漫画家入門

第5回 たけし軍団とカタンと金口一枠

2018年7月15日~7月23日

アシスタントのゆかちゃんのTシャツが最高です。

7月15日(日)

 彼女が昨夜から泊まりに来ている。僕はいつものように仕事部屋のソファーで寝ていたが、彼女が3階の寝室から降りてくる足音で目が覚めた。iPhoneの時計を見ると午後3時過ぎ。このまま二度寝するにも、出かけるにも、実に半端な時間、と思いながらまどろんでいたが、彼女はいかにも手持ち無沙汰といった具合で、部屋に置いてある電子ピアノやギターを弾いたりやめたりしている。僕の仕事場は遊び道具が散乱しているが、そのほとんどがパソコンやゲーム機、楽器等の機械ばかりなので、機械音痴の彼女が触れられるものは少ない。ブラインドから差し込む陽は明らかに炎天下の様相で、外に出るには相当な動機づけが必要だと思い、寝起きの頭を凝らしていた。
 首都高を走ってみよう、という話になった。目的地はお台場だ。東京住まいのくせに東京に詳しくない自分にとって、ちょっと遠出と考えたときにまず頭に浮かぶのがお台場だ。あまりセンスを感じない選択だが、お台場周辺は自分のように目的を見失ったような顔をした観光客がいつもそぞろに歩いているので安心する。特に平日は観光地とは思えないほど人気がないので、「文明が失われた未来都市」感が味わえる良い場所だ。
 三軒茶屋から首都高に入る。たまたまスムーズに本線へ合流し、気がついたら湾岸線に乗っていた。お台場に着くと、どこかでイベントでもあるのか、いつになく渋滞していいて、チクタクバンバンのように周辺の道路をしばし彷徨った。しかし適当に入った駐車場でたまたまいい感じに車を停められた。免許を取って1カ月ほど経つが、いまだに「運が良かったからぶつからなかった」という感覚が拭えない。
 駐車場を出るともう日が暮れかけていた。とりあえず彼女と海岸のほうへ向かったが、夏休み直前の日曜ということもあってか、やはり何かしらのイベントが開催中のようで、右も左も人で溢れかえっている。砂浜には無数の行灯のようなものが並べてあった。対岸に見える都心のビル群が暮れた陽の逆光で影になり、とても「インスタ映え」然としている。さらに輪をかけるように彼女が「デートみたいだね」と言うので、僕はお膳立てされたその場にいてもたってもいられなくなり、近場のショッピングモールへ逃げ込んだ。
 モール内に並ぶ店は日本全国どこにでもある有名ブランドやチェーン店。外とは打って変わって人もまばらだ。こういう無機質で無感動なものを期待していたのだ。やはりお台場は平日昼間に限る。
 帰り道は彼女が運転をした。彼女は運転中にナビを見る余裕がないようで、基本的には僕がずっとナビで道順を指示することになる。しかしどこかで曲がる場所を見落としていたらしく、いつの間にか訳のわからない工場地帯を走っていた。急遽ルートを修正したナビが橋の真ん中でUターンしろなどと大胆な提案をするので、いい歳をした大人がああでもないこうでもないと大騒ぎである。お互い運転経験が少なすぎるせいか道ひとつ曲がるにも大事で、一方が走り方を指摘しようにも不信感と苛立ちが相まって、結果空気が悪くなる。
 結局無事に家には帰れたが、やはりどうしても「たまたま」感が拭えない。いつになったら自力と思える日が来るのだろうか。お互い漫画家という職業柄、運に左右されてきた部分も多分にあるので、「今までの自分は、たまたま運が良かっただけ」というこの感覚は今後も変わらないのかもしれない。少なくとも僕はそうだ。いま自分がここでこうしているのは、すべてただの偶然。

7月16日(月)

 夕方にゆかちゃんが来た。ゆかちゃんは来るなり「浅野さん、すごく言いづらいお話なんですけど…」と神妙な顔で言うので、僕は動悸とともに変な汗が出た。平静を装いながら「連載決まったの?」と恐る恐る僕は聞いた。
 漫画家のアシスタントというものは、いわゆる「プロアシ」を除けば大抵が連載を目指す新人漫画家だ。もちろん連載を持つのは簡単ではないので、打ち合わせだけで足掛け何年、ということもザラではあるが、自身の連載が決まれば自ずとアシスタントは辞めてゆく。そしてそれを漫画家は止めることはできない。漫画家とアシスタントの関係は総じてそういうものだ。そういった場合、新たにスタッフを探して技術を教えることもできるにはできるが、特にゆかちゃんのような気の合う相手を失ってしまうのは仕事以外にもかなりの喪失感があるはずだ。
 ゆかちゃんは何度か誌面に作品が載っている。何度か読んだが僕は才能があると思った。しかしやや癖が強い。そして本人は頑固だ。となると読者も選ぶだろうし、担当編集者の好みによっては、ゆかちゃんの作風に合わない修正を強いられることもある。それが故に煮詰まってしまうのは勿体無いと思い至った僕は、その作風が理解できるはずの漫画編集者でもある僕の前妻に、ゆかちゃんを紹介したのだ。それからトントン拍子にことは運び、1年も経たないうちに編集長からのネームのOKが出た。連載開始時期は未定のようだが、いまはネームの最終調整の段階らしい。遅かれ早かれ、僕の仕事場からゆかちゃんは去っていくのだろう。好意のつもりが結果的に自分の首を絞めることになってしまった。すこぶる後悔している。

 僕は目を泳がせながら「連載決まったの?」と聞くと、ゆかちゃんは一瞬「は?」という顔をして、すぐに何かを了解したような微妙な表情になったのち、申し訳なさそうに「財布忘れたんで2000円貸してください」と言った。僕は安堵し、お安い御用と言わんばかりにノリノリで2000円を貸した。しかしこのやり取りによってゆかちゃんに「ああ、この人は私が辞めることを寂しがっている心の弱い人なのだ」と悟られてしまったに違いない。
 8月に始まる連載に向けて作画作業が続いている。今日もひたすら絵ばかり描いていた。作画は頭を使わないので気は楽なのだが、日付が変わるころになるといい加減飽きてくる。ゆかちゃんを誘い、いつものラーメン屋に向かう。
 中に入ると店の60代くらいの女性が頬杖をついて気だるそうにテレビを見ていた。僕と3秒ほど見つめ合って、ようやくこちらを客と認識したようで、面倒そうに立ち上がった。見渡すと今日は客が自分たちのほか一人もいない。ゆかちゃんはタコの唐揚げ、僕は変な匂いのするラーメンを頼んだ。
 僕はラーメンにニンニクを入れるとき、絞らずに欠片のまま入れる。なぜかというと、ニンニクを絞るためのあの万力のような器具を客が使うたびに店員が洗うという手間が自分の中でどうしても不合理で、特に食にこだわりのない自分ごときが使ってはならないような気がしてならないからなのだが、これまでこの説明をして納得してくれた人は誰もいない。しかしこの食べ方が癖になってしまっているので、スープに浮かんだニンニクの欠片を口に運び、ガリガリと食べる。口の中を激痛が走る。「痛い痛い」と言いながらラーメンを食べる僕を、ゆかちゃんはつまらなそうな顔で見ている。
 初めは二人でお互いの友達の少なさを嘆いていたのだが、しばらくして深夜のためか興が乗ってゆかちゃんの彼氏話になった。ゆかちゃんが付き合いたてのころにその彼氏とは一度会う機会があったが、それ以来とんとご無沙汰だ。「よく泣く」というその彼氏は、話を聞いている分には少し面倒そうな男の子だが、他人事なので聞くだけなら楽しい。それにゆかちゃんとの相性はいいように思える。
 話の流れでお互いの性生活の話になった。僕は人に話すほど特別な嗜好がないのですぐに話が終わってしまったのだが、ゆかちゃんはセックスにレイプ感を求めているなどと言いだした。十代のころはレイプされるために、そういった事件の多い公園を夜な夜な徘徊していたそうだ。実際に襲われることはなかったようだが、そこで知り合った男と付き合ったこともあるらしい。危なっかしい話だが、ゆかちゃんはそういう女の子だ。よく見ると胸元に「TAKESHI ARMY」とロゴがプリントされたTシャツを着ている。たけし軍団のTシャツらしい。どこで見つけてきたんだろう。
 ゆかちゃんが子供のころ、父親から暴力を受けていたという話は以前から聞いていたが、そういう経験をしている場合は暴力を徹底して拒絶しそうなものだ。しかしゆかちゃんは少し違う。「男は強い」という幼少期に植え付けられた価値観が大前提にあり、たとえ恋人とのセックスであっても、それはあくまで「男の暴力」であると男に自認させることで、幼少期の価値観と父親を否定させないという考えが働いているらしい。倒錯している気もするが、一応筋が通っている気もする。それでいながら、優越感を感じられるためか男に甘えられることも好きなようで、結果面倒見のいい性格なのだ。日頃「もててぇ」が口癖のゆかちゃんだが、僕の知るかぎり男が途切れたことはあまりない。ゆかちゃんの性格が彼氏のメンヘラを加速させているような気もするが。
 ゆかちゃんが理路整然と説明してくれたので、一応理解はできた。共感できるかはさておき。午前3時を回り、店の女性が早く帰ってほしそうな顔をしているので、おとなしく店を出た。
 仕事場に戻ると時間は明け方に差し掛かっていた。となるともう仕事をする気にもなれない。話もあらかた1日分してしまった。もうネタ切れといった感じで仕方なく二人でぼんやりタバコを吸っていると、唐突にゆかちゃんが「私がこの職場を辞めても友達でいてくださいね」と言ってきた。あまりに急だったので動揺して「俺はずっとここにいるよ」といまいち噛み合わない返事をしてしまった。自分は知らなかったが、僕とゆかちゃんは友達だったらしい。それは良かった。

 

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