それ、ほんとの話? 人生につける薬Ⅱ

第11回 人は話の「本題」「本筋」を自動的に決めている

『人はなぜ物語を求めるのか』に続く、千野帽子さんの連載第11回! 物語における本筋とか脇道って何でしょう??

そもそも、この連載の本筋って?


 ここまで欠かさず読んでこられた読者は(いったい何人いらっしゃるのか、甚だ不安ですが)、こういう疑問をお持ちかもしれません。
  「そもそも、この連載の本題、本筋って、なんなの?」

 はい、書いている僕もそれ、よく不安に思います。

 第1回からもう一度ざっと読み直すと、まず
  「どういう話がウケるか?」
 という問から始まり、

  「珍しいできごとや、けしからぬできごとが、報告価値を持つ」
と答えたはいいけれど、

 すぐに
  「そういう派手なできごとがあればいいというわけでもない(とくにフィクションでは)」
 と留保し、

 「なぜなら人はフィクションには必然性を求めるので、小説が事実と同じくらい奇であることを好まない」
と補足し、

  「フィクションに求めるような必然性を現実の人生に求めてしまったら、けっこう「おかしい人」になってしまう」
と逆方面から言ってみて、

 そして
  「人は必然性のないこと=偶然を、小説のようなフィクションでは嫌うが、実話では素直に受け取る」
 と、虚構・非虚構の差異を、物語の内容ではなく、むしろ読み手の態度に重点を置いて検討してみたのでした。

 僕はこの連載を進めながら、話題が少しずつズレてきたように思っていたのですが、このようにおさらいしてみたら、むしろなんだか同じところを螺旋状にぐるぐる掘ってきたようにも思えます。

「本筋」と「脇道」、「図」と「地」

 僕らは日常的に、発話の「本筋」と「脇道」、「幹」と「枝葉」、「図」と「地」を区別しています。だからこそ小説や映画のストーリーを要約するという(ある意味、野蛮で野暮な)作業が可能なものとなっています。

 「幹」と「枝葉」、「図」と「地」を、僕たちはどのように認識しているのでしょうか。
 この問いはもともと、大戦間にゲシュタルト心理学が人間の知覚について立てた問いでした。第二次世界大戦後にハンガリー出身の英国の物理化学者マイケル・ポランニーが、〈暗黙知〉というタームを使って、この問いの圏域を人間の知的認識全体へと拡大しました。

 小説を読みはじめて、最初のほうは読者としての自分をチューニングするのに手間がかかり、しかし40頁、50頁と読んでいくうちに、気がついてみるとすいすい読めるようになっていた、ということはありませんか?

 小説の冒頭部分を読むときにはもちろん、その作品の文章に慣れたり、作中設定や登場人物相互の関係を頭に入れたりするために、用心深くなっています。
 けれどそれだけではありません。

 ストーリー上のなんの予備知識も持たずに、小説を読み始めることがあります。
 図書館で「ジャケ借り」した日本の作家の単行本(文庫本ではなく)だと、手がかりになる帯や文庫版解説、訳者あとがきなどがないので、小説のストーリーにおいてなにが「幹」でなにが「枝葉」か、ということがつかめてくるまでに、多少時間が──というか頁数が──かかります。

 「幹」と「枝葉」の区別について、ちょっとおもしろい作例があるので、ご紹介しましょう。

アルフォンス・アレ「テンプル騎士団員たち」

 フランスの文士アルフォンス・アレの掌篇小説「テンプル騎士団員たち」(1887)は、小説(とくに短篇)のルーツのひとつが話芸・演芸にあるということを認識させる作品です。
 題名になっているテンプル騎士団は、12世紀から14世紀にかけて実在した、修道会でありながら武装集団でもあるという、なんだか戦国時代の僧兵のような存在です。中世においては、異端の秘密結社と見なされ、危険視されていました。

 アレの掌篇小説「テンプル騎士団員たち」の語り手は、かつて兵士だったらしく、思い出話の最中に鮮烈に思い出したのでしょうか、同じ隊にいたある伍長のことを話し出します。

 〈いったいなんて名前だったかな? 思い出せないが、アルザス丸出しの名前だった。ヴルツとか、シュヴァルツみたいな……。それ、きっとそれだ。シュヴァルツ。まあ名前はいいか。ヌフ=ブリザック出身、いやヌフ=ブリザックじゃないが、まあそのあたりの出身だった〉(拙訳)

 アルザス(ドイツ式に言えばエルザス)は、長いあいだ独仏両国のあいだで争奪戦が展開されていたので、地名も苗字もドイツ系が多いですね。ヌフ=ブリザックは現在のドイツとの国境そばにあって、ドイツ名はノイブライザッハ。

 語り手はこのあと、アルジェリア北西部オランの守備隊にいたころの話を始めます。
 ある日曜日、ヴルツ改めシュヴァルツと〈私〉を含む一同は貸しボートで海に出た。洋上で昼食を取っていると、気づかぬうちに風に流されていた。

 〈「なんてことだ」とシュヴァルツは言った。「かくなる上は……」
 じつは違うんだ。奴の名前はシュヴァルツじゃなかった。
 もっと長くて、シュヴァルツバッハとかそういう名前だった。以後シュヴァルツバッハってことで!〉

 引き返そうとした一同は嵐に巻きこまれ、闇夜にどこかの陸地に逢着する。

 〈ここはどこなのだろう?
 シュヴァルツバッハは、というかシュヴァルツバッヒャーだな、いま思い出した、シュヴァルツバッヒャーだ。で、このシュヴァルツバッヒャーは地理を熟知していた(アルザス人というのは物知りだ)。それで奴は私に言った。
「ロドス島に着いたぞ、おい」〉

 真っ暗闇のなか、遠くに見える光を目指して進むと、それは石造の城のゴシック式の塔から漏れる光だった。塔は礼拝堂らしく、厳粛な男声の歌が聞こえてくる。
 一同は入口を探し当て、なかに忍びこむ。探索していると大広間に出た。礼拝堂に接しているようだ。

〈「わかったぞ、どうやらここは」とシュヴァルツバッヒャーは言った、いや思い出した、シュヴァルツバッヒャーマンだ。「ここはテンプル騎士団員の根城だ」〉

 すると扉が開き、一同は光に照らされる。何百人もの武装した屈強の男たちが跪いている。彼らはいっせいに武器を取り、こちらに突進してきた。

 〈こんなところは厭だ、と思った。
 シュヴァルツバッヒャーマンはというと、すっかり落ち着き払って腕まくりをし、防御態勢を取り、大音声で名乗りを上げたではないか。
 「やあやあ! 望むところよ! テンプル騎士団の諸君が十万ありとても……我こそはデュランなり……!」
 ああ! やっと思い出した、奴の名前はデュランだ。オーベルヴィリエの仕立屋の息子だ。デュランだ、そうだよ、それだった……。
 あのデュランの奴! なんて奴だ!〉

 これで終わりです。

脇道に見えたのが本筋だった

 え?

 と思いますよね。

 途中で終わってるの?

 このあと、戦いはどうなったの?

 読者は、語り手とそのアルザス人のヴルツ改めシュヴァルツ改めシュヴァルツバッハ改めシュヴァルツバッヒャー改めシュヴァルツバッヒャーマンとが、ある日の冒険の果てにどうなったか、ということが話の「幹」「本筋」だと思っています。
 掌篇の題名が「テンプル騎士団員たち」なので、余計にそう思ってしまう(こういうのを「パラテクスト的」な事情と呼びます)。

 そのなかで、語り手が何度か、相棒だった伍長の名前を思い出そうとします。その名前は修正のたびにいかにもドイツの名前らしくどんどん長くなっていきます。この部分は常識で考えれば「脇道」ということになる……はずでした。

 しかし最後まで読んでみると、かつて隊でいっしょだったある人物の名前を思い出すことが、じつは「脇道」なんかではなく語り手がやりたい「本筋」だった、ということが判明するのです。

 あの日の冒険も、またテンプル騎士団員たちとの遭遇も、「本筋」と思えたものはすべてはその名前を思い出すために口にした、本来ならなくてもいい「脇道」だったのです。だから、続きを語らない。

 たとえば、僕らが俳優マーク・ストロングの名前を思い出せないとき、

 「えーと、ディカプリオが出てたリドリー・スコットの『ワールド・オブ・ライズ』でヨルダン総合情報部のチーフやってた……ガイ・リッチーの『シャーロック・ホームズ』でブラックウッド卿だった人……なんて名前だっけ……あと『キングスマン』のマーリン……」

 というようなことをやりますが、この掌篇小説全体で、語り手は純粋にそれだけをやっているというわけです。

 それどころか、当該人物の姓はアルザス臭のまったくないデュランなどという、フランスで人数だとトップ10に入る、フランス丸出しの平々凡々たる名前(日本だったら「中村」的な)で、出身地もパリのすぐ北のオーベルヴィリエだったというオチなのです。

 なんというか、R-1グランプリのネタのような作品です。

さて、僕らの人生の「本筋」はどれ?

 こういうのを読むと、僕らが人の話を聞きながら、あるいは小説を読みながら、ほとんどそれと自覚せずに「本筋」を精妙に取り出しているのも、「たまたま」うまくいってきただけで、いつなんどきその予測がはずれるか、知れたものではない、と感じます。

 小説や人のお話ならともかく、僕たちはどうかすると、自分の人生というかライフストーリーの「本筋」というものを、同じように勝手に決めてしまっているのではないか、と思うことがあります。
 そうすると、いまの自分がやっていることは、自分の人生における「本筋」ではない、と考えてしまうことにもなりそうです。
 しかし、自分の人生に「本筋」や「脇道」は、果たして存在するのでしょうか?
(つづく)

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