漫画家入門

第1回 免許とローンと鼻濁音
2018年5月27日~6月8日

漫画家・浅野いにおさんの日記連載がスタートします。漫画家を目指すひとにもそうでないひとにも、なにかしら有益だったり無益だったりする、不思議な連載になりそうです。

5月27日(日)

 彼女が「編集や知人に最近痩せたねって心配される」と言うので、僕は「そんなの挨拶みたいなもんだよ」と応えた。そもそも彼女は元から痩せ型なのだが少なくとも僕の目には痩せたかどうかはわからない。
 しかし心配性の彼女がなかなか話を終わらせてくれないので、体重を測ってみようということになった。洗面台の物入れにしばらく使っていなかったデジタル体重計がある。電源を入れて試しに自分が乗ってみると65キロと表示されて仰天した。

 数年前に人生で初めて60キロ台になったとき、「いや〜中年太りかなァ〜参った参った」と、ショックを隠しながらも、あくまで周りには冗談っぽく言っていたのだが、それ以降ほんのちょっとだけ食生活を見直したりしていた。ぱっと見変化も感じないので、もしかしたらむしろあれからちょっと痩せたかもと高を括っていたのだが、実際はさらに太っていた。
 僕の身長からすると別段太っているわけではないのだろうけど、胸板が極端に薄い体型のせいでお腹がひどく出て見える。子供の頃は普通に太っていたため、半ズボンで走ると股ずれで太ももが血だらけになったという苦い思い出もある。太ることへの恐怖心は恐らく子供の頃に植えつけられた。
 彼女が体重を測ると、特に増減はないという。それに関してはホッとしたが、僕は内心穏やかではない。さっそくアマゾンで腹筋を鍛えるベルトを注文した。

5月29日(火)

 自動車の普通免許を取るために仕事そっちのけで教習所に通っている。今日は後回しにしていた「応急救護」だった。
 教室に入ると生徒は僕を含めて三人だけ。二人とも大学生くらいだろうか。教習所なのでもちろん若い人が多く、一部の中年たちはみんな「訳あり事情あり」な顔をしている。自分も例に漏れず「金髪中年ろくでなし」と周りから見られているのかもしれない。
 僕は人前で演技をするのが苦手だ。国語の授業の朗読も嫌いだった。人が考えたセリフは馴染みが悪くてうまく口から出ない。第一恥ずかしい。だから応急救護の授業は受ける前からずっと憂鬱だった。なんせ教室に寝転がっているマネキンに向かって「おーい、大丈夫ですかー」と声をかけなければならないのだ。
 しかしこれは免許取得のため、誰もが通らねばならない茨の道である。僕は心を無にしてマネキンに声をかけた。大学生のふたりも同じ気持ちのようで、この滑稽さにお互いに照れ合い、ときに小さな笑い声を漏らしながら授業が進行した。
 しかし3人しかいないためか時間が余り、2巡目に突入してしまった。しかも僕の番になった途端に指導員が「じゃあマネキンをお父さんだと思ってやってください」などと言う。お父さんはコストカットのためか下半身がないし、なんかすごく小さい。こんなのお父さんじゃない。しかし僕は覚悟を決め、再び心を無にした。

「……お父さん大丈夫?」
「……お父さん!?」
「お父さーーーーーんっ!!」

 声かけは3段階に分けられていて、徐々に声を大きくしなければならない。僕は3回目に急にスイッチが入ってしまい、迫真の演技をしてしまった。きっと大学生達は失笑しているに違いない。ちらっと二人に目をやると、すごい真顔だった。笑ってくれよ。小っ恥ずかしかった。

5月30日(水)

 今日も今日とて教習所である。学科の授業を終え、タバコを吸おうと喫煙所へ向かう階段を降りていると突然背後から「いつも読んでますよ」と声をかけられた。振り返ると20代半ばに見える女性だった。一瞬意味がわからなかったが、程なく理解して「ありがとうございます」と応えた。
 僕の通っている教習所は都心にある。「多数の有名人・芸能人が在席、卒業」を売り文句の一つに掲げていて、事実僕がこの学校を選んだ動機に「有名人に会えるかも」という大変横しまな気持ちが120%くらいあったことは認めざるを得ない。とはいえ実際に有名人を見かけることはなかったのだが、まさか自分が声をかけられるとは。
 女性と喫煙所で世間話をした。話を聞いていると、かなり熱心な僕の読者のようだ。嬉しいが場所が場所だけに照れる。例の僕の横しまな動機についての話になったとき、女性が「さっきの授業、○○○○(若い俳優)がいましたよ」などと言う。そもそも僕は若いタレントや有名人に疎いので、確かにすれ違ったとしても分かるわけがない。盲点だった。タバコを吸っているあいだ、少し手持ち無沙汰だったので、手帳にサインとイラストを描いて渡した。

 駅まで二人で歩いて向かった。仕事の話など、ここぞとばかりに色々聞かせてもらった。「最近離婚したんですよね?」と聞かれたので、「そうだよ独身だよ」と答えると、「結婚してくれー!」と女性は言った。冗談とはいえ悪い気はしない。
 僕は山手線、女性は日比谷線だという。改札に近づくと「ああ、せっかく会えたのに山手線の改札に吸い込まれていくんですね」と女性は言った。僕は「そりゃそうだ」と応えて別れた。こういうときに「じゃあ飲みに行こうか」と言えたらいいのかもしれないが、言えたことは一度もない。第一自分はお酒が飲めない。それに今現在も仕事場でスタッフたちが、使うか使わないかもわからない背景素材を頑張って描いているのだから帰らねばならない。
 山手線は帰宅ラッシュでぎゅうぎゅう詰めだった。乗客に弾かれるようにして渋谷の駅で降りてしまったので、諦めてタクシーで帰った。

5月31日(木)

 今更感があるが、会社をつくってみた。一番売れていた時期にしておけばよかったのだけど、面倒すぎて後回しにしていた。周りから法人化したほうが節税できると言われてはいたものの、僕の場合、売れているときほどお金に執着がなくなるようで、逆に言えばいまは少しある。いままでに払った税金の総額にはちょっと自信がある。世田谷区に道路1本くれと言いたい。でも絶対にくれないので今後は貯金します。
 今日は法人の口座をつくるため銀行の担当者と話をした。敬語がたどたどしいのでかなり若いと思われる。僕のことを「社長」と呼ぶので実感が湧かずコントのようだった。「漫画のお仕事ってWEB漫画とかですか?」と聞かれたので、一番売れた昔の漫画のタイトルを教えた。すると担当者はそれを知っていたらしく、「大先生じゃないですか」などという。
 昔は売れていたけどいまはそんなに売れてないから、あまり口座に入金はないかもね。と、心の隅で思いながら手続きを完了した。自分が漫画家だったと思い返す日が2日続いた。いままでの仕事のことよりも、いま取りかかっている仕事の事を考えなきゃいけないのだけど。

6月1日(金)

 今日はゆかちゃんが休みなので、スタッフは富田くん一人だ。原稿を進める気が起きないので富田くんとダラダラと長話をしていた。仕事はしたくないが時間ももったいないので、思い出したように届いていた腹筋ベルトを箱から出し、装着してみた。アマゾンのレビューに「レベルMAXは大人に蹴られたくらいの衝撃」とあったが、半分くらいのレベルでも十分痛い。ときおり「うっ」「いでっ」と声を漏らしながら、「バチェラー・ジャパン」の推しの子の話などをした。富田くんとは女の子の趣味が合わない。
 富田くんが頭痛がするというのでロキソニンをあげた。富田くんは主に3DCGの作業をしている。作画資料として3Dモデルが必要なときはそれを突貫でつくってもらっているのだが、それ以外のときはいつ使うかもわからないCGの街をコツコツつくっている。ちなみにまだ地面しかできていない。なぜ彼がうちでそんな仕事をしているかというと説明が長くなるのでまた別の機会に。富田くんはもともと真面目な性格ではあると思うのだけど、地頭が良いせいか少し世間を舐めている。そして自分も少し舐められている。お互いがお互いを少しバカにしている。だからこそ話しやすいのだけれど。
 しばらくしてから「気の遣える年長者」をアピールしようと思い、頭痛が治ったかどうか「頭大丈夫?」と聞いてみたところ、「僕の頭がイカれてるってことですか?」と返された。二人で失笑。

2018年7月27日更新

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浅野 いにお(あさの いにお)

浅野 いにお

1980年生まれ、漫画家。1998年、「ビッグコミックスピリッツ増刊Manpuku!」にて『菊池それはちょっとやりすぎだ!!』でデビュー。2001年『宇宙からコンニチワ』で第1回GX新人賞に入賞。初の連載作である『素晴らしい世界』を2003年に刊行。2005年発表の『ソラニン』は2010年に映画化された。その他過去作に『ひかりのまち』『虹ヶ原ホログラフ』『おやすみプンプン』『うみべの女の子』『おざなり君』等。最新刊は『零落』『ソラニン新装版』。『ビッグコミックスピリッツ』(小学館)にて『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』を連載中。