漫画家入門

第1回 免許とローンと鼻濁音

2018年5月27日~6月8日

漫画家・浅野いにおさんの日記連載がスタートします。漫画家を目指すひとにもそうでないひとにも、なにかしら有益だったり無益だったりする、不思議な連載になりそうです。

6月2日(土)

 卒業検定のため朝の9時に教習所に到着した。いつもならまず寝ている時間だ。行きがけにリポビタンDの一番高いやつを飲んだので、最後までどうにか持ちこたえたが、途中リタイアしようかと迷うほどふらふらだった。担当の指導員が桂歌丸似の年配の男性で、「ん次の信号をぉ……右ーッ!」と毎回威勢良く指示出ししてくれるので聞き取りやすく、それが有り難かった。
 試験終了後、結果待ちの時間に同じ教習車だった男性と少し話をした。年齢は僕より少し若いくらい。緊張が緩んだせいかお互い口が回る回る。これまでの苦労をお互いにねぎらい、合否の不安をこぼしあった。
 聞くところによるとその男性は、会社からの命令で自動車免許を取らざるを得なくなり、仕事のかたわらに有休をフルに使って、たった1カ月で卒検まで漕ぎ着けたという。僕も急いだつもりだが自分の場合は約3カ月。1カ月はハードすぎる。それと「たぶん僕、営業なんですけど、もうじき地方に転勤ってことだと思うんです」とも言っていた。がんばれ。

 結果発表は乗車順で受験生が教室に呼ばれてゆく。件の男性は1番目。僕は3番目なので廊下のベンチで待っていた。男性が教室からニコニコ顔で出てきたので目で合図を送ると僕のほうに近づいてきて、「たぶんみんな合格ですよ」と教えてくれた。言っちゃダメじゃんと思いつつもものすごく安堵した。
 教室に入ると歌丸が威勢良く「良かったよ。ごぉかくぅ〜」と言ってきたので、僕も威勢良く、ノリノリとふらふらの狭間で教習所を後にした。もうここには二度と来ないと思うと少し寂しさもあるかと思っていたが、全然そんなことはなかった。
 帰る折り、恵比寿ガーデンプレイスの近くを通りかかるとなにやら長蛇の列。覗くとビールフェスやらなんやら。一帯は出店で埋め尽くされ、人垣に囲まれた小さなステージで子供達がフラダンスを披露していた。天気は夏かと思うほどの気温と底抜けの快晴。しかし僕はお酒が飲めないので喫煙所でタバコを3本立て続けに吸い、適当な蕎麦屋に入ってとろろ蕎麦を食べた。

6月3日(日)

 彼女と喧嘩をした。今回は僕が理詰めで追い込みすぎてしまったせいか、彼女が「洗脳されてるみたい」と言い出した。確かに言われてみると、追い詰めたあとに受け入れ、そして許すという今回の喧嘩の流れは洗脳のプロセスと同じだ。あまり良くないやり方だなと思った。教習所を終えたお祝いにケーキを買ってきてくれたのに、結局食べなかった。

6月5日(火)

 今日はゆかちゃんが来た。珍しく帰省していたゆかちゃんから実家の話をあれこれ聞いた。実家話を苦々しく話してくれる人が僕は好きだ。ちなみにゆかちゃんの実家は福島で、僕は茨城。他にスタッフは三人いるが、うち二人も茨城出身だ。自分含め北関東およびその周辺出身の上京者は共通して、一生拭いきれない卑屈さと田舎者感がある、ような気がする。
 卒検合格を自慢していると、ゆかちゃんが「どうでもいい」という顔をしているので、腹筋ベルトの話に変えた。少し興味を持ってくれたようなので試しに装着させて電源を入れると「やべぇー」と言って悶えた。
 最初にベルトを開封した日以降、実は意外と使っているのだが、部屋の中で使うと刺激で居ても立ってもいられないので、コンビニに行く際に散歩しながら使用するようにしている。散歩中は歩くことしかできず、ずっと手持ち無沙汰だったのでちょうど良い。ただTシャツ姿だと腹筋ベルトの角が浮いて腹部が不自然に角ばってしまう。コンビニの店員に「いつもの金髪の客がロボットになった」と思われてないか心配だ。

6月7日(木)

 昼、スタッフの蘭ちゃんにチャイムで起こされた。寝起きのままコンビニにご飯を買いに行った。
 すぐに仕事場に戻り、買ってきた中華丼を自分の椅子に置いた。うなぎ(猫の名前)にご飯と水をやり、中華丼をどけて席に座って蘭ちゃんと喋ろうとした瞬間、強烈な違和感があった。肛門のあたりが熱い。慌てて立ち上がってお尻に手を当てるとホカホカしている。僕は蘭ちゃんに「ごめん漏らしたかも」と伝えた。蘭ちゃんは「えーホントですか?」と言うが、もちろん僕も信じられない。
 少し狼狽したのち、よく考えたらさっきまで置いてあった中華丼で椅子の座面が温められていただけだったと気付いた。僕はホッとして改めて椅子に腰掛けたが、蘭ちゃんは「でもまあ、そういうこともありえる歳ですもんね」などと言う。
 蘭ちゃんが帰ったあと、深夜一人で読み切りの原稿作業を進め、明け方に終わった。久々に無理して仕上げた。しかし数年前まではこれが平常運転だったはずで、いまはめっきり怠け癖がついてしまっている。
 やる気が出ない理由をあげれば枚挙にいとまがないが、漫画を描いているときはいつも「サブカル」「中二病」「意味がわからないから多分これは意味がない」というネットの感想が脳裏にこびりついている。いまとなってはその批判すべてに反論できる理屈は持っているつもりだが、「そもそも理解力不足の人に何を言っても無駄」という諦観がさらにやる気を削いでゆく。

6月8日(金)

 昼、ローン契約のために銀行へ。彼女と家を買うために半々でお金を出し合うことになった。僕は一括で払ってしまうが彼女は資金が足りないのでローンを組む。
 銀行のブースで契約書の説明を聞く。彼女はずっと眉間にしわを寄せている。僕は僕で「なるほど」などと相槌を打っているが実はよくわかってない。長年かけて築き上げたローンのシステムなのだろうから、どれだけ説明されてもこちらから言えることはなく、できることはやるかやらないかの選択だけだ。契約書の文面に目は通すが、右から左へと通り過ぎてゆく。
 帰りがけに銀行の所長という人が現れて話しかけられたのだが、3回聞き返しても何を言っているのか理解できなかった。4回目で彼女が「仕事はいつも夜遅いんですか? って」と言うのでやっと理解できた。慣れない部類の文字列に晒されて脳細胞が大量死したのかもしれない。
 少し時間が余ったので喫茶店へ。彼女が唐突に「出会ってすぐ特別な縁を感じた人同士は、前世やそれ以前から深い縁や因縁がある」という仏教的な生まれ変わりの話をしだしたので、僕が「ラノベの設定みたいだね」と言うと、「ラノベが仏教を引用してるんじゃない?」と言われ、すごく腑に落ちた。
 夕方仕事場に戻ると、富田くんが数日前に教えてくれた「2000年代に活躍した某AV女優が変死した」というネット記事が、今になってどこにも見当たらなくなったと言って不思議がっていた。「某AV女優」で検索しても死亡という情報はないし、女優名の勘違いなんじゃないかとあれこれ検索ワードを変えて試したが、それらしい記事は一件もヒットしない。

 富田くんが別の平行世界に行っていた、ということでひとまずその場は収まった。そして平行世界と言えば。と、僕の幼稚園時代の記憶の話になった。
 僕が通っていた幼稚園の教室の壁にはひらがなの50音表が貼ってあった。それ自体はごく普通のことだが、僕の記憶の50音表では「が行」と「ざ行」の間にもう一行が余計にあったことになっているのだ。表記としては「が」の横にもう一つ小さな点が一つ。つまり「か」の右上に点が3つ横並びしている「が`」。ちなみに発音は「んが」である。
富田くんもゆかちゃんも「はて?」という顔をしているので、その場で検索してみるとあっさりとヒットした。
 正確には「か」の横に半濁音をつけた「か゜」であった。鼻濁音と呼ばれ、やはり発音は「んが」である。その表記にならい発音も「んぎ」「んぐ」「んげ」「んご」と続く。やや記憶違いはあったが、丸々噓ではなかった。自分としては「してやったり」という気持ちだったが、みんなは「ふーん」という表情。
 夜、富田くんが急にマクドナルドが食べたくなったと言うので、ついでに自分の分も買ってきてもらった。二人で聞き馴染みのない名前のハンバーガーを食べながら、マクドナルド商品のカロリーについて調べてみると、見た目に反してテリヤキバーガーのカロリーがなかなか高かった。僕はフィレオフィッシュのカロリーがバカ高いと思い込んでいて、いままで方々でその話をしてきてしまったのだが、一体どこで聞いた情報だったんだろう。
 今日はなにもかもが曖昧でぼんやりした会話ばかりだった。でも生活には何の支障もない。

 

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2018年7月27日更新

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浅野 いにお(あさの いにお)

浅野 いにお

1980年生まれ、漫画家。1998年、「ビッグコミックスピリッツ増刊Manpuku!」にて『菊池それはちょっとやりすぎだ!!』でデビュー。2001年『宇宙からコンニチワ』で第1回GX新人賞に入賞。初の連載作である『素晴らしい世界』を2003年に刊行。2005年発表の『ソラニン』は2010年に映画化された。その他過去作に『ひかりのまち』『虹ヶ原ホログラフ』『おやすみプンプン』『うみべの女の子』『おざなり君』等。最新刊は『零落』『ソラニン新装版』。『ビッグコミックスピリッツ』(小学館)にて『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』を連載中。

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