上田麻由子

第21回・まぼろしの物語

『舞台「刀剣乱舞」悲伝 結いの目の不如帰』

旅の道連れ

「刀たちもあなたがいなくば寂しゅうございましょう。死出の旅にお連れくださいまし」という言葉とともに、義輝の命を奪った刀たちは、舞台上に墓標のように突き立てられる。この印象的なシーンが示しているように、持ち主の死後も遺される刀剣は、劇中の言葉を使うなら「歴史の名残り」である。その眠りを新たな主(審神者)が覚まし、歴史の守り人として生きるという目的と、付喪神としての意識を与え、何度も何度も同じ歴史を見守らせるという、この『刀剣乱舞』というシステムの残酷さについて、本作でわたしたちはあらためて考えさせられることになる。

 このように刀剣男士のままならない生を突きつけられることで、本作の中心的な出来事である三日月宗近と山姥切国広とのやむにやまれぬ「叛逆の物語」のせつなさは、いっそう強まる。これまで「じじい」として、まるで何もかも知っているような達観した態度をとっていた三日月宗近。そんな彼に時にからかわれ、時に暖かく見守られながら、この本丸の主の近侍として務めを果たしてきた山姥切国広。「終わりなき円環の果てで相見えよう」という三日月宗近の言葉に導かれて、山姥切国広は、さまざまな歴史の転換点を目の当たりにする(ここで新撰組や坂本龍馬など、ミュージカル版の本丸で取り上げられたエピソードさえも回収していく大胆さには驚かされる)。時をかける少女のように、あるいは、千年女優のように(末満は後者の舞台版も手がけている)。

  そして刀の時代は終わり、それどころか人類さえも滅亡してしまったのではないかと思うような歴史の果てで、ふたりは対峙する。最後の最後に刀を交えるふたりの壮絶なぶつかりあいは、神話の1シーンのように美しく、悲しく、どうしようもなく胸をかきむしる。この悲劇そのものではないにせよ、少なくとも刀剣男士というままならない生をうみだすことに加担しつづけているわたしたち「審神者」の胸に、その痛みはまさに刀のようにするどく突き立てられる。

凍てつく三日月と、煤けた太陽

 同じことを繰り返すループは、毎日、毎日、同じ内容を上演する舞台公演にも重ねられる。千秋楽でついにその「円環」から脱出する別ルートの存在が示唆されたことは、三日月宗近がたったひとりで感じていた虚無感や、あるいは彼をなんとか救おうとした山姥切国広がとらわれた無力感をそれまで嚙みしめていればいるほど、希望の光として輝いて見える。それとも、その可能性の儚さは絶望をより深めるだけなのだろうか。

 小烏丸の言葉を受けて、大包平が言った「刀に寄せた心が、俺たちの物語になる」という言葉は、「根幹となるストーリーのない原作」という骨格に肉付けしていった、この舞台版『刀剣乱舞』そのもののことでもあり、それぞれの本丸でそれぞれの刀剣男士たちを育んできた、審神者(プレイヤー)ひとりひとりの期待のことでもある。あるいは物語とは、ただの「もの」だったものたち(刀剣や、キャラクター)が持つ意識であり、自我であることを考えると、これは2・5次元舞台そのものの寓話のようにすら、思えてくる。まさに2・5次元の可能性に挑戦しつづけてきた「刀ステ」の大団円にふさわしい、堂々たる「結び」だ。

 そしてまた、2・5次元シーンを見つめ続けてきたものとしては、本作における三日月宗近という底知れぬ存在を、鈴木拡樹という稀有な才能と重ねずにはいられない。彼が「刀解」され消えてしまったいま、これから2・5次元はどこへ向かえばいいのか。山姥切国広と同じように床にくずおれ、涙に目を濡らしながら、悲痛な叫びをあげるしかないのか。鈴木拡樹という「物語」であり「歴史」を見届けた、荒牧慶彦(もちろん彼自身がすでに2・5次元のスターとしての実績を十分に積んでいるとはいえ)がこれから紡いでいく物語が、より重みを増したのは間違いない(原作ゲームで実装されたばかりの「極」の山姥切国広が、運命の赤い糸のようなハチマキを頭にしっかりと巻きつけ、よりいっそう凜々しい姿で刀を構えているように見えるのはただの偶然だろうか)。どんなに時間がループしていても、あのとき明治座という劇場にふさわしく颯爽と花道を駆け抜けていった彼らの、たしかにそこにいたが、いまはもういない気配だけは、いつまでたっても忘れられそうにない。
 

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