資本主義の〈その先〉に

第15回 資本主義的主体 part4

3 召命

召命としての職業

 パウロは「コリント人への第一の手紙」でこう書いている。

主がおのおのに分け与えた分に応じ、神がおのおのを召されたときの状態のままに歩みなさい。これはすべての教会でわたしが命じていることです。(7章17節)

「召されたklētós(クレートス)」は、動詞kaléō(カレオー)〔召喚する〕に由来する。マックス・ヴェーバーは、資本主義の精神──すでに見たように功利主義的・快楽主義的な動機とはまったく独立に利益を倫理的に追求しようとする心性──とプロテスタンティズムのエートスとの関係を見る際にまずは、ルター訳(として普及した)聖書で、これらの語の系列に属する「klēsis(クレーシス)〔召命〕」にドイツ語の「Beruf(ベルーフ)」が充てられたことに注目した。このヴェーバーのテーゼを、知らない者はいないだろう。「ルター訳聖書」によって定着したこの翻訳に現れているように、ルター派の興隆とともに、「召命」を意味する語が、近代的な「職業」という意味をも獲得した。ヴェーバーは、このように論ずる。
 ところで、われわれは、次のことを述べてきた。資本主義の下で、主体は、永続的な借金を背負っているかのようだ、と。しかも、その負債には、倫理的・宗教的な重みが与えられている。つまり、負債は罪である。
 職業が神からの召命として意味づけられたということは、資本主義的な主体のこのような日常的な罪責感を、少なくとも部分的には説明するだろう。負債は、神からの呼びかけに応じきれていないことの表現になるからだ。今しがた引用したパウロの言葉の中にある「教会ekklēsíais」もまた、「klēsis」と同族のことばである。教会という信仰共同体は、パウロにとっては、救済へと差し向けられた共同体である。もし職業が「召命」であるならば、われわれの労働の全体が教会的・宗教的な意味を、つまり救済に関わる意味を帯びることになる。
 ルター派の登場とともに、クレーシス(召命)という宗教的な意味とベルーフ(職業)という近代的な意味とが短絡した。しかし、ヴェーバーによれば、パウロの本来のテクストには、現世的な職業についてのいかなる肯定的な評価もほんとうは含まれてはいなかった。
 冒頭に引いたことばに続けてパウロは、次のような趣旨のことを書いている。もしあなたが割礼を受けている者として召されているのであれば、割礼の跡を消してはならず、もしあなたが割礼を受けていずに召されているのであれば、割礼を受けようとしてはならない。もしあなたが召されたときに奴隷であれば、自由の身になろうとしてはならず、もしあなたが自由な身分の者として召されたのであれば、奴隷になってはならない。
 この部分を引いたあとに、ヴェーバーが述べていることは、いささか興味深い。この一節においては、クレーシスという言葉が、今日の「職業」を意味してはいないことは確実だ、と。このクレーシスは、ラテン語のstatus(スタトゥス)、あるいはドイツ語のStand(シュタント)に相当する、というのがヴェーバーの解釈だ。Standとは、「身分」──「奴隷の身分」とか「既婚者の身分」とかという用法における身分である、とヴェーバーはわざわざ解説している。
 が、しかし、繰り返せば、「ルター訳」として普及した聖書において、「クレーシス(召命)」は「ベルーフ(職業)」という語に対応させられていた。ここには、パウロ自身が考えていなかったかたちで、宗教(召命)と世俗(職業)とが架橋されており、ヴェーバーはこの事実に注目した。念のために述べておけば、ここから単純に、「ルター訳聖書の影響で……」云々と理解するのはあまりに幼稚である。このような訳語が説得的なものとなるような社会的条件が、16世紀以降整いつつあった、と事態を理解しなくてはならない。

召命の廃棄としての召命

 さて、ヴェーバーの解釈を媒介にして資本主義の起源を探るということのみが主題であれば、以上のような理解でおおむね十分だ。しかし、資本主義の〈その先〉にまで視野を拡げるためには、ルター派の間で普及した「ベルーフ」の源泉である「クレーシス」概念を、もうすこし繊細に見ておくと後の考察に役立つ。当面の課題にとっては遠回りになるが、後論のために、ヴェーバーを少し離れてパウロの議論の奇妙な深淵を覗いておこう。そうすると、われわれは、ヴェーバーの着眼とマルクスの着眼の意外なつながりを発見することにもなる。
 今紹介した、パウロの「召命」についての教説は、非常に保守的なものに感じられる。奴隷は奴隷の身分のままにいなさい、誰もが主の召命を受けたときと同じ身分にとどまりなさい、と説いているのだから。普通は、これは、終末論的無関心の態度を示すものだとされており、ヴェーバーもそう解釈している。終末論的無関心とは、どうせ神の再臨の日(終末の日)は迫っているのだから、おのおの神に召命されたままの状態にとどまりそれを待つのがよい、という態度である。
 ところが、そのすぐ後に、パウロは正反対のことを述べている。しかも、終末が迫っていて、残りの時間はわずかである、ということに言及しつつ、である。この不可解なパウロの要求は、そのまま引用するに値する。

兄弟たちよ、わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。今からの残りの時は、妻のある者は妻のない者のように、泣く者は泣かない者のように、喜ぶ者は喜ばないように、物を買う者は物を買わない者のように、世の事にかかわっている者は、かかわりのない者のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。あなた方が思い煩わないことを、わたしは望んでいる。(コリント人への第一の手紙 7章29節〜32節)

 ここでパウロは、クレーシス(召命)の最終的な意味は、「Xではない者のように」ふるまうことだ、と述べている。ところで、そのように行動するように求められているのは、まさに「X」として召命されている者である。とするならば、ここでパウロが述べていることは、まったく純粋な逆説ではないか。召命とは召命の廃棄に等しい、と述べていることになるからだ。
 すると、パウロは、まことに複雑で尋常ならざることを、「クレーシス」という概念に託して述べていることになる。一方で、彼は、奴隷は奴隷に留まりなさい、要するに「おのおの自分がその中で召命された同じ召命の中に」(コリント人への第一の手紙 7章20節)留まりなさい、と述べている。他方で、彼は、「Xでない者のように」あれとも、つまり、いっさいの与えられた具体的な召命を棄却することこそがまさに召命である、とも述べている。
 この両面を整合的に解釈するためには、次のように考えねばなるまい。パウロが奇妙に同語反復的な言い回しで述べていること、召命されたことのうちにあって召命されてあることは、そのまま、召命からの離脱へ、召命の廃棄へとつながっているのだ、と。あるいは、パウロのいう神の召命には、背反する二つのベクトルが働いている、と言ってもよい。同じに身分に留まるベクトルと、自らに与えられた身分の廃棄を通じて変化しようとするベクトルの二つが、である。パウロによれば、神の召命に応えるということは、私が今の私(の社会的身分)に留まることでありつつ、他方で、私が今の私ではなくなることでもある。
 この文脈で、ジャック・ラカンが狂気について述べている警句を思い起こしてもよいだろう。ラカンはこう言っているのだ。もし自分を王だと思っている乞食が狂人であるならば、自分を王だと思っている王も狂人である、と。王が王であることに対して自覚的にかかわることが、王が王でない者として(も)ふるまいうることを、つまり王が自分自身に対して距離をとりうることを含意していなくては、その王は狂人である。王が王としての同一性に全面的にのめり込み、まったくそこから離れられなくなることはむしろ狂気なのだ。言い換えれば、その人が狂気に陥っていなければ、召命されたことにまさに召命として自覚的に関わることが、その召命されてある状態からの離脱の契機を含んでいるはずだ。

関連書籍