東京β

東京のランドマーク変遷史

東京タワーからスカイツリーへ

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「繁栄と消費の帝都」の象徴としての東京タワー

 岡崎が交通事故により創作活動を休止させる直前に連載を終えた『ヘルタースケルター』(連載は1995年7月~96年4月、単行本は2003年刊)において、彼女はこれまで以上にはっきりした暗喩として東京タワーを登場させている。

 本作の主人公のりりこは、モデルから女優に転身した人気者。スタイルも顔つきも完璧な彼女の秘密は、そのボディーがすべて整形でつくられていること。物語は、その彼女の精神と肉体にほころびが生じ、崩壊に転じていく様が描かれる。そして、彼女の肉体の崩壊が決定的に始まるという物語上重要な場面の直後のコマで、東京タワーが登場するのだ。

岡崎京子『ヘルタースケルター』より

 一見、2つのコマの間のつながりは薄いように見える。だが、これまでの岡崎作品で描かれてきた東京タワーの頻出具合を考えると、そのつながりは薄くないことが理解できるだろう。

「どこにもリアリティーの感じられない現代」。その岡崎のテーマの集合体がこの『ヘルタースケルター』のヒロイン・りりこである。すべてがフェイクである人生を選んだりりこの、化けの皮がはがされていく瞬間に、その暗喩として東京タワーが描かれるのだ。

 売れっ子の芸能人としての人生を堪能するりりこの人気は、彼女の完璧なルックスによって担保されているものである。だからこそ、彼女はそれが永遠に続くものではないと認識している。その彼女の楽しくてたまらない生活に破綻の影が現れた瞬間に登場する東京タワーは、何を意味するのか。

 それは、「繁栄と消費の帝都」の象徴としての東京タワーだ。今は楽しい東京での消費生活は、まるでどこまでも続いていきそうなものに見える。実際に、松任谷由実や角松敏生らは、そんな東京ライフを肯定して歌にしていた。岡崎京子もそれを肯定するような作品を描きながらも、どこか炭鉱のカナリヤ的にその終わりを匂わせるような作品の描き方をしてきた作家でもある。

 りりこの繁栄と消費の生活の終わりを描くことは、岡崎にとって東京の「繁栄と消費の帝都」の終わりを描くことでもあったのだ。湾岸戦争が勃発し、ソ連が崩壊しても続くリアリティーのない日常。代表作である『リバーズ・エッジ』(1994年)の主題は、そのように解釈可能だ。しかし、どこまでも続いていきそうなリアリティーのない日常は、フェイクである以上、どこかで壊れていくものというシニシズムも岡崎作品には描かれている。いつか壊れてしまう刹那的なものであるからこそ、それを肯定すべきであるという姿勢は、岡崎京子に留まらず、1990年代文化に通底していた態度だった。

 岡崎京子は、東京生まれの東京育ち。地方から東京への憧れが募らせていた『東京ガールズブラボー』のヒロイン金田さかえと違い、都会へのコンプレックスは持っていないはずだ。だが、その「繁栄と消費の帝都」である東京がきっとフェイクであると自覚していた岡崎京子は、いつか終わる「繁栄と消費の帝都」、だからこそ楽しむべき現実という2つの意味で東京タワーを描いてきたのだ。

パラレルワールドが具現化した1990年代

 1990年代に引き続き東京を歌にしたのは、ピチカート・ファイヴだ。彼らは、「東京は夜の七時」(1993年)や「モナムール東京」(1997年)など、曲名に「東京」が入った曲を多くつくり、さらに東京タワーを歌詞やアートワークの中に多用していた。

「東京は夜の七時」のプロモーションビデオは、グループの中心人物である小西康陽自身の演出により、シャボン玉が飛び交う東京タワーの真下から始まっている。また、「キャッチー」(1992年)では「新しい私の部屋は 東京タワーが見える」と歌われ、作曲を筒美京平が手がけた「恋のルール・新しいルール」(1998年)にも東京タワーが登場する。

 ピチカート・ファイヴの小西康陽は、かつて松任谷由実や角松敏生が「東京タワー」という記号でもって描いた「東京」という絵の続きを描いた存在だ。誰かが当時、渋谷の街とピチカート・ファイブについて書いたコラムの中で、山下達郎のシュガー・ベイブ時代の代表曲「DOWN TOWN」(1975年)と関連づけて触れていた。

 かつて達郎が「ダウンタウンへくりだそう」と歌った時代には、「おめかししてる」ような遊び場なんてなかったが、1990年代の東京には、実際に遊びに行くべき街である渋谷が存在するという内容だった。

 小西は、達郎が「DOWN TOWN」と「読み換え」ていたフィクショナルな「にぎやかな」「街角」を1990年代の東京に見出し、同時代の東京を舞台にした多くの楽曲を残したのだ。ピチカート・ファイヴにとっての東京は、もはやYMOや沢田研二らが生み出したようなパラレルワールドではなかった。実際に「くり出す」ための「ダウンタウン」が存在する東京だったのだ。

 だが、彼らのヒット曲の筆頭である「東京は夜の七時」にはこんなフレーズが登場する。

「待ち合わせのレストランは もうつぶれてなかった」。これは、1990年代の東京を真っ正面から見つめた曲でもあった。そう、1990年代の東京都は、バブル崩壊後の東京でもあったのだ。

 岡崎京子が永遠に続かないものとして作品の中でそのほころびを見出そうとしてた「繁栄と消費の帝都」の終わりは、バブル経済の崩壊として訪れていた。

東京タワーからスカイツリーへ

 東京タワーは、今現在に至るまで一九五八年から同じ場所に立ってはいる。だが、テレビの電波塔としての役割は、すでに終えてしまっている。

 2011(平成23)年7月24日にテレビの地上波アナログ放送が58年の歴史を終えた。

 電波怪獣ビーコンがパラレルワールドの東京タワーを停波させてからちょうど40年が経ち、現実に東京タワーは停波した。もちろん、停波といっても信号がアナログからデジタルへ切り替わっただけだ。テレビ放送自体が終了したわけではない。だが、本来であれば、このタイミングで東京タワーは本当に停波する予定だった。しかし新しく地上波デジタル放送のための電波塔として役割を果たすはずだった東京スカイツリーの操業開始が予定よりも遅れたため、東京タワーがテレビ塔としての役目を担う期間は少しだけ長くなった。

 東京スカイツリーは、東日本大震災のほぼ1年後である2012(平成24)年2月29日に工事が完了。これにともない、東京タワーは、ようやく総合電波塔としての役割を終えた。一部、FMラジオの電波は送信を続けていたが、この年の11月12日から段階的に電波を弱め、2013(平成23)年5月12日に完全に送信を終了したのだ。

 停波の前に、少しだけ東京タワーに異変が起こったことも触れておかなくてはならない。2011年3月11日の東日本大震災のときに、東京も震度五強の地震に見舞われた。このときに東京タワーの先端は、肉眼ではっきりと見てとれるくらいに折れ曲がった。また、震災後の自粛ムード、節電の呼びかけもあり、東京タワーのライティングの実施も休止された。

 あるときには、日本人が心を1つにして成し遂げた戦後復興を象徴するモニュメントとして、あるときには、決して手の届かない豊かな未来への絶望の象徴として、またあるときには、壊される対象物として、はたまたあるときには、日本の経済的繁栄によって東京が「世界一の都市」に近づいた時代の象徴として捉えられてきた東京タワー。日本社会が変化するたびに、東京タワーが持つ象徴としての意味合いは変化した。

 こうして東京タワーの歴史を眺めてみると、東京タワーを単純に何かの象徴に見立てることの難しさが見えてくる。

 浅草十二階は、見世物小屋から活動写真へと、人々の「視覚」を揺さぶるメディアの台頭期を象徴する存在であり、お化け煙突は、日本が工業化時代に突入した時代を象徴する存在だった。こうした見方を踏襲すれば、メディア的な意味においては、東京タワーは、テレビという本格的なマスメディアの台頭と発展を眺めてきた存在であり、産業的な意味においては、脱工業時代、メディアに代表されるサービス産業の台頭を眺めてきた存在とすることができる。

 岡崎京子の漫画に、こんな台詞が出てくる。「東京タワーのない東京なんて、ハタのないお子様ランチみたいなもんよね」と。お子様ランチにとって旗は単なる飾りである。テレビ塔としての機能を失った東京タワーは、本当に東京というお子様ランチの旗になった。いまのところ旗としての収まりは悪くないようにみえる。

観光都市として変化を遂げる東京を眺めるタワー

 この次に取り上げるべきは、2012(平成24)年に完成した東京スカイツリーのはずである。ただし、ここで語るべきことはそう多くはない。

 都心に立つ東京タワーでは、高層化が進んだ現代の東京で電波塔の役割を果たすことが難しくなった。それに伴い、在京の民間テレビ局である日本テレビ、TBS、フジテレビ、テレビ朝日、テレビ東京ら五社が、共同で新しい電波塔の建設の計画に乗りだした。その立地を巡っては、練馬区、さいたま市、台東区、足立区などさまざまな計画の競争となったが、当初から第一候補との声が強かった墨田区のプランが勝ち残る。塔の高さは、634メートルで、「東京スカイツリー」のネーミングは、公募によって候補作が集められ、最終的に2008(平成20)年にインターネット投票によって決定した。

東京スカイツリー(2013年2月25日) ©時事通信フォト/朝日航洋

 2012年2月29日に竣工した東京スカイツリーは、東京タワーに代わるテレビ塔としての営業が始まり、現在では東京の新しいランドマークとして定着しつつある。

 日本の実写邦画歴代興行収入一位を誇る映画『踊る大捜査線 THE MOVIE2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』では、冒頭シーンで上空からお台場と芝浦をつなぐレインボーブリッジを大写しにし、お台場の街の発展という作品のテーマを1つの絵として提示した。

 このシリーズの最終作である『踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望』では、冒頭に東京タワー、東京スカイツリーと2つのランドマークを空撮映像として挿入している。東京が新しく発展していく様を意図したのだろう。

 本編の中にも、主人公の青島刑事が走る場面の背景に東京スカイツリーが映っている場面があるが、特に見出すべき意味合いは薄い。

 スカイツリーが建つ押上は、かつて浅草十二階の真下に広がっていた私娼街が移転した玉ノ井の近くである。1964(昭和39)年の東京五輪以降、西高東低で推移してきたといわれる東京の発展は、スカイツリーの誕生を期に東側へ回帰していくという「ライジング・イースト」というキャッチフレーズも聞こえてきた。だが実際のところ、そこまで目を見張るような都市状況の変化は起こっていない。都市の発展とは、時間経過を伴うものであり、一長一短にスカイツリーができたからといって何かが変わるものでもない。

 まだ計画段階のものとしてしか世に出ていない頃から国内の世評としては、「いまさら高層タワー?」という不評の声は少なくなかったスカイツリーだが、いざオープンしてみると評判は悪くはなかった。海外からの観光客が訪れる観光地としてもすっかり定着し、昨今のインバウンド需要に対応できている。

 2015(平成27)年、訪日外国人旅行者の数は1900万人台に達し、1970(昭和45)年以来45年ぶりに日本人の出国数を超えたという。あえてツリーが誕生した背景を見るなら、こうした観光都市としての東京が変化の時期を迎えつつある時代に沿った建造物としての東京スカイツリーという側面を語ることができるだろう。新たな観光都市像としてその姿を再構築しようとする東京の姿をスカイツリーは眺めていくことになるのだろう。

 誕生から数年という短い期間とはいえ、スカイツリーは多くの小説、ドラマ、映画などに登場している。ただし、残念ながらまだこれらの作品から何らかの意味を読み取るような批評はまだ届いてきていない。

 最後に東京のランドマークの変遷を振り返ってみる。近代の始まりからそのさらなる進展の過程において、浅草十二階という電化時代の塔から近代工業を象徴するお化け煙突へというランドマークの交代が行われた。そして、お化け煙突から東京タワーへの交代は、さらなる産業のソフト化、サービス化を示すものだった。同時に東京タワーは日本の高度成長期を見守る存在でもあった。さらに東京タワーは、国民が一丸となって果たした戦後からの脱却の象徴であり、世界の一級都市に上りつめた都市の誇りの象徴でもあった。

 このようにランドマークの交代とともに東京は大きくその姿を変えてきた。そして、現代は東京タワーと東京スカイツリーが併存する時代に突入している。日本が世界に追いつき追い抜こうとした時代の象徴は残されたまま、次の時代がすでに始まりつつある。過去の栄光であるタワーと未知の時代の入り口に立つツリーが併存する光景とは、まだ過去を切断しきれずにいる日本の現状の風景なのかもしれない。

 スカイツリーが何を象徴する存在になるのか。それを見出すには、まだ少し時間を要するだろう。

『東京β―ー更新され続ける都市の物語』特設ページ

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