piece of resistance

29 寿司屋

なんでそんなことにこだわるの? と言われるかも知れないが、人にはさまざま、どうしても譲れないことがあるものだ。奥様とは言わない、本に書き込みはしない、ご飯は最後の一粒まで食べる、日傘は差さない……等々。それは、世間には流されないぞ、というちょっとした抵抗。おおげさ? いやいや、そうとは限りません。嫌なのにはきっとワケがある。日常の小さな抵抗の物語をつづります。

 気になっていた近所の寿司屋へ初めて足を運んだ。
 店構えは悪くない。外壁は渋い砂色の漆喰で、白木の引き戸には程よく風にさらされた藍染めの暖簾が垂れている。磨りガラスから洩れてくるのは暖色系の明かり。寿司屋に入るぞ、という気負いを客に抱かせない柔らかな佇まいだ。
 にもかかわらず、引き戸の先に開けた店内に、客の影はカウンターの一人きりだった。
「らっしゃい! お一人さまですか」
「あ、はい」
「どうぞカウンターへ」
 カウンター越しに声を響かせた大将の愛想も悪くない。
 私はカウンターの右から三番目に腰掛け、女性従業員に瓶ビールを注文してからメニューを手に取った。
 スミイカ二〇〇円。ヒラメ三〇〇円。中トロ四〇〇円。回らない寿司屋にしては値段もまあまあ悪くない。一貫単位で注文できるのもいい。
 手始めにアジのなめろうとタコの磯辺揚げを頼んだところ、料理の味も悪くなかった。いや、旨い。なめろうにはミョウガがふんだんに使われていて、そのシャリシャリ感と叩いた魚の粘りが絶妙に合っている。からりと揚がった磯辺揚げは風味豊かで、熱々のタコをかじるとジューシーな海の滋味がほとばしる。
 店構えよし。店主よし。価格設定よし。味よし。
 近所のサウナで「この辺りに安くて旨い寿司屋はありませんかね」と尋ねたとき、顔見知りの三人がそろってこの店の名を挙げたのもうなずける。
 しかしながら、「よく行かれるんですか」と私が重ねて尋ねると、三人はまたもそろって首を斜めに傾けたのだった。
「うーん。あんまりねえ」
「最近は行ってないねえ」
「どうかなあ」
 あの微妙な反応と、夕飯どきにもかかわらずこの店ががらんとしている現状は無関係ではなさそうだ。

 この悪くない店のいったい何が悪いのかーーうっすら透けて見えはじめたのは、握りの注文に移ってからだった。
 まずはコハダとスミイカ。「はいよっ」いい手つきで軽快に二貫を握った大将は、寿司下駄にそれを載せたあと、丁重に腰を折りまげて言った。
「お客さん、ぜひコハダは塩で、スミイカは塩レモンで召しあがってください。そのほうが旨みが引きたちます。お願いします」
 自分のこだわりを押しつけてくる店主は苦手ながらも、こうも頭を下げられるとむげに断れない。私は大将が施した塩加減のまま二貫を口へ運んだ。旨かった。いやな予感のする旨さだった。
 あんのじょう、大将はその後も一貫ごとに「これは塩で」「これはタレで」と細かい指示を出してきたのだった。
「これは醤油でいけますけど、ちょちょっと、ほんのちょっとでお願いします。魚が死んでしまうんで、どうぞつけすぎないで……あーっ、もうそのへんで、そのへんで」
「あ、イクラは何もつけないでください。もともと醤油に漬けこんでますから、それ以上かけるとイクラの醤油漬けじゃなくて醤油のイクラ漬けになっちゃいます」
 私と同年代とおぼしき四十半ばの大将は、とりわけ醤油に対して思うところがあるらしく、私がべっとりつけすぎないように終始目を光らせている。それが高圧的な態度であればこちらもぷいと席を立つまでだが、あくまで腰は低く、最良の形で寿司を食ってほしいという善意にあふれているのが厄介だ。
「塩はね、お客さん、もともと海のものなんです。醤油の大豆は土のもの。本来、魚と醤油は畑違いなんですよ」
 ついにはわけのわからぬ持論までもちだされ、結局、私は魚を食ったという満足感よりも、醤油をつけそこなった物足りなさを抱えて帰路につくことになったのだった。

 私が二十や三十の若造であったなら、恐らく二度とあの店の暖簾はくぐらなかっただろう。が、私もさまざまな紆余曲折を経て四十六になり、ただ縁を絶つより多少なりとも生産的な人との関係を模索する段に至っている。
 そこで、私はその後も月二の頻度であの寿司屋へ通い、大将の醤油嫌いに根気強くつきあって、半年後には店の外で飲むほどの間柄となった。大将は意外にもお好み焼きが好物と聞いて、じゃあ私のお薦めの店に案内しましょうということになったのだ。
 好みの具材を注文し、自ら生地に混ぜて焼きあげるセルフ制の一店。いつも寿司を握ってくれる大将のため、私は心を込めてエビ、タコ、豚の分厚いミックス玉をふっくら焼きあげた。最後にソースをかけ、青のりとかつおぶしをぱらりと散らす。
「はい、出来上がり」
「え、マヨネーズは?」
 にわかに瞳の落ちつきを失った大将に、私は深々と頭をさげて言った。
「お願いします、どうかここはソースだけで」

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