ちくま文庫

羽守町の物語は終わらない

『ハモニカ文庫と詩の漫画』解説

尾形亀之助、江戸川乱歩、菅原克己原作など詩情あふれる漫画集の魅力とは?

 リトルマガジン『ぐるり』二〇〇八年八月号(ビレッジプレス)の特集は「山川直人」。編集者でライターの南陀楼綾繁さんが山川さんをインタビューしている。
 山川さんは高田渡が歌っていた「ブラザー軒」で菅原克己を知った。菅原克己の最後の詩集『一つの机』を書店で見つけ、それからしばらくして『菅原克己全詩集』(いずれも西田書店)を入手した。そうこうするうちに、菅原克己を偲ぶ「げんげ忌」という会に顔を出すようになり、グループ展仲間の内田かずひろさん、保光敏将さんといっしょに菅原克己の同人誌を作る。この文庫所収の「〈贋札つくり〉について」は二〇〇九年に発表した作品(原作は一九五九年)。他にも山川さんは菅原克己の詩をモチーフにした漫画を描いていて、二〇一六年に山川直人著『日常の椅子 菅原克己の風景』(ビレッジプレス)としてまとめられた。
 『日常の椅子』のあとがきには「ふだん詩を読む習慣はないし、詩は、いまでもよくわかりません。でも、読んで何か言いたくなって、うまく言えないので、漫画にしたようなものです」とある。
 前述の『ぐるり』のインタビューでは山川さんの漫画の中に小沼丹や小山清の本が出てくることを南陀楼さんに指摘され、こんなふうに答えている。
 「漫画の仕事がなかなかなくて、だんだん『おれは漱石じゃないなあ。芥川じゃないなあ。太宰じゃないなあ』と思うようになったんです。それで、『ああ、小山清ならまだ近いかも』と(笑)。平凡な日常を、日常の言葉で語る。こういう作品が私のような者を慰めているのだから、私の漫画も誰かを慰めることがあるかもしれない、と励まされました」
 二十六歳のときに『ヤングチャンピオン』でデビュー。それまではアルバイト暮らしをしながら同人誌に漫画を発表していた。最初の単行本の『あかい他人』(秋田書店、一九九一年)はあまり売れなかった(その後、復刊)。再び実用書のイラストや雑誌のカットの仕事をしつつ、同人誌を作る。代表作『コーヒーもう一杯』の連載がはじまったのが二〇〇四年、山川さんは四十代になっていた。

 「ハモニカ文庫」の羽守町の物語はどこにでもありそうでなさそうな、ちょっと懐かしい商店街を行き交う人たちの日常を淡々と描いている。主人公らしい主人公はいない。町が主役の作品といってもいいかもしれない。コーヒーの旨い喫茶店、均一台にときどき掘り出し物がある古本屋、ハンバーガーショップ、コロッケが名物の精肉店、最近、あまり見かけなくなった模型屋……。
 あらためて「第二話 道順」を読み返すと、それ以降の話の中で職業その他が判明する人たちがすでに登場していることに気づく。袖ふりあうも多生の縁。今、自分が暮らしている町でも、いつどこに小さな出会いがあるかわからない。
 おそらく「道順」はトキワ荘の寺田ヒロオが富山県から上京する藤子不二雄のふたりに送った丁寧すぎる手紙からヒントを得た話だろう。ちなみに「道順」の古本屋の右側奥の棚の上のほうにある『空と雲』にまつわる話は『コーヒーもう一杯』の第二巻でも語られている(『空と雲』の作者の名前がわかるよ)。
 初読のときには気づかなかったシーンはまだまだある。「第四話 5月の手紙」のハンバーガーショップの店内にも本作品の常連たちの姿がちらほら。「第十話 古本堂主人」には、似顔絵描きの男が本を売りに行った古本屋に「一箱古本市」と書かれたチラシがちらっと見える(二〇〇五年から谷中・根津・千駄木ではじまった古本市。今は全国各地で開催されている)。こうした山川さんの遊びに気づくとちょっと嬉しくなる。
 山川さんの漫画は多彩な擬音語や擬態語も特色のひとつだ。頁によってはセリフよりオノマトペのほうが多いときもある。バスの発車音や停車音、ドアの開け閉め、本を閉じる音、紙が擦れる音など、頁の中にさまざまな音色があふれている。何といっても足音がすごい。「コツコツ」「とっとっ」「たったっ」「ぺたぺた」「すたすた」「ドタドタ」……。それぞれの足音が人物や場所ごとに描き分けられている。芸が細かい。女の子が作文を書いているときの鉛筆の音も可愛い。
 江戸川乱歩原作の「木馬は廻る」(一九二六年)の「ガラガラゴットン」という擬音も印象に残る。乱歩の原作では「ガラガラ、ゴットン、ガラガラ、ゴットン」というフレーズが三回出てくる。さて、山川版「木馬は廻る」には「ガラガラゴットン」が何回出てくるでしょうか? 答えは教えません。
 乱歩の「自作解説」によると、「木馬は廻る」は、宇野浩二のある小説の中に描かれていたメリイ・ゴウ・ラウンドの場面に影響を受けたらしい。その小説は『苦の世界』。宇野浩二は回転木馬の音を「ドンガラガツカ、ブウブ、ドンガラガツカ、ブウブ」と表現している。
 「小さな運動場」の尾形亀之助は、未来派の画家で詩人、酒好きの怠け者だった。原題は「話(小説)──或ひは「小さな運動場」」。一九二七年の作。尾形亀之助、二十七歳。この作品を発表する前年に長男が生まれていたが、女性関係に悩んでいた。
 秋元潔著『評伝 尾形亀之助』(冬樹社)には「亀之助がお熱をあげた女性は、吉行あぐりさんということである」と記されている。亀之助の片思いという説もある。「S子さん」が誰なのか、真相はわからない。亀之助は「小さな運動場」を発表してから半年後、妻と離婚する。妻は亀之助の詩友だった大鹿卓(金子光晴の実弟)のもとに去った。「小さな運動場」はけっこう大変な時期に書かれた“小説”なのである。
 今回収録された「木馬は廻る」「小さな運動場」「〈贋札つくり〉について」の三作は、不遇なラッパ吹き、貧しい水彩画家、売れない詩人の話だ。彼らの世界にも羽守町の人たちが時空を超えて行き交っている(ような気がする)。
 山川さんの『コーヒーもう一杯』や二〇一八年五月に完結した「シリーズ小さな喫茶店」を読んでいたら、似顔絵描きの青年の姿を度々見かけた。「シリーズ小さな喫茶店」の最終巻『月と珈琲、電信柱』(ビームコミックス)には、羽守町の商店街の“あの店”や尾形亀之助の詩集(思潮社の現代詩文庫1005。八十八頁。「父と母へ」)の話も出てくる。
 『月と珈琲、電信柱』というタイトルを見たとき、「そういえば、山川さんの漫画のどこかに似たような題の本が描かれていたような……」と頭に浮んだのだが、すぐにはおもいだせなかった。
 ええっと、電信柱と何だっけ?
 答えは「ハモニカ文庫」の「第十七話 おすすめの本」の中にあった。

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