それ、ほんとの話? 人生につける薬Ⅱ

第9回 実話における偶然

『人はなぜ物語を求めるのか』に続く、千野帽子さんの連載第9回! それは本当に偶然なの??

自分の行動の動機を、自分は知らない、ということ

 

 拙著『人はなぜ物語を求めるのか』のもととなった前の連載『人生につける薬 人間は物語る動物である』で、渡邊博史(ひろふみ)さんの手記『生ける屍の結末 「黒子のバスケ」脅迫事件の全真相』(創出版)を大きく取りあげました。

 渡邊さんは、2012年から翌年にかけて、人気漫画家・藤巻忠俊さんの母校や、その漫画『黒子のバスケ』(集英社)関連のイヴェント会場・グッズの製造元や販売小売店に毒物を配置・送付し、大量の声明文・脅迫状を送った事件の被告でした。
 僕は彼の手記を読んで心を打たれ、前の連載では数回にわたってその内容を取りあげました。

 彼は冒頭陳述で、自分の犯行動機をいったんは明瞭かつシンプルに説明していました。しかし、差し入れられた高橋和巳医師の著書『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』(その後ちくま文庫に入りました)などを読み、自分の行動の動機を、自分自身まったく自覚していなかった、と気づくのです。その後の最終陳述では、冒頭陳述とはまったく違った動機の説明を試みています。

 この、「自分の行動の動機を、自分は知らない」という状況については、いずれのちの回で、渡邊さんとはべつの例を紹介することになると思います。
 ここでは、彼が語っているふたつの偶然について、取りあげたいのです。

意外な第一発見者

 ひとつは、前の連載の第6回で紹介したものです。
 渡邊さんの一連の犯行の最初の一歩は、作者・藤巻さんの母校・上智大学の男子バスケットボール部の練習場所に、藤巻さんを中傷する文書と併せて硫化水素の発生装置を置く、というものでした。男子バスケ部のマネージャーがその装置の第一発見者です。
 彼女は偶然にも、TVアニメ版『黒子のバスケ』主演声優の妹さんでした。

 彼女は調書で、〈兄が事件の少し前にあったイベントで「妹が大学でバスケ部のマネージャーをしている」としゃべってしまい、それが兄のファンたちの間で話題になっていた〉ため、〈「私に対する嫌がらせだ」と思い恐怖心が湧いた〉という主旨のことを述べています(『生ける屍の結末』134頁)。

 公判の準備中、調書を読んでこの事実を知り、驚いた渡邊さんは、
〈第一発見者の男子バスケ部のマネージャーの供述は驚くべき内容でした〉
と書き、そのすぐあとに、今回の連載の第5回で取りあげた、あのフレーズを続けています。
〈事実は小説よりも奇なりとは、まさにこのことです〉(同133頁)

 前の連載でも書きましたが、もしこれが17世紀フランスの劇だったら、オービニャック師に、
「いくらなんでも偶然がすごすぎて、納得感がない」
「ヘタな作劇だ」
と言われてしまったかもしれません。
 しかし僕たちは『生ける屍の結末』がノンフィクションだと知っていますので、
「へ〜、そんな偶然があるんだなあ」
と素直に驚きます。
 虚構物語のなかでは「噓臭い」「ありそうにない」「説得力に欠ける」と批難されがちな、蓋然性や道徳の公準からの極端すぎる逸脱も、実話(非虚構言説。「噓」や「間違い」の言説も含まれます)のなかでは、素直に受け取られます。
 あるいは、「噓じゃないか」「なにかの間違いじゃないか」と素直に疑われるのです。

両親を殺害しようと思ったが……

 続いて、前回紹介しなかったもうひとつの偶然を、同じ『生ける屍の結末』のなかから取りあげましょう。

 『生ける屍の結末』のなかで、「冒頭陳述」と「最終陳述」とのあいだに、「生い立ち 【裁判所に提出した書証】」と題する、全64頁におよぶ長いインタヴューが掲載されています。〈被告人質問の準備のために作成し、裁判所に提出した〉(同174頁)ものだそうです。
 このなかで渡邊さんは、小学校時代からのいじめと、家庭での被虐体験を語っています。
 そこに、もうひとつの「偶然」が報告されていました。

 高校1年生の3学期、両親は渡邊さんの成績不良に怒り、
〈・1年が終わった春休みからスパルタ式で有名な地元の現役生向け予備校に通わせる
 ・隠れて買い集めているマンガ類はすべて没収して処分し、改めてマンガ、アニメ、ゲーム類の全面禁止を言い渡す〉(同202頁)
ことに決めました。

 それを知った渡邊さんは、その翌日、納戸で木刀を見かけます。
 〈この木刀は父方の親族が、自分が生まれた時に出産祝いで「これで息子をバシバシ叩いて厳しくしつけないとダメだぞ」と言って父親にプレゼントしたものです。
この木刀を父親は庭の物置に仕舞っていました。つまりいよいよ父親が木刀を使う気になったんだと思いました〉(同203頁。引用者の責任で改行を加えました)
 渡邊さんは〈この両親とは共存不可能だと思って〉、ふたりを殺害する決意を固めます。

 3月23日、学校帰りにディスカウントショップで出刃包丁を2本買って、〈1本ずつ両親の胸に突き立てる〉つもりで帰宅しました。
 〈殺害予定日は2日後の3月25日。1年の終業式の日で、両親が自分への処置を決行する予定日でもありました〉(同204頁)。

 帰宅すると母は留守でした。〈父親が会社で倒れて病院に搬送されたので、お見舞いに行っているとのことでした〉。
 そして父は〈意識不明のまま2日後の3月25日に他界しました。脳出血でした〉。

『魔王』と『生ける屍の結末』

 この連載の第7回で紹介した、ミシェル・トゥルニエの『魔王』からの挿話を思い出してください。

 学校の懲罰委員会に呼び出された主人公の少年が、出頭前夜に学校が燃えてしまう夢(幻覚? 妄想?)を体験し、翌朝登校すると、ほんとうに学校が火事になっていた、というものでした。主人公は、自分の運命(呼び出し)と外的なできごと(火事)との因果関係を信じています。

 読者は、この主人公がほんとうにある種の「選ばれし者」であるのか、それともただの偶然に因果関係を勝手に想定して悦に入っているただの「ちょっとおかしい人」なのかと、小説を読んでいるあいだも、読み終わったあとも、ずっとためらい続けることになります。それがある種の幻想文学の読みかたですね。

 いっぽうノンフィクションである『生ける屍の結末』では、僕たちは先述の第一発見者のときと同じように、
「へ〜、そんな偶然があるんだなあ」
と素直に驚きます。

 この比較から、改めてつぎのことが確認できるでしょう。
(1)「ほんとうのこと」と「ほんとうらしいこと」は違う。
(2)フィクションは「ほんとうらしいこと」を必要とするが、ノンフィクション(「ほんとうのこと」の報告)はそれを必ずしも必要としない。

 もちろん、ノンフィクションの著者がこういったできごとにそういう意味づけをするかは、さまざまでしょう。
 「生い立ち 【裁判所に提出した書証】」の文面のなかに、渡邊さんがこの偶然に驚いたということも、逆に「これは運命」、さらには「自分の念力」などという意味づけをしているということもありません。
 むしろ、その沈黙を保っていることが、「生い立ち 【裁判所に提出した書証】」というインタヴューの与える、なんというか感銘を、高めているように思います。

『異邦人』と『生ける屍の結末』

 僕は前の連載の第7回で、『生ける屍の結末』とカミュの小説『異邦人』(1942。窪田啓作訳、新潮文庫)との接点あるいは暗合(偶然の一致)に言及しました。

・前半で犯行を語り、後半で逮捕後のことを語るという構成が同じ
・後半で、世間の人々の犯行動機の推測(=物語化)を批判するというメタ物語的な趣向が同じ
・渡邊さんにヒントを与えた高橋和巳医師のタームが偶然〈異邦人〉(高橋医師の用法では、被虐鬱を抱えた虐待サヴァイヴァーをさす)
・渡辺さん自身が犯行直前の自分を振り返って、〈不条理小説の書き出しの一文のようですが/「今日、自分を喪失した」/とでも表現すべき状態になってしまったのです〉(同267頁)と書いている

という4点を挙げたのですが、5点目として、

・『異邦人』の語り手兼主人公ムルソーは、母の葬式で涙を流さなかったことを明言し、渡邊さんは父の葬式で涙を流さなかったことを明言している

という点を加えるべきでしょうか。
 渡邊さんはつぎのように書いています。

〈葬式で自分は涙の一滴も出ませんでした。葬式が終わって自室で一人きりになり、押し入れの奥に隠してあった包丁を取り出して見つめました。すると、「この殺意をどこに持っていって始末したらいいんだ」と思えて来て、涙があふれて来ました〉(同204頁)

偶然は、〈人生脚本〉の書き直し要求をつきつけることがある

 頭木弘樹さんは、『絶望読書 苦悩の時期〔とき〕、私を救った本』(飛鳥新社)のなかで、カナダ出身の米国の精神科医エリック・バーンが提唱した〈人生脚本〉(life script)という概念を紹介し、つぎのようなことを書いています。

 人は〈無意識のうちに、自分の未来の生き方の脚本を書いている〉(『絶望読書』31頁)。
 その脚本が〈現実によって無理矢理に書き換えさせられることもあります〉(同33頁)。  もしそれが〈挫折、失敗、喪失といった絶望的な《転機》〉であったなら、どうしたらいいのか。

 バーンの「交流分析」という理論についてはまったく詳しくないので、僕は〈脚本〉という語を専門用語としてではなく、あくまで比喩的に使いますが、人生の脚本を〈無理矢理に書き換えさせられる〉という体験を、僕も何度かしました。
 自分の愚かさ、卑怯さゆえに重大な選択を誤った結果として、書き換えを余儀なくされたこともあります。
 しかしいっぽうで、純粋に外側の現実によって、漠然と思い描いていた未来の可能性を断たれたこともあります。

 後者は偶然としか言えないできごとですが、人はそういうときに、そのできごとの原因を自分や他人の行動に求めたり(因果関係による意味づけ)、そうして見つけ出した「犯人」を責めたりしてしまうのです。
(つづく)
 

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