それ、ほんとの話? 人生につける薬Ⅱ

第7回 できごとの意味づけ・必然性・因果関係と報告価値

『人はなぜ物語を求めるのか』に続く、千野帽子さんの連載第7回!

報告価値=確率の低さ(情報量)+意味づけ可能性(?)

 この連載の出発点は、〈人は「ひどいできごと」「珍しいできごと」の物語に「報告価値」を感じる傾向がある〉というものでした。
 僕は第2回で、コイントスを20回やったら20回連続してオモテが出た、というレアなできごとであれば、2の20乗(1,048,576)分の1という低い確率で、情報量は20ビットもある、という話をしました。
 じつはこの話は補足を必要とします。
 いま、この原稿を書くために、財布のなかの100円硬貨で、コイントスを20回やってみました。図書館なので机上でやると音が迷惑だから、床のカーペットの上でやりました。図書館の床にしゃがみこんでコインを転がす僕は不審人物でした。結果は以下のとおり。

  裏表裏表裏表表表裏表裏裏表裏裏裏表裏表表

 コイントスを20回やって、このとおりになる確率は、20回やって

  表表表表表表表表表表表表表表表表表表表表

になる確率と同じ、1,048,576分の1なのです。だから僕の報告にも20ビットの情報量がある。
 でも、僕は、
〈表表表表表表表表表表表表表表表表表表表表〉
の報告にたいしては「スゲエ!」と思うけれど、
〈裏表裏表裏表表表裏表裏裏表裏裏裏表裏表表〉
のことはべつになんとも思いませんでした。だから、起こる確率の低さ(=情報量)だけでは必ずしも物語価値にはならない。
 最終的に大きな報告価値を得るためには、どうやら受け取る側の「意味づけ可能性」がだいじになってくるらしい──と、ここでは仮に考えておきましょう。オールオモテに比べると〈裏表裏表裏表表表裏表裏裏表裏裏裏表裏表表〉は僕には意味づけしづらいのです。
 コイントスの結果の最初のほうを見てください。じつは最初の6回の試行の結果は〈裏表裏表裏表〉となっています。6ビット。こうなる確率は2の6乗(64)分の1。7回目のトライはドキドキしましたね。〈裏表裏表裏表〉のパターンにたいしてなら、僕はそこにちょっとした意味を附与することができたわけです。
 でも、たとえば音楽の専門家だったら、
〈裏表裏表裏表表表裏表裏裏表裏裏裏表裏表表〉
を見て、
「おお! これはジョン・レノンのあの曲の冒頭の最初の20の音符の黒鍵と白鍵に、それぞれウラとオモテとが対応している!」
などということを発見してしまうかもしれません。
 できごとの報告が、情報受信者個人にとって最終的にどれくらい大きな物語価値を持つか。それは、その人がなにを持っているか(体験してきたか)に左右されるのです。この議論については、前々回書いた「TV番組の街ロケの画面に偶然映りこんでしまう一般人」の話と同じです。多くの視聴者にとっては「ただ映りこんだだけの女性」が、その人の子どもにとっては、
「おかん何TVにうつっとんねん(笑)」
という大きな意味づけをともなってくるわけです。

 偶然vs.必然

 仮に〈裏表裏表裏表表表裏表裏裏表裏裏裏表裏表表〉におけるウラとオモテとが、レノンの曲の出だしの20の音符の黒鍵と白鍵の順番になっていて、僕がそれに気づいたとしましょう。レノンのソロ曲は「スターティング・オーヴァー」と「ハッピー・クリスマス」の2曲しかカラオケで歌えない僕がそういうことに気づくなんて、それこそ確率が低すぎる想定ですが……。
 僕はそれに気づいて、
「すごい偶然だなあ」
と思うでしょうか。それとも、
「これは俺のコイントスをとおして、レノンが冥界からメッセージを送ってきたのだ! レノンごめんよ! これからは「イマジン」も歌えるように頑張るよ!」
と考えるでしょうか。このふたつの受けとりかたでは、意味づけの向きが正反対になっています。前者は、
「ものごとが起こるのは確率の問題である」
いっぽう後者は、
「ものごとが起こるのには必然性がある」
というスタンスです。前者を偶然説、後者を必然説(あるいは、ある種の決定論)と呼んでもいいでしょう。
 じつは「ものごとが起こるのは確率の問題である」という考えかたを突きつめると、
「すべては神の御心のままに起こる(+神の御心は人知では測り知れない)」
という世界最強の決定論になってしまいそうなのですが、その問題にはここでは踏みこみません。

ネルヴァル『オーレリア』の〈私〉

 小説を読んで、あるいはTVドラマを観て、筋の展開にたいして「必然性がない」と批判したことがある人は、自分や他人の現実の人生の成り行きにも「必然性」を求めるのでしょうか? それはまたずいぶんと〈劇的緊張〉(前回)に満ちた人生観、世界観だと思います。
 小説のなかにそういう人が出てくるので、2,3人、紹介してみましょう。
 フランスの詩人ジェラール・ド・ネルヴァルの最後の作品とされる中篇小説『オーレリア 夢と人生』(1855。後半は遺稿)は、語り手兼主人公の〈私〉が死んだ女(仮名がオーレリア)を心に引きずり続けている話です。
 この〈私〉は、あらゆるものを必然性で充填しようとします。
〈私の考えでは、地上の出来事は目に見えぬ世界の出来事に結びついている〉(田村毅訳、第2次『ネルヴァル全集』第6巻『夢と狂気』所収、筑摩書房、73頁)
〈すべては互いに交信し合っている〉(92頁)
〈この宇宙では何一つ無縁のものはなく、何一つ無力なものはない〉(93頁)
 この人は、僕だったら必然性で意味づけしないであろうはずのいろんなことに、必然性を発見してしまいます。
 たとえばある日、〈私〉は教会で祈りを捧げたついでに銀の指輪を買い、父の家を訪ね、不在だったので花束を置いてゆき、それから植物園の骨格標本室を訪れます。 〈そこに収められている怪獣の姿が、私に大洪水を想像させ、そして外に出ると、庭園に土砂降りの雨が降っていた。私は言った。〔……〕さらにひどいことになる! ほんとうの洪水が始まるのだ。近隣の通りまで水が上がってきていた〉(88頁)。
 自分が大洪水(おそらく『創世記』に報告されているあれ)のことを考えたからゲリラ豪雨が来た。ほとんどこれ、夢の説明ですね。他人の夢のなかに入りこんでその内容を操作するという、クリストファー・ノーラン監督の『インセプション』で、夢を見ている人が尿意を抱いているから夢のなかの世界が豪雨になっている、という説明があったのを思い出します。
 『オーレリア』の〈私〉は大雨のなかを走り、洪水を止めようと呪術的な行為に出ます。 〈私はサン=ヴィクトワール街を走って降り、そして世界全体の大洪水と思い込んだものを止めようとして、サン=トゥスターシュ教会で買った指輪をそのもっとも深い場所に投げ込んだ。その同じ頃に大雨がおさまり、日の光が射し込みはじめた〉(88頁)
 指輪を投げ入れたまさにそのとき、雨がやんだ。彼にとっては、指輪を投げ入れたからやんだのです。
 この〈私〉は、友人にも見離され、やがては精神病院に入れられてしまいます。しかし彼の意味づけは、作中では統合失調症などに見られる関係妄想としてではなく、どちらかというと神秘主義的な「見神」体験として呈示されています(一般に両者は無縁とはかぎらないのかもしれませんが、それは医療の専門家に伺いたいところです)。

トゥルニエ『魔王』のティフォージュ、バラード『太陽の帝国』のジェイミー

 この牽強付会な因果説明の系譜は、フォルカー・シュレンドルフが映画化したミシェル・トゥルニエの『魔王』(1970)でも重要な役を果たします。
 主人公アベル・ティフォージュは少年時代、第1次世界大戦の不発榴弾で遊んでいるときにうっかりボヤを出してしまい、学校の懲罰委員会に呼び出されます。出頭前夜、彼は礼拝堂のなかで炎に取り巻かれる悪夢に魘(うな)され、学校が燃えたら自分も解放されるのになあと考えました。翌朝登校すると、ボイラーから失火して、学校がほんとうに火事でした。
 少年はこのように考えます──
〈運命を啓示する徴〔しるし〕に他の連中が信じられないほど盲目である〉
〈あの火事とおれの個人的運命を結びつける、明白かつ顕著な関係を知らない〉(植田祐次訳、みすず書房《Lettres》、上巻79頁)
 彼はまさにそのとき(=偶然)起こった火事を、偶然ではなく運命の介入、敵に下された天誅と考えるのです。
 ネルヴァルと違って20世紀後半の小説家らしく、トゥルニエはこの怪しげな超必然説を主人公の個人的な人生にとどめず、歴史記述に接続しました。  主人公は後年、パリで自動車修理工となり、1940年、未成年者への猥褻行為の冤罪で収監されます。まさにそのとき、ナチスドイツ軍がマジノ線を突破してフランス軍と実戦を開始し、兵力増強のため未決囚までもが前線に駆り出されることになるのです。
 〈招集兵は戦場に赴く理由を十二分に知っていないようにさえ見える。どうして彼らにそれが分かるだろう。おれ一人、〔……〕このおれだけはそれを知っている〉(164頁)
 なんと第2次世界大戦の開戦は、彼ひとりを救うためにおこったできごとだ、ということになってしまいます。
 そういえばスピルバーグが映画化したジェイムズ・G・バラードの『太陽の帝国』(1984)のジェイミー少年は、上海のホテルの一室の窓辺で退屈しのぎに、カブスカウトで覚えた手旗信号をやってみたところ、まさにそのとき水上の日本軍機動艇上の将校が砲艦に向けてランプで信号を送り、船首側の旋回砲塔の砲身が爆発します。ジムは、自分が送ったあやふやな手旗信号を日本軍がまじめに取って戦争が始まったのだと自責してしまうのです。
 僕たちは、自分の人生を彼らのように、必然で満たそうとしてはいないでしょうか? それは、果たして僕らを幸福にすることなのでしょうか?
(つづく)
 

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