漫画家入門

第6回 隕石とたまごっちと同胞

2018年7月25日~8月3日

「同胞」というのは、とてもよい言葉だと思いました。

7月29日(日)

 彼女が風邪をひいてげほげほと咳をしている。うつるときはうつるくらいに考えているので僕はあまりに気にしないのだが、マスクをつけているせいでもともと通らない彼女の声が、輪をかけて聞き取りづらい。
 いま机の上に、たまごっちが置いてある。9月ごろに描く予定の読み切りの参考資料に買ったものだ。20年前に発売された初代たまごっちの復刻版で、当時のままの仕様らしい。そのころの僕は高校生で、コギャルブーム真っ只中だった。ポケベルが現役で、エアマックスを履いていると不良に狩られる。そういう時代だ。
 当時たまごっちは本当に品薄で、特に白いカラーのものは何万円ものプレミア価格に高騰していた。僕もどうにかして手に入れようと、当時不法な露店なども多かった渋谷に足を運び探したが、ついぞ手に入れることはできず、おまけに不良に絡まれて偽造テレカと引き換えに3万円を奪い取られた。そんなレアなたまごっちを鞄にぶらさげている同級生もいるにはいたが、大抵はイケイケのコギャルたちだった。どういう経路で彼女たちがそれを手に入れたのか不思議で、今となっては邪推しか働かないが、とにかく僕が実物を触るのは今日が初めてだ。
 電池カバーに挟まっている絶縁体を引き抜くと、モノクロの液晶に黒い卵が表示された。しばらくして卵が孵化し、丸い生き物が現れた。ピーピーと電子音を鳴らしてはこちらに何かをねだってくる。ご飯を与え、数字当てゲームで機嫌をとるも、数分も経たないうちに再び電子音が鳴る。こうも頻繁に騒がれては何も手がつかない。他にもトイレを片付けるメニューや、わがままを叱るコマンドもあるが、殺すという選択肢はないらしい。一応は最終段階に成長するまで世話をするつもりだが、さっさと大きくなってほしい。何かを育てるというのは自分には不向きなようだ。

 しかしようやく7月も終わりだ。特に理由に心当たりはないが、体感的には2カ月間くらいの長さに感じる。そのことを彼女に伝えると、彼女も同感だと言う。ならば理由が欲しい。自分だけならまだしも、二人が同じように感じているなら、なにかしらの理由があるはずだ。
「タイムリープによって自分たちは二度目の7月を過ごしているんじゃないか」と僕が言うと、彼女は「へー」と言ってきた。彼女はリアリストだが、思いのほかこういう話に乗っかってきてくれる。「これから起こる人類の危機を打開すべく、時を操る何者かによって時間が戻され、世界の歴史全体が修正された」という、お約束の流れも補足で付け足しておいた。「これからなにが起こるはずだったの?」と彼女に質問されたが、市井の民である我々はそれを知る由もない。人知れずすごい人がすごいことをしたのだ。さらにパラレルワールドや多層宇宙について解説したが、にわか知識なので内容がガバガバだ。しかし彼女も話題に乗っかり、二人でああでもないこうでもないと言っていると、垂れ流しにしていたゲーム実況の生放送動画から、「今月もあっという間だった」という会話が聞こえてきて、この話はお開きになった。
 彼女が体調を崩している手前、外出するわけでもなくだらだらと過ごしていたのだが、たまごっちが音を鳴らすたびに彼女はぽちぽちとボタンを押し、なにやら操作をしてくれている。液晶を覗くと、さっきまでは単純な丸だったその生き物は、くちばしを生やした生物に成長していた。ステータスを確認すると、満腹度と機嫌はそこそこだが、しつけのゲージだけは最大になっていた。僕は一度も叱るコマンドを選んだことはなかったのだが、彼女の躊躇のなさに少し震えた。

7月31日(火)

 昨日から咳が出る。まんまと彼女の風邪がうつったようだ。近々の締め切りは特にないとはいえ、あいにく今日は昼過ぎから取材がある。約束の時間を指定されると遅刻の不安から寝れなくなってしまうのはいつものことだが、今日はあろうことか出かける直前にうとうととしてきた。昨日から手伝いに来てくれているゆかちゃんに30分後起こしてもらうように頼み、少しだけ横になった。
 待ち合わせは近場の駅前の改札だった。挨拶を済ませ、「今日は少し風があって涼しいですね」などと話をするも、気温を確認すると35度だった。気を抜けば死である。慣れって怖い。よく使う喫茶店に向かう。今日は取材といっても僕の漫画の話ではなく、『Detroit』というゲームの感想についての取材だった。普段、映画や小説の帯コメントを求められることもあるが、感想下手の自分は極力控えるようにしている。どうしても単調な誉め殺しになってしまうからだ。しかしゲームなら話は別である。なにより『Detroit』は本当に面白かった。したがってファン丸出しの感想しか言えなかったが小一時間ほどで滞りなく取材は終了した。
 帰りしな、昨夜から頭の中に準備していたことが一つも言えてなかったことに気づいた。浅ましい言い方をすれば「ちょっと賢い人風の感想」だ。悔しさにもんどりを打ちそうになったが必死に耐えた。今まで何度も取材を受けてきたが、インタビューというのは往々にしてそういうものだ。一度言ってしまったことは事実。インタビュー原稿は可能な限り修正しない方針なのでもう受け入れるしかない。
 家に戻るころには眠気がどこかに行ってしまったので、仕方なく仕事を再開した。ゆかちゃんはヘッドホンをつけて作業をしている。何かの動画を流していのかは知らないが、時折「フヒッフヒッ」と気持ちの悪い笑い声を漏らしている。相変わらず部屋があまり冷えずに生暖かい、少しフラフラしているような気もするがそれが熱のせいなのか、ただ部屋の熱気のせいなのか判然としない。
 午後10時ごろ、今日は別の職場で働いているはずの富田くんから電話がかかってきて、藪から棒に「今から行っていいですか」と言う。件のボードゲーム好きの女の子を連れてこれから遊びに来るつもりらしい。残念だが今日の僕は体調が奮わないし、ゆかちゃんも昼前までゼルダで遊んでいたからヘトヘトだ。「今日は無理だよ」と伝えると、富田くんは「そうですかー」と言ったあと、少し間を開けて「僕フラれたんですよ」と続けた。フラれてもなおその女の子と遊ぶ彼も大したものだが、なおさらそんな微妙な空気のなかボードゲームで遊ぶ余裕は僕にはない。「後で詳しく話聞かせて」と言って電話を切った。
 大急ぎでゆかちゃんに「富田くんフラれたって!」と伝えると、なぜか「やっぱりね!」としたり顔だ。なんでわかったのと聞いてみると、富田くんが今日ツイートしていた「洋楽を聴いていればなにも考えなくて済むから英語できなくてよかったと思う。」という文章から、失恋を察していたらしい。さすがだ。そしてなかなか味わいのあるツイートだったので、初めて冨田くんに感心した。 

8月2日(木)

 夕飯を食べるために彼女のマンションに夜8時ごろに向かった。部屋に入ると彼女の息子がWiiUで遊んでいる。僕が去年あげたものだ。中身は以前に僕がダウンロードしたレトロゲームばかりのはずなので、何のゲームで遊んでいるのか訝って画面を覗いてみると、やはりファミコンの「ロックマン4」が映っている。「なかなか難しい」と彼女の息子は言う。それはそうだ。僕も子供のころはまるでクリアできなかったのだが、つい数年前、急に思い立って攻略サイトで研究し、ようやくクリアできるようになったのだ。
 ロックマンは冒頭、八つのステージから一つを任意で選び攻略していくことになるのだが、ゲームパッドを託された僕は迷わず「トードマン」というボスのいるステージを選んだ。「トードマン」は弱そうな見た目をしているが、実際弱い。コツを掴めばノーダメージではめ殺しにできる。僕が手本を見せると「うまいね」と彼女の息子に褒められた。初めて褒められたような気がする。
「それくらいにしときや」と彼女が言うので、慌ててWiiUの電源を切った。食器を取りに向かった彼女の息子が突然、「〇〇ちゃん(僕の本名)、お箸でいい?」と聞いてきたので、今まで一度も名前を呼ばれたことはなかった僕は急に距離を詰められ虚を衝かれてしまった。焦った僕は取り急ぎ「いいよ」と答えてしまったが、実際出てきた料理は麻婆豆腐丼で、二人は当たり前のようにスプーンで食べる。僕の手には箸である。持ってきてもらった手前、強引に箸で食べたが、箸で食べる麻婆豆腐は非常に食べづらかった。
 仕事場に戻るとうなぎがいつものように半目で寝ている。机に向かい、パソコンをスリープから復帰させたとき、ふとたまごっちのことを思い出した。テーブルに転がっていた卵型のそれを手に取り、モノクロの液晶を覗くと、たまごっちはすでに死んでいた。なんとなくそれが示唆に富んでいるような気がしたので、僕は見て見ぬ振りをしてそっとテーブルに戻し、仕事を再開させた。
 
8月3日(金)

 S君が遊びに来た。S君は僕の仕事場の元スタッフで、現在は少年誌の連載作家だ。以前連載していた『おやすみプンプン』という漫画の最初期から約9年の間、メインスタッフとして働いてもらっていた。当時、僕の原稿は今よりも少人数のスタッフで完成させていて、S君と狭い部屋で二人きり、黙々と作画をする日も多かった。彼の描く濃密な背景に僕の絵柄は大いに影響を受け、現在の画風はS君の功績によるものが大きい。2年ほど前に自身の連載が決まり辞めていったが、それ以降S君は月初めの金曜に「時間に余裕があれば遊びに来る」という約束をしていた。しかし彼は週刊作家で明らかに僕よりも多忙だ。今日はおよそ半年ぶりにやってきたが、僕は嬉しかった。二人でおきまりの席に腰を下ろし、世間話をする。趣味のこと、世間のこと。仕事のこと。
 僕の仕事場では慣例として、まず正午にスタッフがやってきて、それからしっかりと2時間近く世間話をし、それから仕事に取り掛かる。作業が始まってしまえばそれ以降は基本無言なのだが、その2時間の世間話というものも蓄積すれば相当な時間になる。おそらくS君とはこれまでに1000時間以上話し込んだはずだ。僕にとってS君は、20代中盤から30代中盤にかけて最大の話し相手であって、それはおそらくS君にとっても同様だろう。育った環境は違えど、僕は彼と同年齢なので見てきた景色は似ている。そして思いの外もともとの趣味も似通っている。テンションも低い。長い時間をかけてすり合わせたお互いの価値観は、まったく同じとは言わないが共有している部分は多分にある。漫画に対する思いも同様に。
 S君は週刊連載作家だ。しかもスタッフを雇わずに一人で描いている。なまじ過去の僕の仕事場での制作スタイルを踏襲しているせいもあるのかもしれないが、いずれにせよ作家一人にかかる負担は相当なものである。事実彼は仕事場からほとんど外出する時間も気力もなく、会話相手は担当編集のみ。せめてもの息抜きにと、どうにか都合がついたときには、僕の家へやってくる。
 しばらく話し込んだのち、Sくんが「漫画なぁ……」と呟いた。これまで何百回も聞いている、S君お決まりの口癖だ。漫画や漫画業界を取り囲むあれやこれを総括した際の、諦観を含んだため息のようなその言葉を聞くとき、大抵は僕も同意している。漫画の面白さも、ひるがえってつまらなさも、よくわかる。真剣に向き合えば向き合うほど、どうにもならないことはいくらでもあるのだ。「漫画なぁ……」のあとに続くであろう「……でもやらなきゃいけないんだよな」という類の言葉は、お互いあえて口に出すことはなく、それ以上多くは語るまいとしばし無言になる。長年培った阿吽の呼吸を感じて、少し懐かしくなった。
 午後3時ごろ、ゆかちゃんがやってきた。ゆかちゃんはS君に懐いているので、二人の近況報告を黙って聞いていたが、いくらか日が傾いてきたころに、「そろそろ帰ります」とS君は帰り支度を始めた。お互いに年齢は同じだが、S君は僕に敬語だ。それは初めて会ったときからの、「あくまで仕事上の関係である」という暗黙の了解が続いているからなのだが、いわゆる師弟関係ではない。友人でもない。強いて言うならば同胞とでも言えばいいのだろうか。不思議な関係だ。いつもなら僕は客人が帰る際、玄関まで見送るが、S君の場合はしない。「おつかれさまです」といってS君は階段を降りていく。僕とゆかちゃんはいつもの定位置でタバコをふかしている。
 S君が帰る姿を見るたびに、次会うのは何カ月先になるんだろう、と僕は思う。もしかしたら今日が最後かもしれない、そう思うこともある。帰り際のS君の背中を見ると、いつも握手を求めたくなってしまうのだが、今日もできなかった。
 

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