ちくま学芸文庫

甦るユーラシア文化融合の精神史

『ミトラの密儀』解説

10月刊行のちくま学芸文庫『ミトラの密儀』より、前田耕作氏による文庫版解説を公開いたします。

 ひとつの世紀の変わり目に、それまでの人間の思考を根源から揺さぶる書物が世に問われた。ジークムント・フロイトの『夢判断』(1899年)とジェイムズ・フレイザーの『金枝篇』(1890年)と本書フランツ・キュモンの『ミトラの密儀』(1899年)である。これらの人びとは自分たちのこれから生きる世界が亀裂にとんだ多孔的なものであることをともに深く認識し、既存の学識にあらがい、あらたな知の領域を切り開こうとした人びとであった。無意識と未開社会と異教、ヨーロッパ近代が封じてきた秘域へ立ち入ることなしに文化の根源に立ち至ることができないことを告知し、生涯をかけて論述しつづけた人びとであった。キリスト教が一元的に支配する文化に「穴をあけ、掘り崩し」、「地下的なもの」、すなわち異神的なものであるディオニュソス的なもの、異教的なものであるイシスの崇拝、母なるキュベレの崇拝、そして秘儀的なミスラの崇拝を対置し続けたニーチェもまたその一人であった。ニーチェにとってツアラトゥストラ(ゾロアスター)はこれら異なるものの総和であった。フランツ・キュモンは世紀末のこの故郷消滅的な響鳴のなかで青春を送ったのである(「キュモン・メモラビリア」『ディアナの森』せりか書房・1998年所収)。
 フランツ・キュモンは1868年1月3日、フランドル地方東部のアロストに生まれた。家はリベラルな伝統を生きる富裕な一族であった。1878年にブリュッセルのアテネ(中学校)に入り、ついで1887年、ヘント(ガン)大学に学んだ。まだ20歳そこそこであったにもかかわらず最初の論考『アボノティコスのアレクサンドロス 2世紀異教史の一挿話』を提出し博士号を取得する。アボノティコスのアレクサンドロスとは、黒海沿岸のアボノティコスという町で医神アスクレピオスの化身である蛇を使って怪しげな治療法と神託で大儲けをする男、ルキアヌスの伝える「嘘と策略と偽誓と悪事が入り混じった多彩な精神の持ち主」で「悪辣さで名を馳せる」あの「偽預言者」のことである。「宗教信仰の強烈な敵対者たる」エピクロス派やキリスト教徒も登場してローマ帝政下の混沌とした多神の雰囲気が伝えられている。
 キュモンは異教研究のためヨーロッパの諸大学に遊学をおこなうが、最初に門をたたいたのはボン大学のヘルマン・ウーゼナーの教室であった。ウーゼナーは当時古典文献学の強力な学派を形成していたフリードリッヒ・リッチュル門下の俊英で、リッチュルのもとには「双生の神」と呼ばれていたフリードリッヒ・ニーチェとエルヴィン・ローデもいた。キュモンがウーゼナーの教室に赴いたのは、そこでエピクロスが論じられていたからであろう。かの偽預言者の強敵であったエピクロス派に深い関心をよせていたキュモンがウーゼナーの門を叩いたのは自然であった。ウーゼナーが『エピクロス』を公刊したのは1887年であるから、まさに同じ時代に同じ問題意識を抱いていた師であった。当時ニーチェはすでに『悲劇の誕生』(1872年)を書き、激しい論難の嵐にさらされ薄明のなかをさまよっていたが、ローデは『プシュケ(魂)』(1890―94年)の、ウーゼナーは『神名論』(1890年)の構想を懐胎しはじめていた豊穣の時期でもあった。
 1年後、キュモンはボンを去りベルリン大学を訪れる。テオドル・モムゼンのローマ史の講義を聴くためであった。ここにはニーチェの論敵ヴィラモーヴィッツ・メーレンドルフも講壇に立っており、キュモンはドイツ文献学の実証的な方法を深く学んだと思われる。しかしいっぽうでニーチェやローデから同時代的な風をはらんだ新たな問題の方向も学び取ったにちがいない。
 1888年、キュモンはなお遊学の途次にあったが、『考古学雑誌』の第11巻に「ラテン語碑文にみえる永遠なる神々」を、ついで第一二巻にミスラの祭儀に関する最初の小論「エデッサのミスラ祭儀」を発表し、その傍注でミスラ崇拝についての総括的研究の必要性に言及する。キュモンの生涯にわたる異教研究の第一歩が踏み出されたのである。翌1889年には「ユリアヌスの書簡の信憑性について」を発表し、ベルリンを離れ、ウィーン、アテネ、パリ、ローマをめぐる旅にでた。この遊学の資金は同じ年に書かれた懸賞論文「ミスラ教の流布について」で得たものである。ローマでは海港オスティアの古跡も歩いたのであろう、「オスティアのミスラ神殿覚え書き」(1891年)をしたため母校に送っている。パリから戻ったキュモンは1892年、24歳の若さでヘント(ガン)大学の特任教授となり、1896年には正教授に昇格した。職を得たこの年と翌年にかけてキュモンは『考古学雑誌』に「ミスラ崇拝に関する図像史料の簡潔なカタログ」という論文を寄せている。密儀であったればこそ秘匿されたミスラ教の確たる存在の証しを図像の収集によって裏付けようというのである。文献を博捜し実地を訊ねる生涯にわたるフィールドワークが始まったのである。
 キュモンは正教授になった1896年に記念碑的な書物を刊行する。『ミスラの密儀に関する文献資料と図像史料』第2巻である。3年後の1899年に発刊される第1巻は第2巻に収集された史料批判とそこから抽出される結論から展望できるミスラ教像が論じられている。編集法は当時モムゼンの指導のもとで刊行されていた『ラテン碑文集成』に範をとったものとされているが、図像の集成は斬新であった。この浩瀚な書の成立と内容については、近年『思想』(岩波書店・2014年第2号)に発表された井上文則氏の「フランツ・キュモンのミトラス教研究」で詳述されている。
 スウェーデンの神話学者スティグ・ヴィカンデルはこの大著を「宗教史の領域の仕事で これほど確固とした成功をおさめ、個別研究の領域でこれほど決定的な刻印をしるした書 は他にあるまい。爾来、ミスラの密儀にかかわる研究で重要な仕事はなにひとつないとい ってよい。たとえ新たな発見があったにしても、かならずキュモンの示した体系にしたが って分類され、解釈されることとなった」と評し(「ミスラの密儀にかかわる諸研究」)、またイラン宗教史家のデュシェンヌ・ギユマンは「この大冊は半世紀以上にわたってミスラ教研究の亀鑑となった」と記している。キュモンがみずから「ミスラ崇拝の総括的研究」と位置づけたこの大著『ミスラの密儀に関する文献資料と図像史料』が20世紀の宗教研究にいかに大きな影響を与え続けた著作であったかがうかがい知れよう。
 この書の末尾に記された「結論」を再録したいわば縮約版ともいうべきものが本書『ミ トラの密儀』である。縮約といっても簡略化ではなく凝縮したものといってよい。古代ア ジアを支配した「マズダー教の一宗派がいかにしてローマの帝政期に帝国の支配的な宗教 になるに失敗したのかを詳細にわたって突きとめ解明する」というヨーロッパ文化の基礎 を問い返す根源的な問題意識に貫かれた書であった。そこにはおそらくエルンスト・ルナ ンの「もしキリスト教がなんらかの致命的疾患によってその成長を止めていたとすれば、世界はミスラ教に屈していたにちがいない」(『マルクス・アウレリウスの古典世界の終焉』・1885年)という問題意識への返答という内意も込められていたにちがいない。キュモンが本書に寄せた序文の日付は1899年12月1日と記されている。そこにみえる「本書はある決定的な変換の一つのエピソードにのみ目をむけている」という結語は新たに始まろうとする激動の世紀の核心を予言するような響きさえ感じさせる。
 本書の邦訳が小川英雄によって果たされ平凡社から出版されたのは1993年のことであり、原書の公刊からほぼ1世紀後のことであるが、これとて小川英雄のミスラ研究の重要性を見抜いた炯眼と半世紀ちかい研究の成果(『ミトラス教研究』リトン社・1993年)、それにその出版の意義を深く理解した編集者二宮隆洋がいなければ不可能であったにちがいない。小川英雄がキュモンの弟子であり、学んだ師でもあるマールテン・フェルスマースレンの著作『ミトラス教』(山本書店・1973年)を出版してからしても20年の歳月をへていた。つづいてキュモンがみずから「エルヴィン・ローデの『プシュケ』に対応するような著作、来世についてのローマ人の信仰と思索の全進化過程が扱われている著作」と評した『古代ローマの来生観』(平凡社)が1996年に翻訳出版された。小川英雄のミスラ神をめぐる研究と翻訳出版は、わが国における宗教研究にとって計り知れない貢献であり、ヘレニズム研究にとってもまた新たな礎石を据えるものであった。
 ヨーロッパでは近年、フランツ・キュモンの再評価が始まっており、これまで入手困難であった著作のほとんどが復刻再版されているだけではなく、キュモンが繰り返し駆使した用語〈シンクレティスム〉という概念をめぐる論議と掘り下げも始まっている。
 キュモンの不朽の名作といわれる著作は他にも、『ローマ異教時代のオリエントの諸宗教』(1907年)、『ギリシア人とローマ人の占星術と宗教』(1912年)、『ローマ人の葬礼シンボリズムに関する研究』(1942年)などがある。遺作は霊魂の不滅をめぐる所論の集成である『不滅の光』(1947年)であった。
 先に〈ちくま学芸文庫〉に収められた『隊商都市』の著者ミハイル・ロストフツェフとフランツ・キュモンとは20世紀を代表する博識の古代史研究家であると同時に、学問とフィールドで紡ぎあい、固く結ばれ、戦争の世紀をともに生きた友であったことも想い起こしつつ本書を手にしていただければと願っている。
 また神名はミトラ、ミトラス、ミスラス、ミスラとさまざまに読まれていていまだ定着をみないが、訳者によれば「仏・伊語系統の研究者はミトラと呼び、英・独系統の著者はミトラスとすることが多いが、本書では前者を採って」ミトラとしたという。私見だが、インド=ヨーロッパの古神ミトラという神名はインドにそのまま伝わり、この同根のミトラがイランではミスラとして受け入れられ、さらに西方に伝えられたと理解すればわかりやすい。ローマ宗教学者のロベール・テュルカンも『ミスラとミスラス教』(クセジュ文庫)のなかで同じ指摘をしているが、本書では先に出版されたときの訳語のままとした。
 最後に私事ながら、私が「キュモン・メモラビリア」を『象徴図像研究』(第8巻)に書いたのは1994年の3月で、小川英雄訳の本書を手にしてまもなくであったと記憶している。また拙著『宗祖ゾロアスター』(ちくま学芸文庫所収)を上梓したのは『古代ローマの来生観』が出版された半年後のことで不思議な縁を感じていた。ついに小川英雄教授にじかに接する機会を失ってしまったことは残念であったが、本書を読み返し改めてフランツ・ヴァレリー・マリ・キュモンの複数文化が遭遇・交差する壮大な歴史を宗教史の視座から読み解く強靱な知性に圧倒されるとともに、その力感溢れる記述を正確に読み解き、わかりやすい日本語に移し替える苦心の訳業に感動を新たにした。
 宗教研究最高の名著『ミトラの密儀』の〈ちくま学芸文庫〉への再録を決せられた英邁な編集者渡辺英明氏とこの出版をこころよく許可下さった小川よしゑ夫人に深くお礼申し上げる。