資本主義の〈その先〉に

第15回 資本主義的主体 part4

3 召命

階級(クラッセ)

 資本主義への動因としてヴェーバーが職業に着眼したとすれば、マルクスは、階級に、階級的分業に着眼した。ところで、フランス語に由来する「Klasse(イラッセ)〔階級〕」という語を使用したのは、しばしば言われてきたように、マルクスの独創である。マルクス以前には、このような用法はなかったのだ。ヘーゲルは、マルクスだったら「Klasse」と呼ぶ対象を、伝統的な語彙「Stand(シュタント)〔身分〕」で指示している。なぜマルクスは、「Stand」を捨てて、「Klasse」という当時としては聞きなれない語を用いたのか。
 ヴェーバーが述べていることが、意図せざるかたちで、間接的なヒントを与えてくれる。ヴェーバーは、「クレーシス」という語が、「少なくともここ〔『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』〕で論じられているもの〔職業〕を想起させる意味」をもつ唯一のギリシア語のテクストは、ハリカルナッソスのディオニュシオスの一節である、と述べている。ディオニュシオスは何を言っていたのか。市民の集合の中で兵士として召喚された部分を、ラテン語でclassis(クラッシス)と呼ぶ。もちろん、これが、やがて、フランス語のclasse(クラース)になる。ディオニュシオスによれば、ラテン語のclaasisは、ギリシア語のklēsis(クレーシス)に由来する。つまり、klēsis(召命)→classis→classe→Klasse(階級)という系譜があったことになる。
 この語源学的な推測は、今日の知見からすると認めがたいようだ。しかし、それでも、ディオニュシオスの説を、われわれの考察を推進させるための起爆剤として活用することができる。というのも、マルクスのKlasseの中には、klēsisの含みが響いているからである。このように提案しているのは、ジョルジョ・アガンベンである(1)。アガンベンの誘いに乗ってみよう。
 マルクスによれば、ブルジョワジーはクラッセ(階級)であって、シュタント(身分)ではない。それは、むしろシュタントの解体をこそ表現している。このように述べるとき、マルクスは何を言おうとしているのだろうか。たとえば、貴族(身分)は永遠に貴族のままであり、平民は平民のままである。つまり身分は個人の不可分の属性になる。階級はまったく逆である。個人の社会的所属を階級として把握することは、その個人と彼の社会的な姿としての階級との間には、本質的なつながりがないということを、むしろ両者の間には分裂があるということを暗示している。貴族が貴族であることは必然である。それに対して、ブルジョワがブルジョワジーに属していることは偶有的でしかない。彼はたまたま運よく(?)、ブルジョワジーの一員であるに過ぎない(2)
 クレーシスと関係づけるならば、次のように言うことができる。クレーシスは、二つのベクトル、つまり召命された状態の中に留まろうとするベクトルと召命を廃棄して変化しようとするベクトルの二つによって構成されている、と述べた。前者のベクトルしかなければ、それは身分である。後者のベクトルが入ってくると、つまり召命された状態からの離脱の可能性が導入されると、それは階級になる。
 ブルジョワジーにおいては、二つのベクトルがせめぎあっている。両者の均衡が、ブルジョワジーだ。とすれば、論理的には、後者のベクトルだけで成り立つ階級がありうる。つまり、(Xが)「Xでない者のように」変化しようとする指向性だけで定義できる階級が、である。それこそプロレタリアートであろう。
 プロレタリアートに関して、マルクスはこう言っている。プロレタリアはただ自分自身を廃絶することによってのみ自分を解放することができるのだ、と。あらゆる社会的身分を解体し、階級のない社会へと移行したとき、プロレタリアートは解放される。ブルジョワジーが、身分の否定によって定義される階級であるとすれば、プロレタリアートは、階級自身を否定する階級である。
 マルクスが、階級なき社会への、つまり資本主義の〈その先〉への革命の担い手としてプロレタリアートを認めたとき、われわれは、ここに、パウロ的なクレーシスと似たものを、いやほとんど同じものを認めることができる。パウロにとっては、エクレーシア(ekklēsia)〔教会〕は、救済のための共同体である。マルクスのプロレタリアートは、資本主義社会におけるエクレーシアである。それは、人を「Xではない者のように」変容させる革命の担い手だ。

 いずれにせよ、議論が先走りしすぎている。われわれは、資本主義の根幹的な成り立ちを解明するために、もう少し踏みとどまらなくてならない。さもなければ、以上のような結論は安易なものにしか見えないだろう。資本主義の精神の源泉となったプロテスタンティズムのエートスとしても、ヴェーバーにとっては、ルター派よりもカルヴァン派の方がはるかに重要だ。前回見たように、経済的な「先進」地帯は、カルヴァン派が有力な国や地域とおおむね合致している。だが、カルヴァン派と資本主義との関係を理解することは、ルター派の「召命=職業」の観念の資本主義への貢献を理解するよりもずっと難しい。ただ、ルター派のこの観念とカルヴァン派の中心的な教義の間には内在的なつながりがある。今回述べたように、召命に強度を与えているのは、終末への切迫した感覚である。カルヴァン派の教義もまた、この終末への独特の態度をめぐって構成されている。

(1)ジョルジョ・アガンベン『残りの時──パウロ講義』上村忠男訳、岩波書店、2016年、47頁。
(2)イギリスの人気ドラマ「ダウントン・アビー」は、階級と身分の葛藤の物語だと解釈することができる。このドラマは、20世紀初頭の──第一次世界大戦を挟んだ時期の──イギリスの「貴族」と「使用人」を描いている。登場人物の大半は、未だに、「身分」という枠組みで事態を把握しようとしている。しかし、客観的には、彼らはすでに「階級」(ブルジョワジーとプロレタリアート)である。「身分」(貴族という身分、平民という身分)は、すでに自分が死んでいることに未だ気づいていない。この主観的な把握と客観的な事態とのギャップが、悲喜劇を生む。

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