PR誌「ちくま」特別寄稿エッセイ

こじれた男らしさを解きほぐす

男らしさはどこへ行く?・1

PR誌「ちくま」8月号より河野真太郎さんのエッセイを掲載します

 そもそも「男らしさはどこへ行くのか」などと問いかけることがけしからんという話になる。ハリウッド発で爆発的に広まった反セクハラ・反性暴力運動のMeToo運動が新たなフェミニズム運動として輝きを放っている現在、男らしさを問うこと自体、「女の権利ばかり守るのは男への反差別だ」といったネトウヨの喜びそうな論理に容易に落ち込んでしまうではないか。男らしさなんてなくなって大いに結構。男も生きづらい?  知ったことか。
 その通りで、私自身、「男への反差別」的な言説には毛ほども同意しないものの、心配になるのは、それで生じている社会的分断はリアルなものだということだ。確かに、男は男であるだけで自由や力を得ているというのは客観的な事実である。だが、それを客観的事実とは受けとめられず、また男であるゆえの自由や力を自分自身は得ていないと思ってフェミニズム運動に対して悪感情を持ち、MeTooに対してNotMeと言い出しそうな男性たちが存在することも、また客観的な事実なのである。
 そうやって生じている社会的分断を解決することなしにMeToo運動が本当の成功を収めることはないのではないか。
 取り急ぎつけ加えると、私は、MeToo運動をやっている人たちに解決の責任があると言いたいわけではない。あえて言うならば、こじれた男らしさを解きほぐすことは、男たち自身の責任ではないか。
 こじれた男らしさを解きほぐすこと。ここで映画作品に頼ってみたい。たとえば一九九八年公開、ジェームズ・L・ブルックス監督の『恋愛小説家』はどうだろうか。ジャック・ニコルソン演じる偏屈者の恋愛小説家メルヴィンは、男性性をこじらせた人物そのものである。彼は自室に引きこもって、現実に自分では実践できない甘い恋愛を小説に書く。現実の彼は、同性愛者や有色人種に対する偏見を隠しもせず、まともな対人コミュニケーションのできない嫌われ者だ。物語は、そんな彼が、唯一心を開くウェイトレスのキャロルと恋に落ちて、隣人のゲイの画家であるサイモンの助けも借りながら結ばれていく経緯を描く。
 メルヴィンのこじれた男らしさとは、具体的には何だろう。玄関の鍵を五回回して閉めないと気が済まず、道路の割れ目や継ぎ目を踏むことができない彼は強迫性障害を患っており、それが彼のこじれの当面の原因である。だが、それだけではない。観客は、彼の障害と偏屈な性格を別々のものとしてではなく、一体のものとして見ることを求められている。そして、キャロルとの異性愛的な結びつきを成就させる結末において、彼は強迫性障害から治癒されると同時に彼自身の言う「より良い男(a better man)」になるのだ。
 その、病と一体となった性格の問題は、現代的な言葉で言いかえれば「コミュ力の欠如」にほかならない。メルヴィンの苦悩は、相手の気持ちや場の空気を読み、しかるべきコミュニケーションをとることができないことから主に生じている。だとすれば、物語は、メルヴィンによるコミュ力獲得の物語なのだ。
 コミュ力が人間的な資質というだけではなく労働者としての資質とされるポストフォーディズム的な現在。『恋愛小説家』はそのような現在においてこじれざるを得ない男性性の物語であった。

PR誌「ちくま」8月号

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