遠い地平、低い視点

【第51回】闘病記、またしても

PR誌「ちくま」10月号より橋本治さんの連載を掲載します。9月号が休載となった理由について、現在進行形の「闘病記」です。

 先月は失礼をいたしました。先々月の原稿を書くとそのまま、私は手術のために入院してしまいました。八年前、別のPR誌で連載をしていた時に『闘病記』というタイトルの文章を書いて、「まさか自分がそんなタイトルの文章を書くとは思わなかった」と思いましたが、八年後にまたしてもです。
 前回のは顕微鏡的多発血管炎という、毛細血管が炎症を起こすというめんどくさい免疫系の病気で、全治はないので「人混みの中に出る時はいつでもマスクを忘れずに」ということになります。医者がそう言った通りのことを書いているだけで、どうして免疫と毛細血管がリンクして「マスクを忘れずに」になるのか、私には分かりません。
 前回のは投薬治療による内科的な病気ですが、今度のは癌です。正式には「上顎洞癌」というやつで、「どうしてあんたの病気は聞いたことのない病気ばっかりなの?」と人にも言われ、自分でも思いますがつまりは癌です。頭蓋骨の眼の大きく穴の開いた空洞の下の部分―鼻の横のへっ込んだ部分が上顎洞で、ここに出来た癌です。牛で言う「牛頬肉ワイン煮込み」とか「ビール煮込み」の料理に使われる部分が癌です。もうこの先、そのテの料理は食べないでしょう。
 癌の度合いはステージⅣですが、臓器系の癌とはちょっと違う場所なので、検査の結果、転移はありません。だから「さっさと手術を」ということになって、先々月の原稿を書くとすぐに入院してしまいました。例の毛細血管が炎症を起こす病気のおかげで、私に抗癌剤は使えません。なにしろ腎臓は毛細血管の塊で、私のそれは機能低下で軽度の腎不全状態ですから、そこに抗癌剤なんかを使って負担をかけると、すぐに人工透析になってしまいます。抗癌剤は使えずに、手術で摘出するしかありません。まず、左の髪の生え際から横に一直線、眼の下を切って、そこから鼻に沿って切り下げます。その直角部分をベロンと開いて中の肉を取り出します。
 図に描いて医者の先生は「頬の四分の一がなくなります」と言いましたが、これはもちろん「頬の肉の四分の一」です。
 鼻の横の頬っぺたの肉がなくなると、そこがガボッとへこんで、そこで支えられている目玉の位置も下がってしまいますから、その後でお腹の肉を切って顔に移植をする。生きている肉じゃないと意味がないので、血管が付いたままの肉を移植して顔の血管とつなぎ合わせます。その手術は「全部で十時間かかる」と言われました。医者に「癌です」と言われてから、「十時間かかる」までの間、私はただ「あ、そうですか」しか言っていなかったのですが、ここへ来て遂に別のこと―「頬に傷は残りますか?」と聞きました。先生はきっぱりと「残ります」と言って、私は「たいした顔じゃないからいいか」と他人事のようなことを言いましたが、そう言いながら思っていたのは、「すげェ、七十になってリアル・ブラック・ジャックだ!」ということです。「顔に大きな傷作って仕事して、少し人に脅しをかけてやるか」と思ったのですが、リアル・ブラック・ジャックにはなりませんでした。
「顔の四分の一がなくなる」とは逆で、術後(実際は切除班と移植班交代で約十六時間ほどです)顔の手術した部分は腫れ上がって、左右の幅が一・五対一くらいの比率になりました。片目は半分つぶれかかって、ひしゃげた鼻の穴から血の糸が垂れて、手術後五日くらいして自分の顔を鏡で見た時、「十九世紀ドイツ自然主義文学に出て来る獣人熊男はこんなかな?」と思いましたが、そんなものを読んだことはありません。もしかすると「獣人熊男」ではなくて、私の顔は「裁縫の下手な小学生が〝ちょっとそこ縫っといて〟と言われてやった、巾着袋」のようだったかもしれませんが、それが一週間ほどすると「ロン・パールマンが特殊メイクをして演じた顔をボロクソに殴られたボクサー」のようになりました。
 普通、「癌です」と宣告されると「なんでこの私が?」と思うものかもしれませんが、「癌」という病名は、今や「風邪」と並んでいたってポピュラーな病名なので、そう思ってしまうと「あ、そうですか」で終わりです。「癌になるってのは、俺も普通の人間だな」と思い、その後で自分とは無関係で遠いところにいる癌に対して、「めんどくせェな、バカヤロォ!」と罵りました。手術は何時間かかろうと医者の担当で、こっちは全身麻酔で意識を失っているだけだから、どうということはありません。「闘病」とは、医者が病に対してするもので、患者はおとなしく言うことを聞いていればいいのです。「気を失う」は究極の言いなりで、だから私はその通りになっていましたが、面倒なのはその後です。十六時間かけて切り刻まれたものを前のように復旧させるのが私の仕事で、そのための入院ですから「ああ、めんどくせェ!」です。タイの洞窟に閉じ込められた少年達と同じように、「地平線は遠い」のです。次回はもっと苦難です。

PR誌「ちくま」10月号

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