piece of resistance

32 口癖

なんでそんなことにこだわるの? と言われるかも知れないが、人にはさまざま、どうしても譲れないことがあるものだ。奥様とは言わない、本に書き込みはしない、ご飯は最後の一粒まで食べる、日傘は差さない……等々。それは、世間には流されないぞ、というちょっとした抵抗。おおげさ? いやいや、そうとは限りません。嫌なのにはきっとワケがある。日常の小さな抵抗の物語をつづります。

 平々凡々ながらも平和な日々を享受していた大学時代、幸いにして私には人に言うほど深刻な悩みなど一つもなかったけれど、とるにたらないちっぽけな不満は日常のあちこちに転がっていて、そのひとつが、友人たちの口癖だった。

 友人の一人、真里子の口癖は「いま思えば」だった。
「いま思えば、高校生の頃って、将来のことなんかまだなんにも考えてなくて、自由気ままだったよね」
「いま思えば、一、二年生のうちにもっとバイトいっぱい入れて、お金貯めとけばよかったね」
「いま思えば、いちばん最初につきあった彼氏がいちばん優しかった気がする」
 真里子は聡明で落ちついた子で、友人間のトラブル仲裁能力も高く、私は彼女の大人びた物腰に憧れ、つねづね頼りにしていた。だからこそ余計に、その口から「いま思えば」が飛びだすたびに、なぜそんなつまらないことを言うのかと落胆し、さびしい気持ちになった。
 真里子は「いま」をなおざりにしている。過去の出来事をいまさらふりかえって何になるだろう。この瞬間、いまの自分が思っていることだけがすべてじゃないか。
 そんな思いを真里子本人にぶつけることができなかったのは、プライドの高い彼女を怒らせ、友情にひびを入れてしまうのを恐れたからだ。
 たいしたことじゃない。誰にだって一つや二つは難点がある。
「いま思えば」を聞くたびに私は心でつぶやき、真里子が浸る過去のどこかに自分まで流されないようにと足の指を力ませた。

 もう一人の友人、由衣の口癖は「私なんか」だった。
「私なんか、足太いし、ミニスカートも似合わないし」
「私なんか、かわいくないからきっと内定、一生もらえないし」
「私なんか、絶対、彼氏もできっこないし」
 由衣はけっしてネガティブな思考の持ち主ではなく、むしろ明るいお調子者だった。軽いギャグでその場を和ませるのが上手く、人をよく笑わせ、自分もよく笑った。
 が、ひとたびお酒を飲みはじめると、日頃どこかに溜めこんでいる鬱屈が奔出し、「私なんか」の雨霰がとめどなく降りそそぐのだった。
「私なんか」はたんなる卑下ではなく、他者への命令だ。「そんなことないよ」の一語を抗いがたい横暴さで要求する。自分を否定することで相手から肯定してもらう、そんな自尊心の保ち方は健全じゃない。
 由衣の甘えがアルコールによって露わになるたびに、私はそんな思いを心の中に押しこめておくのに腐心した。
 口に出せば由衣を傷つけるし、私たちの友情にも傷がつく。
 ネガティブモードの由衣のために、私は普段の陽気な由衣までも失いたくなかった。

 結局のところ、私は胸に慢性的な苛立ちを抱えつつ、それを一度も表には出さずに大学を卒業した。なにはともあれ、二人は私の平和な大学生活の土台を支えてくれていた大事な親友だった。私の胸にはその感謝も同時に刻まれていた。
 友情を築くということは、相手の長も短も同等に、おおらかに受け入れることだ。
 学生時代のそんな考えは、しかし、社会へ出ることで少々変質した。他者との協調が美徳ではなく義務として課される職場で、地の自分を隠し、あたりさわりのない会話に終始する相手が増えていくほどに、義務ではなしに結ばれた友情がひどく貴重で希少なものに思われてきたのだ。
 真里子と由衣。素顔の自分に寄りそってくれた二人に、私はもっと言いづらいことも言うべきだったのではないか。社会の荒波に彼女たちが傷つけられる前に、私が彼女たちを傷つけるべきだったのではないか。

 就職から約八ヶ月、忘年会を名目に久しぶりに三人で顔を合わせたとき、私は心に決めていた。もしも今夜、真里子が「いま思えば」と言ったら、あるいは由衣が「私なんか」と言ったら、いまこそ私は勇気を出して自分の思いをぶつけてみよう。
 そんな意気込みで待ち合わせのダイニングへ挑み、スーツ姿がだいぶ様になってきた二人と再会の乾杯をしたあと、一瞬の沈黙を埋めるように、私はなにげなく口にした。
「ねえねえ、なんか面白いことない?」
 白雲に陽がこもるように、二人の顔から笑みが消えた。奇妙な間のあと、真里子と由衣は同時に瞳を力ませ、決然と言い放った。
「美咲、それ言うのもうやめたほうがいいよ」
「前から気になってたんだけど、その口癖、直したほうがいいと思う」
 

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