昨日、なに読んだ?

File40. 東野圭吾の「献身」ぶりを味わえる本
東野圭吾『レイクサイド』

紙の単行本、文庫本、デジタルのスマホ、タブレット、電子ブックリーダー…かたちは変われど、ひとはいつだって本を読む。気になるあのひとはどんな本を読んでいる? 各界で活躍されている方たちが読みたてホヤホヤをそっと教えてくれるリレー書評。 【横田創(小説家)】→→李琴峰(小説家/翻訳家)→→???

 帰国してからのわたしは横山秀夫の小説しか読まなくなった。『動機』も『臨場』も『看守眼』も『第三の時効』も『深追い』も『クライマーズ・ハイ』も全部好きだ。初期の作品を復刊した『ルパンの消息』を抜かせば全部面白い。中でもわたしが好きなのは『震度0』だ。この小説には、書かれていないことが「書かれている」からだ。この謎の答えはタイトルとして、すでに「書かれている」。 震度0。それが答えだ。阪神淡路大震災の朝。県警本部警務課長・不破義人が失踪したことで揺れに揺れていたN県警は震度ゼロ。まるで震災などなかったかのように揺れなかった。だがそれは兵庫県と北関東に位置するN県が遠く離れているからではなかった。震災どころではない大事件が県警の中で(働く者たちの(こころの)中で)起きていたからだった。
 ラース・フォン・トリアーの『ドッグヴィル』ばりのスケルトン。屋根も壁も取り払われたN県警察本部と幹部警察官の官舎の中で、いまのいま起きているのに、震源地である本人以外誰も知らないこと。逆に震源地であるからこそ知り得ないこと。事件の渦中にある人間たちのこころの中で起きている、本人以外誰も知ることのできない心情。嫉妬、怨嗟、不安、悔恨、失望、憤怒。そのすべて「書かれている」のだが、知っているのは読者だけという贅沢極まりない小説だ。 横山秀夫という小説家は、読者の「読んでいる」のためならなんでもするひとなのだと思った。『半落ち』くらい面白い小説はもう読むことができないのではないかと無い物ねだりの身勝手な絶望の中にいたわたしを救ってくれたのが東野圭吾の小説である。
 東野圭吾も、読者の「読んでいる」のためならなんでもするひとである。面白ければなんでも書くのは、小説を読むのが好きな者なら誰でも知ってることだろう。ミステリでもファンタジーでも、アクションでもいい。泣ける話でもいい。その「読んでいる」が面白いか面白くないかだけが書くか書かないかの判断基準なのだろう。
 だからこそ描かれていること、テーマはひとつで、東野圭吾の小説には同じことが別の仕方で「書かれている」のだと気づいたのは、なにを「読んでいる」ときだったか。『容疑者Xの献身』は、東野圭吾の告白の書である。
 東野圭吾という小説家は「献身」にしか興味がないのである。「献身」しか面白いと思えない。『白夜行』の主人公、高良健吾が演じた桐原亮司だけではない。もう「献身」しないよ、二度としないよ、これが最後だよと言いながら毎回見事な「献身」ぶりを披露しているのが天才物理学者、湯川准教授なのだ。まるで小説同士が互いの「献身」ぶりを競い合っているかのようである。
 だがどの小説の主人公にも負けない「献身」ぶりを披露しているのは東野圭吾自身なのではないだろうか。ガリレオシリーズを最初から読めば、彼が最初からできていた、いまのように「書いている」わけではないのがわかる。
 数ある小説の中で『レイクサイド』には『レイクサイド』だけでしか味わうことのできない「献身」ぶりがある。愛人の殺人現場に遅刻した絶賛浮気中の夫は、四組の夫婦、八人の男女によって、いままさに行われている残虐非道なこの一連の行為は、誰の誰に対する「献身」なのか? 誰と誰が浮気をしていて、裏で通じているのか推理しつづけるのだが、ほかの登場人物たちがなにを考えているのか、どんな気持ちでいるのかはもちろんのこと、死体となった愛人の顔を自らの手で潰し、湖の底に沈める絶賛浮気中の夫の心情すら一行たりとも書かれていない。なのにどう考えても「書かれている」し「読んでいる」としか思えないのが、この小説の面白さである。そんな小説が書ければきっと面白いものになるのはわかるが、実際に書くとなるとどれだけの時間と労力を費やすことになるのか。わたしには想像することさえできないほど困難な文体に挑戦した東野圭吾の「献身」である。

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