがあったからといってネガティヴィティバイアスとあわせてプラマイゼロになるという性質のものではありません)。

 近代の哲学者には、このあたりの問題を経験的に報告している人もいます。

 17世紀オランダの哲学者スピノザの『エティカ』第5部定理10では、つぎのようなことが書いてあります。

 〈名誉の濫用、そのむなしさ、人間の移り気、〔…〕このようなことは不健康な心の持ち主のみが考えるのである。なぜなら野心家は、自分のもとめる名誉の獲得に絶望するとき、このような考えによってもっとも多く自分を傷つけ、怒りを発しながら自分を賢く見せたがるからである〉(工藤喜作+斎藤博訳)

 野心家は挫折すると、人間のダメな部分をあげつらって、〈怒りを発しながら自分を賢く見せたがる〉。

 

「渡る世間に鬼はなし」という諺をもじった「渡る世間は鬼ばかり」という題のドラマがかつてありました。

 不本意な状況に置かれたときに、

「世の中そうそう悪い人はいるものではない、人を信じよう」

という人と、

「人を見たら泥棒と思え」

という人に出会ったら、後者のほうが一見〈賢く見〉えてしまいます(見えるだけですが)。

 そして人間は、どんなナイスな状況に置かれていても、「不本意」な部分を見つけ出してしまいます。だから、後者のほうが〈賢く見〉えると感じる人のほうが多いのです。

 また19世紀ドイツの哲学者ショーペンハウアーは、「生存虚無説に関する補遺」のなかで、つぎのように書いています。

〈われわれは苦痛は感じるが、しかし苦痛のないことは感じない。心配は感じるが、心配のないことは感じない。恐怖は感じるが、身の安全は感じない〉(秋山英夫訳)

 

過度の一般化

 僕がなにかをしようとして、不本意な結果が何度か続いたとしましょう。

 そのときに、行為の条件をチェックして、これが原因かもしれないと仮説を立てて、次回までにそこを改善してみる、また自分ではどうしようもないことであればそこについては断念する、というのであれば、僕がおこなっているのは適度な一般化であり、それは冷静な態度です。

 いっぽうそこで僕は、

「自分はいつもうまくいかない」

と決めつけてしまう可能性もあります。あなたはどうでしょうか?

 こういう態度は、不本意な側面だけに焦点を当てています。

 過度の一般化は、心理療法では、精神の病理をもたらす「認知の歪み」のひとつに数えられています。

 先述のとおり、不本意なことに気を取られてしまうのはどうも人情らしい。ですから、だれしもこういう傾向は大なり小なりあるでしょう。

 とくに、鬱状態の人は、この思考パターンで自分を縛ってしまっているのだそうです。

「自分はいつもうまくいかない」

というのは、端的に「間違い」なのです。

 

説明の背後に、一般論がある

 ところで、「できごとの理由がわかると、できごとが理解できたという感情が生じる」という傾向について、もう少し考えてみましょう。

 第2回の、小説家フォースターによる〈ストーリー〉と〈プロット〉の話を覚えていますか?

フォースターのいう〈ストーリー〉=〈王が死んで、それから女王が死んだ〉

フォースターのいう 〈プロット〉=〈王が死んで、それから女王が悲しみのあまり死んだ〉

 後者は滑らかであり、いちおうの納得感を与えるものです。

 もちろん僕たちは意識でその説明を疑うことができます。

「悲しみが死因なんて立証できない」

「そう見せかけた毒殺では?」

などと。

 でも、心のなかのある不随意な(あるいは受動的な)部署は、いずれにしても、なんらかの理由があるほうが滑らかで物語らしいと感じてしまうのです(滑らかだからこそ怪しい、と、心のなかのべつの部署は言うかもしれませんが)。

〈悲しみのあまり〉は、どういうふうに機能しているのでしょうか?

〈女王が死んだ〉よりも〈女王が悲しみのあまり死んだ〉のほうが、なにか訴えかけてくるとしたら、それは、

「人は、悲しみのあまりみずからの死期を早めてしまうことがある」

というふうに、漠然と思われているからでしょう。

「人は、悲しみのあまりみずからの死期を早めてしまうことがある」

 こういうものを「一般論」と言います。いっぽう、〈女王が悲しみのあまり死んだ〉は個別の、特定の人間についての命題です。

 

一般論はタイプ、ストーリーはトークン

 フォースターのいう〈プロット〉は「説明を明記したストーリー」ですから、この連載では、そっちもストーリーの一種としてあつかいます。フォースターの用語と僕の用語はちょっとズレています。ややこしくてごめんなさい。

 さて、ストーリーは、個別のものをあつかいます。

 今朝、僕は紅茶を入れるために薬罐で湯を沸騰させました。これはストーリーです。僕という「個別の動作主(agent)」が「1回」おこなうことを報告するものです。この「個別性」が、ストーリーの特徴です。

 いっぽう、

「日本人は朝食時に紅茶を摂取することがある」

「水は1気圧のもとでは摂氏100度で沸騰する」

 これは個別の話ではなく、一般論です。

 では、

「毎朝、僕は紅茶を入れるために薬罐で湯を沸騰させる(させた)」

というような、「個別の動作主」が「複数回」おこなうことをあつかうものはどうなのか?と考えたあなた。

 あなたはとても筋がいい人ですね。その話はもう少し待ってください。

 ストーリーは個別の話題ですが、それの理由や「因果関係」が「わかった」気がするときは、その背後にじつは一般論(普遍的な話題)が存在しているということができるでしょう。

 一般論=「人は、悲しみのあまりみずからの死期を早めてしまうことがある」

 ストーリー=「あるとき、ある女王が悲しみのあまり死んだ」

 一般論は「類」、説明つきのストーリー(フォースターのいう〈プロット〉)は類の一例(つまり「種」)、ということができます。一般論とストーリーの関係は、「タイプ(type)」(人間一般にかんすること)と「トークン(token)」(物語の登場人物であるその特定の女王にかんすること)の関係にあるのです。

 

一般論と科学と諺

 一般論のなかには、

「人はすべて死ぬ」

「水は1気圧のもとでは摂氏100度で沸騰する」

といっただれもが認めるものもあれば、

「血液型B型はマイペース」

「大阪人は全員せっかちで納豆が嫌い」

「侯爵夫人はみな気まぐれだ」

というような、怪しげなものもあります。

 できるだけ正確な一般論を目指すのが科学だ、ということもできます。ただし、科学は必ずしも因果関係を追求するものではありません。

 池田清彦さんは『科学とオカルト』で〈科学における因果関係と称するものは、ほとんどは時間のずれを伴った対応関係なのである〉と述べています(第4章)。

 〈元来科学は対応関係を解明しているので、因果関係を解明しているわけではない〉(同第5章)。なぜなら、〈この世界は因果律的にできていない〉(同)からです。

 それでも人間の心は、ものごとの原因や理由を、ついつい求めたがってしまう感情を持っているのです。

 またさきほど、「渡る世間に鬼はなし」「人を見たら泥棒と思え」という諺を挙げましたが、こういった諺や格言も「一般論」です。

 いろはカルタでもおなじみの「論より証拠」「楽あれば苦あり」「負けるが勝ち」をはじめ、諺はその文化の「一般論」を短くしたものです。

 

教訓とは一般論のことである

 あるいは、寓話の教訓も一般論です。

〈北風と太陽がどちらが強いかで言い争いをした。道行く人の服を脱がせた方を勝ちにすることにして、北風から始めた。強く吹きつけたところが、男がしっかりと着物を押さえるので、北風は一層勢いを強めた。男はしかし、寒さに参れば参るほど重ねて服を着こむばかりで、北風もついに疲れ果て、太陽に番を譲った。

 太陽は、はじめ穏やかに照りつけたが、男が余分の着物を脱ぐのを見ながら、だんだん熱を強めていくと、男はついに暑さに耐えかねて、傍〔かたわら〕に川の流れるのを幸い、素っ裸になるや、水浴びをしにとんで行った。

 説得が強制よりも有効なことが多い、とこの話は解き明かしている〉(「北風と太陽」中務哲郎訳『イソップ寓話集』所収)

 引用の最初の2段落が、「ストーリー」を伝えています。最終行の〈説得が強制よりも有効なことが多い〉という教訓が「一般論」です。そのあとの〈とこの話は解き明かしている〉は「物語行為の自己言及」というものですが、これについてはまたの機会に述べます。

 兼好の『徒然草』第52段では、仁和寺の法師(個別の動作主)が石清水八幡宮が山上にあるのを知らず、麓の寺社だけを参詣して八幡宮に詣でた気になって帰還し、「それにしても、みんななぜか山の上まで登ってたなあ」と言っていたという「ストーリー」を語ったあとで、最後に、

〈少しのことにも、先達〔せんだち〕はあらまほしきことなり〉

(ちょっとしたことでも、案内役はいてほしいものである〔小川剛生訳〕)

という「一般論」がついています。

「一般論」は、仁和寺の法師だけでなく、他の人間にもあてはまる智慧であることもあるのです。また、この「一般論」の存在が、そのストーリー(仁和寺の法師という個別の動作主がおこなったこと)を報告する理由にもなりうるのです。

 次回は、こういった「一般論」とストーリーの「ほんとうらしさ」の関係について、考察していきたいと思います。