それ、ほんとの話? 人生につける薬Ⅱ

第6回 小説の筋や人生の展開に、必然性はどれくらいあるのか?

『人はなぜ物語を求めるのか』に続く、千野帽子さんの連載第6回!

フィクションだけでなく、予測や反実仮想にも必然性が要求される


 ほんとうに事実は小説よりも奇、でしかないのでしょうか?
 ここまでの議論を振り返ってみましょう。
(1) 人は「ひどいできごと」「珍しいできごと」の物語に「報告価値」を感じる傾向がある。
(2) しかし、極端に「けしからぬできごと」「珍しいできごと」を盛りこんでも、それがフィクションであるばあいには、そのできごとが起こる必然性を要求する傾向がある。
(3) いっぽう、ノンフィクションの物語のなかに必然性のない「ひどいできごと」「珍しいできごと」があるときには、「事実は小説より奇なり」などと言って、驚きをもって素直に受け入れる。
 こうやって短く纏めることの効用というものがあって、それは、「あ、ノンフィクション言説でも、そうでないケースがあったな、そういえば」ということに気づかせてくれることです。
 「ノンフィクション」というと一般には、出版物の一分類、文芸の一分野として使われるレッテルです。けれどこの連載では、文字どおりの「非虚構言説」一般をさす言葉として使っています。
 だから、ノンフィクション言説には、歴史記述や取材を重ねて書いたジャーナリスティックなルポルタージュといった過去形の物語だけでなく、
「あ、俺昼飯食ったばっかだから」
みたいな日常の報告も入ります。
 ということは、天気予報や経済予測や「きょうの晩ごはんはカレーにしよう!」のような未来にかかわる言説も含まれるのです。
 それだけではなく、事実に反する仮想の帰結──これもフィクションではなく、英語で言う過去(完了)形if節に導かれる仮定法現在・過去で表現される事態──においてもそうなのです。
 たとえばヴィッセル神戸とジェフユナイテッド市原・千葉の試合で、千葉には一度大きなチャンスがあったのですが、神戸がぎりぎりのところで守りきって勝った、とします。千葉のサポーターは
「あのとき1点決まってたら(if)千葉、盛り返した(would)のになあ」
とツイートするでしょう。
 それを読んだ神戸のサポーターは、
「ないない。100歩譲ってそうなっても(even if)、イニエスタがもう1回思い知らせてた(would)に決まってる」
と言い返すかもしれません。両サポーターは、おたがいに相手の仮想・帰結を「必然性がない」と感じるわけです。
 つまり非虚構言説であっても、予測や反実仮想にたいしては、程度の差はあれどフィクションと同種の「必然性」を、人は要求してしまう傾向があるというわけです。それらはすべて人間が考え出したシミュレーションなので、そうなってしまう。
 いっぽう、すでに起こってしまった現実のなりゆきについては、そこまでの必然性を求めない。もちろん、うっかり求めてしまうケースもあります。こういう傾向の人については、拙著『人はなぜ物語を求めるのか』、あるいはそのもととなった連載「人生につける薬」第9回「不幸なできごとには必ず「悪い原因」があるのか?」をお読みください。

必然性と説得力

 多くの人は、フィクション・予測・反実仮想のなかのできごとの展開には必然性を求め、過去についてのノンフィクションのなかのできごとの展開にたいしては、それほどの必然性を求めない。そう書きました。
 とはいえ、後者についても、人は安易に必然性という言葉を用いる傾向がないわけではありません。
 《Casa BRUTUS》2017年9月号の特集『椅子選び』を再編集したムック『名作椅子と暮らす。』の96頁に、こういう文を見つけました。
〈ジャスパー・モリソンのデザインを読み解く鍵は「普通」という概念だ。多くの人は斬新なものや奇抜なものに興味を持つが、そこに本当の価値があるとは限らない。一方、人々が慣れ親しんだ「普通」には、長い歴史の中で磨き抜かれた必然性が存在する〉
 椅子のデザインにかんする文章です。一見、〈普通〉のものが人々に慣れ親しまれるのは必然性=理由がある、と言っているように見えますよね。
 ここから先は、どう考えるのが好きか、という好みの問題になりますが、必然性はやっぱりある! と考えるほうが好きな人はきっと、モテる人には理由があるからそれを見つけて真似しよう、というポジティヴな発想があるのでしょう。また、人類がここまで地上で繁栄してきたのは、人類が他の動物よりも優れていたからだ、と考えるかもしれませんね。
 でも、
〈長い歴史の中で磨き抜かれた必然性〉
って、ちょっと考えたらなにを言っているのかわからない。だって、長らく慣れ親しまれる理由がその椅子にあるなら、最初からあるはずだし、ないなら、最初からないはずです。〈長い歴史〉関係ない。
 じつはこの、
〈人々が慣れ親しんだ「普通」には、長い歴史の中で磨き抜かれた必然性が存在する〉
という文は、〈普通〉のものが人々に慣れ親しまれる必然性=理由というものはない、と言っているのに等しい文だったのです。
 つまり、〈長い歴史の中で〉生き残ってきたデザインがあって、人は後づけでそこに生き残った〈必然性〉があることにしちゃう、というカッコ悪い真実を、なんかそうバレないようにカッコよく言ってみた、そういうおもしろい文なのです。
 ちょっと考えたらすぐバレるんですけど、雑誌の囲みのなかで、小さい文字で組まれたら、
「そうか、そうだな」
となんとなく納得しちゃう人も多いのではないでしょうか?
 いっぽう、その椅子のデザインが生き残ったのは、あるいは人間がここまで地上で繁栄したのは、偶然というかめぐり合わせというか、縁とか運とかそういったものだ、という考えかただってあるわけです。個人的な好みで言うと、微妙に僕はこっち寄りなんですよね。

小説は自転車レースなのか? そして人生は?

 チェコ出身のフランスの小説家ミラン・クンデラの『不滅』(1990)という僕の大好きな小説のなかで、ある登場人物(それもまた〈クンデラさん〉と呼ばれる小説家なのですが)が、食事中に友人に向かって、つぎのようなことを言います。この小説には、菅野昭正先生によるたいへん素敵な翻訳(集英社文庫)があるのですが、いま出先で手もとに本がないので、原書から僕が訳しますね。
〈きょうび書かれる小説のほとんど全部が、筋〔行動〕の一貫性を規則として守りすぎているのはかなわんな。みんな、筋とかできごとの因果の繋がりたったひとつだけに基づいて書かれてる。
 この手の小説は狭い一本道みたいなもので、登場人物を鞭打ってそこを走らせているようなものだ。
 小説はまったくもって劇的緊張とやらいうものに呪われてるよ。劇的緊張ってやつは、どんなに美しいページでも、どんなに驚きに満ちた場面や意見でも、すべてを、ゴールを目ざす途中のただの1ステップにしちゃうんだから。そして最終結末はそれに先立つ全部の意味が集中してるというわけなんだから〉
(KUNDERA, Milan, L’Immortalité (Nesmrtelnost [1990]) in Œuvres, éd. définitive, tome II, avec une biographie de l’œuvre par François Ricard, Paris : Gallimard, coll.  « Bibliothèque de la Pléiade », 2011, pp. 198-199. 拙訳。引用者の責任で改行を加えました)
 小説を読んで、あるいはTVドラマを観て、筋の展開にたいして「必然性がない」と批判したことがあるすべての人は、こういう〈劇的緊張〉に支配された〈筋の一貫性〉を物語コンテンツに求めている、そういうタイプの読者・視聴者だということになります。
 結末に向かって精密機械のように進んでいくストーリーは、たとえばソポクレスの『オイディプス王』のようなギリシア古典悲劇、あるいは短篇の謎解き探偵小説の魅力です(オイディプス神話については「人生につける薬」第16回「僕たちは「自分がなにを知らないか」を知らない。」をどうぞ!)。三島由紀夫という人は、そういった必然をシミュレーションして設計図を引いて小説や劇を精巧に書きました。
 でも、そういった必然性の機械仕掛けだけが小説(とくに長篇小説)の魅力なのではありません。『不滅』の作中人物〈クンデラさん〉は、食卓で友人に向かってさらに語ります──。
〈じゃあ、ゴールを目ざす熱狂レースでないものは全部退屈だと考えなきゃダメなのかな?
きみはいま、この最高に旨い鴨の腿肉を食べながら退屈してる?〔…〕
 小説が自転車レースに似てる必要なんかないんだよ。
 小説ってものはね、料理がつぎからつぎへとどっさり出てくるパーティみたいなものじゃなくちゃ〉
(拙訳。引用者の責任で改行を加えました。とはいえ、レース中のサイクリストやランナーやジョッキーが途中の風景を心から味わうことがあるという話も、僕は聞いたことがありますけど……)
 クンデラさん素晴らしい!
 と思いながら同時に僕は、文中の〈小説〉を「人生」に置き換えたくなる誘惑に駆られてしまうのです。
 僕たちは人生を、単一のコースをたどるレースにしてしまっていないでしょうか? 途中のすべてを、ゴールへのステップにすぎないものにしてしまっていないでしょうか?
 僕の人生が、料理がつぎからつぎへとどっさり出てくるパーティみたいなものでありますように。
(つづく)

 

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