それ、ほんとの話? 人生につける薬Ⅱ

第5回 事実は小説よりも奇なり?

『人はなぜ物語を求めるのか』に続く、千野帽子さんの連載第5回!

実話とフィクションにたいする、僕らの態度の違い


 この連載はまず、「極端な話/珍しい話/けしからぬ話である」というタイプの報告価値について考察を進めてきました。そして前回、「実話である」という、べつのタイプの報告価値の問題にぶつかることになりました。
 アリストテレスが指摘したように、人はフィクションのなかのできごとにたいしては、必然性を求めるという傾向があります。必然性の感じられない重要事件がフィクションのなかに出てくると、ついつい「出鱈目だ」「ご都合主義だ」などと言って、説得力が減じると考えがちなのです。
 いっぽう、ノンフィクションのなかの意外なできごとにたいしては素直に驚き、「事実は小説より奇なり」とはこのことだなあ、などと言ってはそれを受け入れます。〈奇〉イコール「報告価値がある」ということです。

中居正広さんと〈紀州のドン・ファン〉夫人

 「事実は小説よりも奇なり」で思い出したのですが、元SMAPの中居正広さんが、今月(2018年7月)に、自身の名を冠したバラエティ番組『ナカイの窓』(日本テレビ)で話していたという話題をご存じでしょうか? 僕は観ていなかったので、あとでweb上のニュースで知りました。
 今年、ワイドショウや週刊誌などを席捲したもののひとつに、和歌山県の実業家・野崎幸助さんの死を不審視する一連の話題があります。
 野崎さんはいわゆる「裸一貫から」「一代で」「巨万の富を築き上げた」タイプの富豪で、自伝的な著書『紀州のドン・ファン』(講談社+α文庫)の続篇の刊行直後に急性覚醒剤中毒で亡くなり、目下その死の真相が取り沙汰されています。
 羽田空港で、友人たちとプライベートの旅行で和歌山への便に乗ろうとしていた中居さんは、報道陣のカメラのフラッシュを浴びて、驚いてしまいました。じつはその便は、渦中の野崎夫人が搭乗する便だったらしく、夕方のニュース番組に中居さんご自身が映りこんでいたのです。「事実は奇」だと思います。
 中居さんにとっても、ワイドショウで話題のできごとの渦中の人物というものは、「あ、あの人」と思わせる「有名人」だったんですね。
 そして、中居さんほどに長期間、見ない日がないくらいTVに出ずっぱりできた人にとっても、このようなTVへの「出演」はたいへん印象的だったようです。

現象が報告価値を持つかどうかは、人が置かれた状況によって違う

 街なかで、芸能人と撮影スタッフがロケをしている場に通りかかったことがある、という人は多いと思います。いまこの文をお読みになっているあなたも、放送された画像にひょっとしたら映りこんでいたことがあるかもしれません。じっさい、街ロケの画面には、たくさんの「一般人」が映りこんでいます。
 しかしその事実に興味をそそられる(=報告価値を感じる)のは、そこに映りこんでしまった当人か、せいぜいその当人を近くで知っている人です。その他の大多数にとっては、芸能人の街ロケに映りこんでしまった一般人は、「そういう体験をしたおおぜいの一般人」のひとりにすぎません。
 「中居くんと野崎夫人が偶然同じ画面に、とか、そんなのどうでもいいよ」と感じる人も、もちろん多いわけです。しかしそういう人でも、ご自身が中居さんとか野崎夫人と同じ画面に映りこんでしまうという体験をしてしまったら、少なくとも中居さん当人にとってはそのできごとが報告価値を持ちうるということはわかるのではないでしょうか。
 野崎夫人にかんするTV報道画像に中居さんが映りこんでしまったことが、TV番組で話題として流れる(=報告価値を感じると見なされる)理由は、違う方面での著名人(僕たちが、遠くからではあるが、いちおう知っている人)ふたりが偶然同じカメラの前を同時に通過したからです。
 中居さんがそれをTVで話題にしたのは、野崎夫人が著名だから、というだけでなく、ご自身が著名人であることを自覚してのことでもあります。ただし、TVをあまり観ない生活をしていますと、「紀州のドン・ファンてだれ?」ということになります。さらには「中居正広ってだれ?」という人もいるでしょう。グローバルに見たら、スティーヴ・ジョブズの名前だって知らない人のほうが多いかもしれないわけですから。
 著名人を撮るカメラに映りこんでしまう、という現象自体は同じなのに、それが報告価値を持つかどうかは、人が置かれた状況によって違うというわけです。このことは今後も、違う角度から考えていこうと思います。

ドン・ファン? ドン・フアン?

 野崎幸助さんは著書の題もあって〈紀州のドン・ファン〉と呼ばれています。日本語表記では〈ドン・ファン〉という言いかたが定着しているようですが、スペイン語の名でDon Juan、発音は[doɴˈχwan]ですから、〈ドン・フン〉ではなくドン・フンあるいはドン・フンのほうが近いので、ここではドン・フアンと表記することにします。
 ドン・フアンという伝説的な漁色家は、スペインの劇作家ティルソ・デ・モリーナの戯曲『セビーリャの色事師と石の招客』(1630、佐竹謙一訳、岩波文庫)に登場し、一躍有名になりました。ティルソ・デ・モリーナの名前を知らない人でも、ドン・フアンの名前なら知っています、
 近代文学では、作者の個人性・個性が重視されるので、作者よりも作中人物のほうが有名になるというのはわりと少数派だと思います。作者が不明のむかし話や、作者・監督が有名でもヒットした漫画・映画だったら、わりと当たり前の現象なのですけどね。
 フランスの小説家ミシェル・トゥルニエは、自伝的エッセイ『精霊の風』(1977/増補版1979、日本語訳は諸田和治訳、国文社《ポリロゴス叢書》)のなかで、こういう例を「神話になった」ケースと呼んでいます。近代文学でいうと、セルバンテスのドン・キホーテ、デフォーのロビンソン・クルーソー、ドイルのシャーロック・ホームズなどはこういうケースでしょう。
 35年後、フランス古典喜劇のヒット作のひとつ、モリエールの『ドン・ジュアンもしくは石像の宴』(1665、鈴木力衛訳、岩波文庫)が初演されました。名前はフランス語読みですね。知名度はオリジナルより高く、二次創作のほうが有名になってしまったわけです。イタリア語名の『ドン・ジョヴァンニ』(1787、モーツァルトのオペラ)やリヒャルト・シュトラウスの交響詩『ドン・フアン』(1888)は、音楽好きの人に親しまれています。
 ドン・フアンはこのように、演劇や音楽の分野で二次創作の題材になってきた。まさに神話と化したわけですが、このドン・フアンが、「事実は小説よりも奇なり」とも縁があるのです。

「真実は小説よりも奇なり」(バイロン卿)

 英国の詩人バイロン卿に長篇諷刺詩『ドン・ジュアン』があります。1824年の作者の死によって未完のままです。じつは、「事実は小説よりも奇なり」のルーツはここだと言われているのです(諸説あり)。
 原文では〈事実は〉ではなく〈真実は〉となっています。単一のtruthというあたりが、抽象のほうへと一歩踏み出している表現だったのが、日本にはいったときに、個別のfactのほうにすり替わったわけです。日本社会では普遍的原理で考える言説が通りにくいような感じが、僕もなんとなくします。
 「真実は小説よりも奇なり」は、その『ドン・ジュアン』第14歌終盤にある第101聯の最初の2行に出てきます。ここでは文脈を読みやすくするため、第101聯の最初の4行を小川和夫訳(冨山房、下巻、375頁)で引用しましょう。小川さんは1行を2行に訳し分けていますが、引用者の責任でもとどおり1行にまとめさせていただきます。

  奇妙なことだが、真実だ、真実は常に奇妙であり、
  作り事〔フィクション〕よりも奇妙だから。もしそれが語れるとしたら、
  この交換でいかばかり小説〔novels〕は得することだろう!
  いかに違って人々はこの世眺めることだろう!

〈この交換〉とは、「もし小説のほうが真実よりも奇だったとしたら」ということです。前回のポウ同様、バイロン卿もまた、ノンフィクションを羨ましがっている感じがしますね。

「真実は小説よりも奇なり」、マーク・トウェインのヴァージョン

 『ハックルベリー・フィンの冒険』で知られる米国の小説家マーク・トウェインにも、「真実は小説よりも奇なり」のヴァージョンがあります。
 彼は1893年から94年にかけて《センチュリー・マガジン》に、探偵小説『まぬけのウィルソン』ならびに同作品の広告「まぬけのウィルソンのカレンダー」を連載しました(いずれも『まぬけのウィルソンとかの異形の双生児』村川武彦訳、彩流社《マーク・トウェイン コレクション》第1巻に所収)。
 その後トウェインは旅行記『赤道に沿って』(1897)の各章の冒頭に、「まぬけのウィルソンの新カレンダー」という文献からの「引用」を載せていますが、調べたかぎりではそういう新作カレンダーは存在せず、どうやら『赤道に沿って』が初出のようです。その第15章の冒頭の「引用」は、こうなっています。
〈たしかに、真実は小説〔fiction〕より奇なり、である。だが、それは小説というものが、本当にそんなことがありえるかどうかを無視できないからである。その点、事実は違う、ありえるかどうかなど問題ではない。実際に起こっているのだから〉
(飯塚英一訳、上巻、同《コレクション》第14巻-A、149頁。訳者は〈事実〉と訳していますが、原文はやはりtruthなので、それにしたがって引用者の責任で〈真実〉に修正しました)
 ポウとアリストテレスが言ったことが、ここでも確認されています。たしかに納得はする。
 しかし、僕は考えてしまうのです。ほんとうに事実は小説よりも奇、でしかないのでしょうか?
                                 (つづく)

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