世の中ラボ

【第101回】「美しい顔」問題をどう考えるか

ただいま話題のあのニュースや流行の出来事を、毎月3冊の関連本を選んで論じます。書評として読んでもよし、時評として読んでもよし。「本を読まないと分からないことがある」ことがよく分かる、目から鱗がはらはら落ちます。PR誌「ちくま」2018年9月号より転載。

 今期芥川賞の候補になるも落選し、騒動も下火になったところで、あえて考えてみたい。「類似表現」が問題となった群像新人賞受賞作、北条裕子「美しい顔」の件である。
 この一件が発覚したのは、「美しい顔」が芥川賞候補作になった後の報道によってだった。すなわち「芥川賞候補作に参考文献つけず、掲載誌おわびへ」(読売新聞・6月29日)、「芥川賞候補作、参考文献示さず類似表現 掲載誌でおわび」(朝日新聞・6月29日)などの記事である。記事は「群像」の版元である講談社が作品掲載誌に参考文献を明記しなかったこと、七月発売の「群像」でおわびを掲載することなどを伝え、五冊の参考文献とともに、作品と資料に類似した表現があったことも報じている。
 このニュースが出ると同時に、ネット上では「パクリ疑惑」「コピペ疑惑」などの言葉とともに情報が拡散。作者が一度も被災地を訪れずに作品を書いたと公言したことも相まって、作者への中傷もヒートアップ。講談社は「評価を広く読者と社会に問う」として、ウェブ上で「美しい顔」を無料で全文公開するという異例の対応に出た。が、騒動はここでは収まらず、参考文献のひとつ『遺体』の版元である新潮社ほかからも、講談社の対応および作者の執筆姿勢に対する疑問の声があがった。さて、この問題、どう考えたらよいのだろう。

作品評価は×に近い△
 まず、私が選考委員だったら、この作品をどう評価しただろうかと考えてみた。たぶん限りなく×に近い△をつけて選考会に臨んだだろうと思う(そして私だけが反対し、結果的には押し切られて当選作になった気もする。そういうことはよくある)。参考文献問題とは関係なく、純粋に作品としての評価である。
「美しい顔」は、震災に直面した一七歳の少女を語り手にした一人称小説で、避難所で自分達に向けられる取材者(メディア)への批判からはじまっている。たとえば、冒頭近くで語られるのは、自分にカメラを向ける青年への批判なんだけど……。
〈なぜだ? なぜお前なんかに。なぜ私はお前なんかに見せてやらなければならない。なぜお前なんかにサービスしてやらなきゃならない。なぜ私がお前なんかを気持ちよくさせてやらなければならない。プロカメラマンになったような気持ちよさを、なぜお前なんかにくれてやらなければならない。かわいそうを撮るなら金を払え。かわいそうが欲しいなら金を払え。被災地は撮ってもタダか。被災者は撮ってもタダか〉。
 たたみかけるような呪詛の言葉。「見る者」と「見られる者」の関係性を鋭くついている、といえなくもない。
 ただ、この段階で私は大きな違和感を感じてしまったのだ。こういう文章を読むと、被災地にいち早く入った取材者たちはドキッとするだろうな、という訴求力はあるのだが、しかし津波で被災した直後(一週間後くらい?)の高校生が、避難所の毛布の中で、こんなことを考えるだろうか。被災者が取材者に「消費されている」「搾取されている」という感覚を持つことはあるだろう。だけど、彼女は弟と避難所にいて、行方不明の母をまだ探している最中なのだ。そんな状態にいる子にとって、取材者の視線がそんなに重大な問題? 「それどころではない」のではない? 
 では、ほかの場面はというと、この小説には三つの大きなプロットというかモチーフが埋め込まれている。
 A.(冒頭部分に代表される)「私」とメディアの関係。後に彼女はメディアが期待する「求められる被災者像」を進んで演じ、そこに屈折した快感を見いだすまでになる。
 B.津波を高台から間近に見た恐怖、親しい友人らを失った悲しみ、自分だけが生き残った痛みなどの被災体験。
 C.母の遺体の問題。「私」は遺体安置所で母の遺体と対面して大きな衝撃を受け、遺体を七歳の弟に見せるかどうかで悩む。
 B・Cは、けっこうリアルで読ませるところがある。〈作者は、それがどんな過酷な体験であったかを、まるでドキュメンタリーのように詳細に描いてゆく〉(高橋源一郎)、〈陰惨な光景を、《私》は高台からカメラのように写し取る〉(辻原登)といった選考委員の評価も、そこに基づくものだろう。
 しかし、ここからは後付けになるけれど、結果的にBが資料の力によるもので、Cの遺体安置所に関する部分も資料に依拠しているとしたら、作者のオリジナルはAだけということになり、そして、肝心のAは自意識過剰で、違和感が拭えないのだ。
 さらに作者の力不足は、Cのプロットにも表れている。「私」は母の同級生だった女性(斎藤さん)に、母の遺体がどんな状態であろうと弟に会わせるべきだ、と強く説得される。斎藤さんに批判されることで「私」のこわばった心はほぐされ、母を失った悲しみを悲しみとして受け入れる。という意味では重要なプロットで、読者はドキドキしながら次の展開を待つ。だが、肝心なその部分は〈私はその日の夜に、ヒロノリを母に会わせた〉の一行で終わってしまうのだ。それはないよ。「私」の自意識などより、母と弟が対面する場面こそ作者は書くべきなんじゃない?
 以上の二点(Aのプロットに納得がいかない、Cのプロットから逃げている)により、私の評価は×に近い△だったのだが、発表直後、この作品は文芸時評などで絶賛の嵐だった。まあ「女子高生の肥大した自我」みたいなのには昔から一定の需要があるしね。それと震災とメディア問題がドッキングしたら、そりゃ強いよね。

「震災のリアル」を描いている?
 さて、作品と資料の関係について考えてみたい。講談社は「美しい顔」の参考文献として、五冊の本をあげている。
 ①石井光太『遺体――震災、津波の果てに』(新潮社)、②金菱清編/東北学院大学震災の記録プロジェクト『3・11 慟哭の記録――71人が体感した大津波・原発・巨大地震』(新曜社)、③丹羽美之、藤田真文編『メディアが震えた:テレビ・ラジオと東日本大震災』(東京大学出版会)、④池上正樹『ふたたび、ここから』(ポプラ社)、⑤『つなみ 被災地のこども80人の作文集』(森健取材構成「文藝春秋」2011年8月臨時増刊号)。いずれも震災後、一~二年以内に出た本だ。
 この中で特に問題視されたのは『遺体』で、新潮社からの質問状でも、類似の文章があったことが指摘されている。
 じつは『遺体』自体、二〇一二年の講談社ノンフィクション賞に落選したいわくつきの作品だ。その経緯を私は武田徹『日本ノンフィクション史』(中公新書、2017年)で知ったのだが、落選の理由は「社会的弱者への共感ではなく、むかしの見世物小屋的な指向で題材を選んできたような気がします」(野村進)、「ノンフィクションではなく、ほとんど小説のように思えます」(立花隆)など。ノンフィクションにしてはドラマチックすぎたのか。
 それはそれとして、では「美しい顔」は『遺体』を盗用しているかというと、たしかに類似した文章はあるにしても、法的な意味で著作権に抵触しているとまではいえないと思った。ただ、遺体安置場の描写や、遺体と向き合う人々のありようが、かなりこの本に依拠しており、先にあげたCのプロットを重視するなら、「その類似は作品の根幹にかかわるものではない」(講談社)といえるかどうかは微妙なところ。「単に参考文献として記載して解決する問題ではない」(新潮社)といいたくなるのも理解できる。
『3・11 慟哭の記録』については編者の金菱清が新曜社のウェブサイトでコメントを出し、作者の姿勢を厳しく批判している。金菱が指摘するように、「美しい顔」に流用されているエピソードもいくつかあった。しかし、「美しい顔」を念頭において『慟哭の記録』を読むと、別の疑問が浮かび上がるのだ。『慟哭の記録』で語られた避難所と、「美しい顔」と描かれた避難所では、だいぶ印象が異なる。作者はここから何を学んだのだろう。
「美しい顔」の舞台は、震災後五日もの間、情報も物資も届かなかった「忘れられた避難所」である。「私」がメディアに登場することでやっと注目され、物資が届きはじめたという設定なのだが、最初に読んだときにはリアルに感じた描写も、他の文献を読んだ後ではあやしく感じられてくる。たとえば『遺体』『慟哭の記録』で被災者が一様に語っているのは震災当日やその後の「寒さ」である。しかし、「美しい顔」に寒い感じはない。空腹の苦しさやトイレの問題には一応ふれているものの、切迫感も薄い。
 五冊の参考文献を読んでみてわかったのは、「美しい顔」は震災のリアルを描くための小説ではないということだった。付け加えれば「忘れられた避難所」の問題は『メディアが震えた』を、弟の描写は『つなみ』を参考にしているように思ったが、日付も場所も特定されていないし、会話の大半も東北弁ではない。これはあくまでフィクショナルな被災、抽象化、記号化された被災地なのだ。逆にいうと、被災地を一度でも訪れていたら、ここまで大胆な(あるいは無責任な)小説は書けなかっただろう。
 被災地を訪れずに書いたのが問題なのではない(それをいったら戦争については誰も書けないことになるし、戦国武将を主役にした時代小説も書けないことになる)。参考文献の件を別にすれば、問題がこじれた原因は、作品に被災者を説得できる強度が欠けていたからではないか。七年後のいまも震災が現在進行形であることを思うと「これはフィクショナルな被災です」といっても理解は得にくいだろう。なにはともあれ、「美しい顔」を講談社は早急に単行本化すべきだろう。議論はそこからはじまるはずだ。

【この記事で紹介された本】

「美しい顔」
北条裕子、「群像」2018年6月号所収、2018年、980円

「私」は17歳。高校の準ミスにも選ばれたことがある高校生だ。「私」がいる避難所は被災後5日間も忘れられていた。ようやく入った取材者に「私」は嫌悪を覚えるが、求められる被災者を演じることで、避難所に物資が届くことを誇るまでになる。が、母の同級生にその姿勢を批判され、母の遺体が見つかるに至って……。今年の群像新人文学賞受賞作。いまのところ単行本は未発売。

『遺体――震災、津波の果てに』
石井光太、新潮文庫、2014年、550円+税(単行本は2011年新潮社)

 

岩手県釜石市の遺体安置所を中心に、遺体の捜索、搬送、検案、火葬などにかかわった人々(民生委員、医師、歯科医師、僧侶、市職員など)の証言を構成し直したノンフィクション。ドキュメンタリータッチで「見てきたよう」に書かれているため小説風ではあり、遺体の微に入り細をうがった描写は猟奇趣味(?)的に見える部分もあるが、震災の重要な一側面をリアルに伝える力作。

『3・11 慟哭の記録――71人が体感した大津波・原発・巨大地震』
金菱清編/東北学院大学 震災の記録プロジェクト、新曜社、2012年、2800円+税

 

被災者が自ら綴った七一人分の体験手記を集めた本。執筆者は東北学院大学教養学部の金菱ゼミの学生たち(彼らの多くも被災者である)が、知己や同窓生をたどって探し歩いた人々で、記録時期は2011年4月11日〜11月5日。宮城、岩手、福島、関東各県など、地域も広範囲にわたる。津波体験から避難所生活まで、当事者でしか語れない生の声があふれており、胸を突かれる。

PR誌ちくま2018年9月号

関連書籍

こちらあみ子
こちらあみ子

斎藤 美奈子

ニッポン沈没 (単行本)

筑摩書房

  • amazonで購入
  • hontoで購入
  • 楽天ブックスで購入
  • 紀伊国屋書店で購入
  • セブンネットショッピングで購入
こちらあみ子

斎藤 美奈子

本の本 (ちくま文庫)

筑摩書房

  • amazonで購入
  • hontoで購入
  • 楽天ブックスで購入
  • 紀伊国屋書店で購入
  • セブンネットショッピングで購入