piece of resistance

3 指名

なんでそんなことにこだわるの? と言われるかも知れないが、人にはさまざま、どうしても譲れないことがあるものだ。奥様とは言わない、本に書き込みはしない、ご飯は最後の一粒まで食べる、日傘は差さない……等々。それは、世間には流されないぞ、というちょっとした抵抗。おおげさ? いやいや、そうとは限りません。嫌なのにはきっとワケがある。日常の小さな抵抗の物語をつづります。

 予約の電話をかけるたび、決まって、ご指名はございますかと尋ねられる。「ございませんか」ではなく「ございますか」。いいえと私が答えたあとには一瞬の間が訪れる。
 二人のマッサージ師がいるその小さな治療院では、どうやら、客の多くがどちらか一方を指名しているらしい。田中さんか上原さん。どちらの側へ付くのかあなたも早いところ態度を決めてほしい。そんな無言の圧力を受けとめながらも、私は指名をしない。
 近場にマッサージ屋が一軒しかない不運を呪いつつ、私は憂鬱な心持ちで、持病の腰痛をこらえて徒歩十分の道を行く。その日の担当が田中さんであろうと上原さんであろうと、毎度、謂われのない後ろ暗さを背負って顔を合わせることになる。

 三十代前半で筋肉質、学生時代は水球をしていたという田中さんの場合は、こちらが何も言わずとも着替えの上下スウェットを用意してくれる。万事において彼はてきぱきとしている。返事もいい。いつも一生懸命で、五歳の娘さんからも「パパ、がんばりすぎないで」と言われているという。
 田中さんの施術を一言で表すならば、「パワーオンリー・ノーブレイン」だ。
 とにかく力で押す。押して押して押しまくる。体というのはフィジカルな個体であり、その点においては鉄や鋼と変わらない。そう固く信じていなければここまではできない、というくらいの指圧力である。
 痛い。とにかく痛い。それを伝えると「あ、すみません」と多少は手心を加えるものの、こんな怠惰を己にも客にも許していいのだろうかと危ぶむように、再びむくむくと親指が威力を増していく。ちょっと痛いです。あ、すみません。ちょっと痛いです。あ、すみません。その絶え間なき反復。ときどきすれちがう彼の顧客に若い世代が多いのは、高齢者たちが身の危険をおぼえているせいかもしれない。
 厄介なのは、三十代半ばという私の年齢を、田中さんが「まだ若いほう」と見ている節があることだ。若い以上は自分を指名すべきだ。それが得られないのはまだまだ自分の指圧が甘いせいではないか。そんな自省をも感じさせるほど、田中さんは力任せに私のコリをねじふせようとする。
 結果、たとえ腰痛が軽減されても、施術のあとには「痛みを取るためにこれほどの痛みに耐える必要があったのか」との疑念が常につきまとう。

 翻って、上原さんはセオリーの人だ。
 おそらくは四十代の半ば、亀の飼育が趣味でバツイチの彼は、世の中に絶対は存在しないというふうに、施術前に必ず「着替えをされますか」と尋ねてくる。私が仕事帰りのスーツ姿でも、ためらうことなく聞く。別段、着替えの用意を億劫がっているわけでもないらしく、「します」と答えるといそいそと更衣室へ案内してくれる。
 物腰は柔らかで、何事にも丁寧。アクセサリーは外し、髪は後ろで一つに束ねるという彼の原則を私がうっかり忘れたときだけ、その目に不穏な影が差す。形式を重んじる人なのである。
 枕の位置。腕の位置。足を軽く開いておく角度。緻密な指示を行きわたらせたのち、上原さんの施術はまず宇宙との対話から始まる。そうでもなければ説明がつかないほどに長い時間、ベッドへうつぶせた私の背の上でじっと両手をかざしている。
 最初の回、待てど暮らせど何も起こらないのをいぶかりチラッと上を見たところ、そこには青筋を浮かせた彼の掌があり、その迫力にぎょっとした。
 帳尻を合わせるかのように、毎回、十分程度は施術を延長してくれるため、金銭的に損を被るわけではないも、時間を損した気にはなる。
 ようやくマッサージが始まると、今度は体との対話が続く。曰く、「体のことは体が一番よく知っている」。その声に逐一耳を傾け、然るべき手を加えていく。必要以上の力は込めない。無駄な動きは一切ない。ここぞというツボのみに全神経を集中し、過不足のない措置をとる。
「胃腸が弱っていますね」「最近、寝不足じゃないですか」「右足を上にして脚を組む癖がないですか」「目が疲れていますね」「体を冷やしませんでしたか」。体の声をいちいち教えてくれる上原さんから、「つらいところはありますか」と心の声を問われたことはない。一度、首がつらいと自ら申しでたところ、それはあなたの主観に過ぎないとばかりに軽く聞き流された。
 腰の調子は確実に良くなるから、技術は確かなのだろう。が、「だから満足しろ」と言われたら、そんなのは無理な話である。

 施術が終わると、三十ポイントで一時間無料となるサービスカードを渡し、「田中」か「上原」の判子を押してもらう。私のカードにはどちらの名前もランダムに散っていて、新たな一つを押す際、田中さんも上原さんも少しばかり悲しげな顔をする。私も悲しくなる。けれど次回も指名はしない。そう胸に期して帰路につく。
 

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