ちくま新書

蘇る哲学詩人

PR誌「ちくま」から、小島毅氏による 『現代語訳 老子』(保立道久訳・解説、ちくま新書、8月刊)の書評を公開します。 中国思想史が専門の小島毅氏が本書をどう読まれたのか。ぜひお読みください。

『老子』は『論語』とならぶ中国思想古典の双璧である。日本では昔から読み継がれ、現代語訳も数多い。本書は新たにその列に加わったものだが、いろいろな意味で異色である。
 まず、訳者が日本中世史の大家であるということ。保立道久氏は東京大学史料編纂所の所長も務めた学界の重鎮で、史料の深い読みにもとづく大胆な仮説構築で知られている。たとえば『歴史のなかの大地動乱――奈良・平安の地震と天皇』(岩波新書、2012年)は、東日本大震災後にあらためて過去の史料を読み直し、現在に向けて発せられた警世の書である。
 第二に、保立氏は『老子』を「哲学詩として読むべきもの」(18頁)とする。この見解は、同頁に引用されている小川環樹の説に触発されたという。そのためだろう、訳文は原文には無い多くの語を補い、老子の深意を明確にしようと試みている。
 第三に、全81章すべてに【解説】を付記して従来のさまざまな邦訳の解釈に批判を加え、新たな老子像を提示している。そのため、わずか五千字の『老子』に対して、本書は新書版で448頁の厚さとなっている。
 第四に、各章の順序を組み替えてテーマごとの三部構成(各部はそれぞれ四つの課に分かれる)としている。原書を第一章から順次読み進めていくのではない。老子の人生論・自然観・政治思想ごとに施された訳者の主体的な読みが、本書の章立てを形作っている。まさに「保立老子」と称すべき書物である。
 第五に、このように設計されたテクスト配列から、老子が首尾一貫して「士」のあるべき姿を説いたという理解をしている。古くから『老子』は為政者の権謀策や知識人の処世術を説いたものとみなされてきたし、邦訳でもそう理解されてきた。しかし保立氏は、体制派たる儒家・法家に対抗する闘士としての老子像を描き出す。それは、氏自身の投影であろうか。 
 そして、六つめとして「日本の神話・神道にかかわる話題」(13頁)が【解説】各所に述べられている。日本史研究者としての本領を発揮している箇所であり、特に中世の伊勢神道との関わりが幾度も指摘されている。『老子』を読むことは日本の歴史を根本的に理解しなおすために不可欠の作業だとする主張には、強い説得力がある。
 と、対象書籍の特長を紹介して購買意欲を喚起するのがこの種の文章の約束事なのだろうが、中国思想を研究する者の立場から異論を述べたい。それは「思想的な統一性、一体性をもっている」から「『老子』はやはり一人の人物が執筆した」とする見解(17~18頁)である。保立氏は、郭店楚簡に無くて百年後の馬王堆帛書に見える加筆部分も「同一人が統一的な思想の下に行ったと考える方が素直」(22頁)とする。しかし従来の通説どおり、テクストが別人によって書き足され、思想的な深化・発展を遂げたと解する方が、「素直」ではなかろうか。
 読者は、冒頭に置かれた第35章の「大象」を文字どおり「大きな象(エレファント)」とする解釈において、まず保立氏独自の所説に出会う。通説は「大いなる象(シンボル)」としての「道」の形容としてきた。象の背にまたがる威風堂々たる老子像を提示することで、保立氏は読者を自分の世界に誘い込む。しかし、この解釈には賛同できない。文献学的にも思想史的にも、また保立氏自身が後掲諸章ではそう解しているように、ここの「象」は概念的な術語である。
 とはいえ、この巨象に付き従っていくとそこには自由な世界が広がっており、最後に有名な「小国寡民」の章を据え、老子の平和主義に対する賛意の表明で終わっている。多くの章で語法的に窮屈な解釈を施してまで保立氏が提示する老子像の魅力は否み難く、知の冒険をさせてくれる刺激的な新訳である。

2018年9月13日更新

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小島 毅(こじま つよし)

小島 毅

1962年生まれ。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。現在、東京大学大学院人文社会系研究科教授。専攻は中国思想史。主な著書に『朱子学と陽明学』(ちくま学芸文庫)、『中国近世における礼の言説』(東京大学出版会)、『宋学の形成と展開』(創文社)、『東アジアの儒教と礼』(山川出版社)、『中国の歴史7 中国思想と宗教の奔流』『近代日本の陽明学』(以上、講談社)、『足利義満 消された日本国王』(光文社新書)、『父が子に語る日本史』『父が子に語る近現代史』(以上、トランスビュー)などがある。

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