ちくま新書

大坂城のはじまり

『大坂城全史――歴史と構造の謎を解く』「はじめに」

かつては織田信長と覇を争った浄土真宗の聖地があり、後に豊臣家の居城として栄華を極め、徳川幕府の支配の拠点として再築、整備されるなど、歴代権力者たちの興亡の舞台となってきた名城のすべてが詰まった『大坂城全史』。そのいわば前史を扱った「はじめに」を公開します。

†大坂というところ

 今や、「大阪」は世界にもその名を知られる有名な地名となっているが、そもそもは、現在の大坂城本丸・二ノ丸が立地するあたりを指していう地域名称に過ぎなかった。そしてこれまで、この小さな土地を指して「大坂」と呼んだのは、浄土真宗の本願寺八世宗主であった蓮如が、その晩年に建立した大坂御坊について語った明応七年(一四九八)十一月二十一日の御文章(御ふみ)のなかで、次のように語っているのが早い例だとされてきた。

抑も当国摂州東成郡生玉之庄内大坂といふ在所は、往古よりいかなる約束のありけるにや、去ぬる明応第五の秋下旬の比より、仮初めなからこの在所を見初めしより、すてにかたのことく一宇の坊舎を建立せしめ、当年ははや既に二三年の歳霜を経たりき。(『真宗史料集成』二)

 ここで蓮如は、明応五年の秋に、摂津国東成郡の生玉庄という庄園の一角の「大坂」という土地を見初め、その地に一宇の坊舎を建立したという。しかしこれはもちろん、この年に「大坂」という名が唱えられ始めたのではなく、それ以前からあった「大坂」という名の地に坊舎を建立したという意味である。

 近年、これをはるかに遡る正安三年(一三〇一)までに著された『宴曲抄』に、熊野の参詣路にかかわって「九品津小坂郡戸の王子」という記録のあることが紹介された(大澤「中世大坂の道と津」)。これは九十九王子(熊野参詣路に沿ってある多くの小社)を今の天満橋あたりにあった窪津王子からの参詣順にかかげたもので、そこにみえる「小坂」こそ蓮如のいう「摂州生玉之庄内大坂」に他ならないという。これにより現在の大坂城地付近を大坂あるいは小坂と呼ぶようになったのは、遅くとも鎌倉時代末期にまで遡ることが確実となった。

 ところで、この事例からも明らかなように、「大坂」という表記が固定して使われてきたのではなく、例えば醍醐寺三宝院の義演は十六世紀末〜十七世紀初頭の慶長年間(一五九六〜一六一五年)になっても大坂城を指して「小坂御城」(『義演准后日記』慶長四年十月朔日条)という表記を使っている。読み方も「おおさか」「おおざか」「おさか」など色々あった。したがって「大坂」「小坂」という表記にあまりこだわる必要はない。大坂・小坂という地名は全国各地にあり、もとは大きな(長い)、小さな(短い)坂のある土地というほどの意味であろう。それが、今や大阪市・大阪府として広域の地名表記として定着しているのは最初に見たとおりである。

 さて、本論に入る前に、大坂城のある「大坂」とその付近の地理的特徴について簡単に見ておこう。このあたりは、総じて標高の低い大阪市域にあって、南方の阿倍野方面から北に伸びる後期更新世(十二万六千年〜一万千七百年前)後半期に形成された標高十数メートル〜三十メートルの高燥な舌状台地の北の突端部に位置している。「上町台地」と呼ばれるこの台地は、現在の東大阪地域である河内盆地(約六千年前の縄文海進期には海域だった)を逆「C」字形に取り囲む台地・山地が途切れる一画を形成し、台地の西と北には、南北に細長く天満砂洲(標高約二メートル)という砂洲が伸びている。大坂城の北を限る上町台地の北端部は崖状となってこの天満砂洲に臨むが、実はこの台地と砂洲を隔てる流路は人工的に開削されたものだ。『日本書紀』によれば、難波の高津宮にいた仁徳天皇は、その十一年十月に「難波の堀江」を開削し、「茨田の堤」を築いて、東方の河内盆地の中心部を占めていた河内湖(草香江)に滞留していた大量の川水を西の海に流すようにしたが、その「難波の堀江」こそ、台地北端の崖と天満の間の砂を除けて堀川として開いたものに他ならなかった。

 そして同じ頃、「大坂」の少し西方( 下流) には古歌「難波津に咲くやこの花……」で知られる「難波津」という港が置かれ、このあたりは東西の日本各地はもとより、中国大陸・朝鮮半島との間での物資交流の集散地という役割を担うこととなった。以後、五世紀中葉には、台地北端にほど近い現在のNHK大阪ホール・大阪歴史博物館の敷地で床面積九十平方メートルの大倉庫十六棟が朝廷直轄の倉庫群として営まれたのを皮切りに、大化改新(六四五年)直後に造営が開始された「難波長柄豊崎宮」、聖武天皇の神亀三年(七二六)に造営が始まった「難波宮」が置かれ、さらには遣唐使の出発地にもなるなど、政治・外交・経済に大きな位置を占めるようになった。

 こうした大和政権の要地としての地位は、その後次第に低下するが、それでも政治上の要衝としてこの付近には摂津国府がおかれ、また嵯峨源氏の渡辺党がこの地を支配して「摂津大江御厨渡辺惣官職」に任じられ、「難波津」を改めて「渡辺津」を営むなど、政治・交易の要地であり続けた。

 ただ、今まで述べてきたのは、大坂城地そのものではなく、その西方高台にかけての地域を中心とする、いわば広域の「大坂」のことである。翻って、ピンポイントに古代中世の「大坂」を知ろうとすれば、実は大きな困難に直面する。「難波長柄豊崎宮」造営にあたり、境内の樹を伐ったとされる(『日本書紀』孝徳即位前記)「生国魂社」は、豊臣秀吉の大坂築城に伴って城外に移されるまでの長い間「生玉之庄内大坂」に鎮座した生国魂神社(現在は天王寺区生玉町に移座)のことである。したがってこの神社は、蓮如が大坂御坊を営んだ時代にもこの地にあったのだが、その実態は杳として知ることができない。

 そこで、歴史家の山根徳太郎などは、「今の大阪城の地域は、(中略)他の何者にも侵されることなく、摂津東成郡の大社として広大なる社地を擁してその尊厳を保持し続けたものかと考える」(山根「大坂城址の研究」)と記すこととなる。しかし、この辺りには他にも天平勝宝四年(七五二)に東大寺が安宿王から買得し、間もなく新薬師寺に転売することとなる荘園の存在が知られる(栄原「難波堀江と難波市」)など、今少し複雑な推移を想定するべきであろう。とはいうものの、荘園のその後もほとんど明らかではないので、「大坂」が長い間、鬱蒼とした森林に囲まれた広大な社地だったというイメージは、今日でもあまり変わっていないようにも思われる。

 ところで、「大坂」付近には東西方向の開析谷がいくつも走っている。現在の史跡難波宮公園北西あたりを指す「法円坂」は、そうした開析谷のひとつに由来する名である。前述した前後二時期の難波宮跡を発見・発掘して日本のシュリーマンと讃えられる山根徳太郎は、江戸時代末期の大坂城図を見て、ちょうどそのあたりに「法眼坂」という記載があるのに注目し、これが「法眼寺坂」の訛りで、もとは本願寺と隣接してあった法安寺にちなむ「法安寺坂」であろうと推定、法安寺に隣接していた大坂本願寺、ひいては蓮如の大坂御坊も大坂城の南側(今、難波宮大極殿が復元されているあたり一帯)にあったのだろうと考えた。その当否はともかく、この法眼坂(現在さらに転訛して法円坂と呼ばれる)も、「大坂」も、開析谷のひとつにちなむ小さな地域の名称だったことは確かだろう。

 そういえば、近年刊行された『大阪上町台地の総合的研究』の巻頭図版「上町台地北部と周辺低地の更新統上面等高線図」には大坂城本丸に食い込む二つの開析谷(南東部に位置する「井戸曲輪谷」と西部に位置する「本丸谷」)が図示されている。いずれも、上町台地を侵食して形成された谷だ。もちろん、今の時点でこの谷のどちらかが「大坂」のルーツであっただろうなどというつもりはもうとうないが、上町台地の北端にあり、それを削って形成されたこの地域の複雑な地形が、本願寺や大坂城の形成に何らかの影響を及ぼしたことまでは認めてもよいのではないだろうか。

 いずれにしろ、長らく生国魂神社が鎮座してきた「摂州東成郡生玉之庄内大坂」が明応五年に蓮如に取り立てられたことで、この地が大坂/大阪発展のルーツとなったのは間違いない。実際、それ以後、この地は大坂本願寺、豊臣期大坂城、徳川期大坂城と相次いで権力者の重要拠点として、豊かな歴史を展開していく。そういう意味で、蓮如の大坂御坊、そしてそれを発展的に引き継いだ大坂本願寺こそ、この『大坂城全史』で最初に物語るにふさわしい舞台だろう。

 まずは浄土真宗の聖地としての大坂御坊・大坂本願寺から話を始めたい。

†本書の構成

 第一章は、大坂城の前史として、大坂御坊・大坂本願寺の時代を扱う。浄土真宗八世の蓮如が晩年に営んだ大坂御坊は、その死後三十年余を経て、十世証如が山科にあった本願寺を当地に移し、新たな本山とした。その後の大坂本願寺は隆盛を極めるが、やがて織田信長の介入を招き、「石山合戦」の結果、十一世顕如らは大坂退去を余儀なくされるに至る。なお最後に、大坂本願寺・寺内町の位置についての先行研究と私案を述べた。

 第二章では、本願寺の大坂退去を受けて、織田信長が丹羽長秀らの重臣を配して跡地を守備させた時代と、その体制が本能寺の変によって倒れ、清須会議の結果、新たに池田恒興が大坂を領した時代の、合わせて約三年の大坂城を扱う。

 第三章では、羽柴秀吉が賤ヶ岳合戦などを経て亡主信長の後継者としての地位を確立し、本願寺跡地を活用しながら修復し、城下町の整備をも行なって、長らく豊臣政権の本拠地とした時代を扱う。秀吉は、晩年に至るまで城下町の改造・整備に取り組み、それは秀頼の時代にも引き継がれたが、大坂冬の陣では大坂城の大拡張を行なって徳川氏と戦い敗れ、大坂城は灰燼に帰した。

 第四章では、大坂の陣で豊臣氏が滅びた後、新たな大坂城主に抜擢された松平忠明(徳川家康の外孫)による大坂城改造(「三ノ丸壊平と市街地開放」)の実態を追う。

 第五章では、幕府主導で行われた大坂城再築工事の実像に迫る。二代将軍秀忠は、大坂が江戸幕府の西国支配にとって枢要の地であるとの認識から、忠明を大和郡山に移し、大坂城と大坂の町を直轄化したうえで、西国・北国の諸大名に命じて三期十一年に及ぶ大々的な再築工事を起こした。その経過と石垣石用材の故郷のいくつかを紹介する。

 第六章では、完成した大坂城と大坂の町との関係性、将軍家の別邸として使われていた大坂城の守衛の構造、将軍や城代をめぐる逸話、城内で起きた事件などを紹介し、最後に幕末の大坂城をめぐる話題を取り上げる。

 第七章では、明治時代から現在までの歩みを概観する。大阪は、明治政府のもとで軍都としてスタートし、大坂城にも多くの軍事施設が立ち並んでいた。その一方、大正末年頃から大阪城公園の開設と天守閣復興の機運が高まり、多くの市民の支持を得て昭和六年(一九三一)に実現した。その後、戦争による甚大な被害を受けながらも、戦後には市民の憩いの場として、また国内外から多数の観光客を迎える場としてにぎわっている。

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