ちくま学芸文庫

両義的な戦略家としての斎藤環

文庫版解説

玄田有史さんは、斎藤環さんの『ひきこもり文化論』をどう読んだのか。4月刊のちくま学芸文庫より解説を公開します。

 本書は斎藤環の21世紀初頭における静かなる戦いの記録だ。これまで斎藤は「ひきこもり」という武器を持って、世間という見えざる大敵に戦いを挑んできた。
 そして今やひきこもりは、日本のみならず、世界も認める日常語となった。「ひきこもり」が、誰にも知られる言葉となった理由に、スポークスマンを自称する斎藤環による喧伝活動の影響を否定する人はいないだろう。それだけひきこもりの社会的認知にとって、 斎藤の存在は大きかった。
 斎藤環の肩書といえば、本書でも自身が記しているように、「ひきこもり」問題を専門とする精神科臨床医ということになる。しかし多くの人が同時に知っているのは、当代随一の社会・文化評論家としての斎藤環だろう。本書には、臨床的見地からひきこもりを厳密に活写しようとする医師としての斎藤の横顔と、ひきこもりに対する誤解や偏見を是正し、社会を啓蒙しようとする評論家ときには社会運動家としての横顔が、実に絶妙なバランスで配置されている。
 そのバランスのために斎藤環が用いてきた戦略が、ひきこもりを単純に否定も肯定もしないという「両義性」のバランスだ。通常バランスといえば、異なる意見や立場のあいだに何とか穏やかな落としどころを見つけることだと考えられている。しかし、斎藤が両義性戦略として仕掛けるのは、そんな生やさしいバランスの模索ではない。ひきこもりの存在を自身のわずかな印象だけで全否定しようとする批判派と、自己正当化のイデオロギーだけから認めようとする擁護派のあいだに、妥協点を探ることなど、斎藤は一切考えない。むしろ、両者に共通する、ひきこもりを語る「言葉」のあまりの貧弱さを、静かだが実に激しく執拗に攻撃し、その結果として両者をともに無限の混乱へと引きずり込んでいくのだ。
 そんな両義的な戦略家としての斎藤環の策略に、世間は見事に嵌はまった。そしてひきこもりは、ついに日常語となった。本書で読者は、多角的かつ縦横無尽に仕掛けられた斎藤の戦略の巧みさを、思う存分堪能することができるだろう。
 ひきこもりを理解するには、否定でも肯定でもなく、治療だけでも見守りだけでもなく、個人的であると同時に社会的に、安易な一義的解釈を排し、つねに両義的に物事を理解しようとし、語ろうとすることが求められる。一方でゼロかイチか、アナログかデジタルか、賛成か反対か、敵か味方か、アメリカか中国かなどなど、とにかくわかりやすく白黒つけなければ落ち着かない世間の、最も苦手とするのが、両義性への対応でもある。
 斎藤の巧妙な戦略によって、ひきこもりの存在は広く知られるところとなった。一方で、社会によるひきこもりの正確な理解があまねく普及したかといえば、はなはだ心もとないところがある。しかし、実際がそうだとしても、それは斎藤環の尽力が無駄であったことを何ら意味するものではない。むしろ、世間を構成する私たち一人ひとりが、あらゆる両義的存在への耐性を知らずしらずのうちに失っているところにこそ、ひきこもりに対する理解を阻む本質があるように、私は思う。
 
 私が個人的に斎藤さんとはじめて会ったのは、本書の元となる単行本が出版された直後の2004年のことである。その後も何度か、お目にかかる機会があった。理由は簡単。私が2004年に『ニート──フリーターでもなく失業者でもなく』(曲沼美恵氏との共著、幻冬舎文庫)を出版したからだ。以後、ニートはその特徴として対人関係を形成するのが苦手なことが多いため、ひきこもりにイメージを強く重ねられつつ、次第に認知されていくことになる。
 斎藤さんと直接お話しをした経験のなかで、特に印象深かった言葉がある。それは「ニートが、まったく犯罪と結びつけられずに知られるようになったのは、スゴイことなんですよ」というものだった。本書では、2000年を前後して起こった、ひきこもりが元凶であるかのように語られた一連の犯罪に対し、それが根拠のない決めつけにすぎないと冷静に反論する、臨床医としての斎藤さんの姿を垣間見ることができる。
 私が「ニート」を問題提起した背景としては、ひきこもりの存在が特にあったわけでは
ない。むしろニートの直接的な経緯は、1990年代のバブル崩壊以降にきわめて深刻化した、若者の就職問題にあった。
 2001年に出版された拙著『仕事のなかの曖昧な不安──揺れる若年の現在』(中公文庫)のなかに、次のような記述がある。「職に就くことを希望しながら、自分にあった仕事を見出せない人々、就職活動があまりに困難なことから、仕事を探すことをあきらめた人々。その結果、失業者としてはとらえられない、非労働力とみなされる人々が、若者を中心に増えている」(33ページ)。この、フリーターのように働くことはせず、かつ業者のように仕事を探すこともしていない若年の非労働力(通学を除く)こそが、「ニート」ということになる。もしニートという言葉ではなく、非労働力という従来の統計専門用語にこだわり続けていたら、ニート問題はここまで広く知られるようにはならなかったろう。
 確かに存在していても、それが「言葉」にならない限り、その存在を認識されることはない。だからこそ、ひきこもりもニートも、存在しながらもずっと無視され続けてきたのだ。斎藤さんに「ひきこもり」という呼び名をできるだけ流通させようという目論見があったように、若年雇用政策の恒久化に向け「ニート」という言葉を一般化させようという思いを私も持っていたことは、正直に告白しなければならない。
 だが『ニート』を発表後、私自身、多くの批判に晒さらされることになる。ニートという言葉が、若者に対するレッテル貼りになるという批判もあれば、その名前が流通することでかえって働かない若者が増えてしまうという批判もあった(後者の批判は、本書では「ルーピング効果」と呼ばれている)。何よりたくさんの批判の声が挙がったことで、ニートへの社会の関心は盛り上がりを見せたというのが、むしろ真実だろう(その意味で批判はとても助かった)。ただ同時にその傍かたわらで、ニートという言葉によって「自分だけではなかったんだ」「自分が何者であるかがわかった」という当事者からの声が、少なからず届いていたのも、また事実である。
 おそらくひきこもりにまつわる多くの非難と賛同の嵐は、ニート以上に凄まじいものがあったに違いない。そしてその嵐のまっただ中にひとり立ち続けていたのが、斎藤さんだった。そんな敵意と賛意という強烈な磁場のなかで、いささかもブレることなく、斎藤さんはひきこもりにまつわる言葉を丁寧に紡いで来た。そう思いながら読むと、本書で発せられるひきこもりを語る言葉一つひとつの持つ強大なエネルギーを改めて感じ直すことができると思う。
 
 そんな強力なエネルギーもあってか、大部分が10年以上前に書かれた本書ではあるが、その内容は古びたところをまったく感じさせない新鮮さに満ちている。当時、斎藤環は日々ひきこもりに関する臨床を重ねながら、一方でひきこもりについて社会を啓蒙する文章を書き続けてきた。1000件を超える事例を踏まえつつ、文字通り走り続けながらひきこもりに関する考察を深め、多くの推論を打ち立てている。10年を超える歳月は、その当時の斎藤の推論が実際に正しかったのか否かを、過去の客観的な事実として検証することを可能としてくれる。
 「社会生活基本調査」という総務省統計局が5年毎に実施している調査がある。調査は、国民が日頃どんな生活をしていて、どのような時間の使い方をしているかを明らかにするため、全国の20万人以上を対象に行われるものだ。そこではランダムに指定された連続2日間の48時間について、15分単位で誰と何をしていたかをつぶさに記述することが
求められる。
 かつて筆者は、その調査を用いて、20歳以上60歳未満のうち、「仕事をしておらず、結婚したこともなく、さらにはふだんずっと一人でいるか、家族としか関わりをもたない人々」を「孤立無業者:Solitary Non-Employed Persons( SNEP ス ネップ)」として、その実態を探ってきた(詳細は拙著『孤立無業(SNEP)』〈日本経済新聞出版社〉)。
 いうまでもなく、孤立無業者の研究では、ひきこもりの存在を十分に意識した。孤立無業者には、自室に閉じこもったままの状態から、外出はするが友人とはふだんつきあいのない状態まで、広義のひきこもりをすべて含む。そんな広義のひきこもりの実情を知る上で社会生活基本調査がすぐれているのは、それが「ひきこもりの調査ではない」点にある。ふつう「あなたはひきこもりですか」と突然問われて、すぐに「そうだ」と返答することはない。それに対し社会生活基本調査は、ひきこもりについて問うことは一切なく、ただ指定された日時48時間の状況を淡々と記すだけだ。これであれば、回答のプレッシャーは限りなく小さい。
 その調査からは、本書が執筆された当時である2001年時点で、孤立無業者が全国にどれだけ存在していたかを求めることができる。計算すると、その数字は85万4000人に達していた。本書で斎藤は、ひきこもりはすでに100万人以上存在すると推定している。85万人余りというのは20歳以上60歳未満の範囲での人数であって、不登校や学校中退後の10代のひきこもりの存在を含めれば、100万人という数字は、見事的中といえるだろう。おそるべき推察力、斎藤環。
 そして斎藤は、何らかの社会的・文化的要因を背景として、ひきこもりは増加の一途をたどるだろうとも予測している。実際2001年に約85万人だった孤立無業者は、10年後の2011年には約162万人へと、ほぼ倍増した。この点でも斎藤の警鐘は、完全に的を射たものとなっている。
 2000年当時、急速に普及したインターネットについて、斎藤はひきこもりにとってけっして有害なものではなく、むしろ有用な存在となり得ることを、本書でもたびたび強調している。その指摘は、ひきこもりにはインターネット中毒者が多く、さらにはインターネットへの耽溺(たんでき)がひきこもりを犯罪に走らせているのではないかという世間に流布したイメージを、真っ向から覆くつがえすものだった。
 社会生活基本調査からは孤立無業者のインターネットの使用状況も知ることができる。それによると、孤立無業者は、友人と交流のある未婚の無業者と比べれば、当然ながら電子メールの使用頻度は圧倒的に少なくなっていた。さらに孤立無業者は、インターネットによる情報検索・入手をしている場合も少なかった。加えてパソコンゲームやテレビゲームを楽しむ頻度に、孤立無業者と友人のいる未婚無業者とのあいだで、統計的に有意な違いは一切観察されない。ひきこもりを含む孤立無業者にインターネット中毒者やゲーム脳に洗脳された人が多いというのはまったくの誤解でしかない。ここでも斎藤の指摘は統計的に完全に証明されている。
 膨大な臨床経験と社会に対する鋭い観察眼に裏打ちされた斎藤環の主張の正確さには、ただただ脱帽するしかない。
 
 ひきこもりにせよ、ニートにせよ、孤立無業者にせよ、それらはいずれも社会的病理の一種である。すなわちそれらは、当事者に個別固有の状態でありながら、同時に社会が抱える何らかの問題の一端がそこに表出したものと考えるべきだ。
 ひきこもりの増加は、高齢社会と相俟(あいま)って、社会的に孤立し、生存自体が脅かされる人々の増加につながっている。それは未来の問題ではない。すでに現在進行形の問題なのだ。今やひきこもりは若者や青年の問題だけでなく、むしろ高齢のひきこもりこそ、緊急に対応が急がれる状況となっている。
 その一方で斎藤は、ひきこもりに特有の希望も見出している。創造力を醸成するには、一定期間、他者との接触を断ち、一人黙考するひきこもり期間が必要になる。だからこそひきこもりは社会から新たな創造的行為が出現するための源泉となる可能性を秘めているのだ。ひきこもりに対して理想的な寛容さが社会に確立されたとき、社会的病理としてのひきこもりも確実に減っていくだろうと、斎藤は予想する。
 筆者の師であった経済学者・石川経夫は「学者は1年間のうち、3か月間は紙と鉛筆だけの生活をしないといけない」と、いわば「プチひきこもりのすすめ」を生前よく口にしていた。そのようなプチひきこもりによって、学問的創造力は磨かれるのだ、と。
 もし社会を創造的に生きるための権利として、誰もに日常的なプチひきこもりが許されるならば、未来はどんな世の中になっているのだろう。斎藤環の主張と予測からすれば、現在の社会的病理としてのひきこもりは消えてなくなり、新たな創造社会が整備されているはずだ。それは夢でしかないのだろうか。全員プチひきこもり社会の構想は、真面目な検討に値する夢想だと、私は真剣に思っている。
 ひきこもりという言葉を知らない大人は、もう日本にはほとんどいないだろう。しかしひきこもりという問題に本気で向き合おうとしているのは、実際に家族や友人でひきこもり状態にある人が存在する場合に限られているのも、現実ではある。しかし、今や誰もが、ひきこもりや孤立無業の当事者か、その関係者になるかもしれない時代である。文庫になった『ひきこもり文化論』は、今後も少なからず現れる新しいひきこもりの当事者と関係者にとって、必読の福音書となるだろう。    (げんだゆうじ/東京大学教授)

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