遠い地平、低い視点

【第52回】なぜこんなに癌になる?

PR誌「ちくま」11月号より橋本治さんの連載を掲載します。前回にひきつづき、現在進行形の「闘病記」です。

 入院してから三カ月になりますが、前号でも言ったように、九月末の私は「転院」ということを繰り返して、まだ病院におります。抗癌剤治療を受けているわけでもない私は、十六時間強の手術で癌をすべて摘出し、その後に「念の為」の放射線照射、後は「治るだけ」だったんですな。新たな転移が見つかったわけでもない。それなのに、なんでこんなに病院から出られないか? 私の初めの入院予定は「約一カ月」だったのに、それを二カ月以上もオーバーしている。大手術の後始末は相応に大変ですが、人はそれぞれで、治り方もそれぞれということなんでしょう。
 私が退院出来ないでいる理由は、「食べ物をみ込む力が衰えている」ということです。早い話、「唾を飲み込んでみて。はいゴックン」と言われてもそれが出来ないという。なんとも情けない。
(私は「今の自分の個人的な話が、他人のなんの役に立つんだ?」と思っていて、それで自分の近況的なことはほとんど書かないんですが、今度ばかりはお見逃しを)
 初めの内、回復はかなりのスピードで順調だったんです。手術が終わってICU(集中治療室)へ移され、その五日後に病棟へ移された日には、ヨタヨタながら、自力で立ってトイレへ歩いて行っていた。喉には穴が開いて栓でふさがれ、声は出なかったが、手術の十日後くらいには、栓はそのままでも「声の出る栓」に変わっていて、突然の入院で予定されていた仕事を放り出された編集者達の訪問を受けて、「ごめんなさいね」などと話していた。話すといっても「声が出る栓」になった手術後の私の声は、「入れ歯をはずしたジーさん」のように、フガフガと空気が抜けて、なにを言ってるのかかなり分かりにくい。
 手術以後、私は飲食禁止で、水の一滴も飲んでいない。栄養補給の流動物を直接胃に流し込むためのチューブが、鼻の穴に突っ込んである。顔には傷もあって、どう見ても病人だが、立って歩いていると「大手術やった人とも思えない。元気そうじゃないですか」と言われて一週間ほど人と会って、その辺で入院から三週間。
 私は知らなかったんですが、今の大学病院には、「三週間以上同じ治療を続けるなら、一度別の病院に転院しなければならない」という規則があるそうで、つまり「あなたの治療の第一段階は終わった。続いては第二段階の放射線照射に移るけれど、その準備が整うまで別の病院に行っていてほしい」という。分かったような分からないような話だが、要はテレビの料理番組の「中抜き」のような話で、「はい、こちらの熱の通ったものをバットに移し、粗熱を取ってから、冷蔵庫に一時間ほど入れて下さい。するとこうなりますね」というもので、転院で「冷蔵庫の中」状態の私には、なんの変化も起こらない。「どうなるんだろう?」という不安は、ここら辺から生まれる。
 十日ほどして元の病院に再転院するが、放射線照射のスケジュールを聞いたら、九月の半ばまでかかる。「そんな話聞いてないよ」と思うその内、鼻からのチューブは抜かれるが、放射線の影響で口内炎がひどくなり、物を噛む、嚥むが出来ない。鼻チューブが元に戻されて、病院内を車椅子移動するほど体力が弱り、ひどくなった痛み止めの麻薬成分に脳が反応して、記憶が一瞬飛んだ。
 放射線照射が終わっても、七月段階と変わりがない。九月の秋分の日の連休前に、またしても転院で、「俺、どうなるんだろう?」と思う。死ぬ気はないけれど。
 その初めに「癌です」と言われた時、「あ、そうですか」ですませてしまった私は、癌なる病を他人事と思っている。これは私だけではなくて、多くの人がそうだろう。癌の家系でもない人が「癌」の宣告を受けたら、まず「なんで自分が?」と思うはずだ。癌はどこかで「他人事の病」だった。だから私は癌をバカにして、「さっさと治る」と思っていた。しかし、癌はもう他人事ではない。今年の三月、私の友人でエージェントをしていた男が癌で死んだ。その前年の三月にもまた一人。樹木希林も加藤剛も癌で死んだ。癌はいやらしいほど静かに近付いている。今や日本人の半分が癌で死ぬともいう。なぜ癌はそんなにも近づいて来るようになったのか?
 京大の本庶佑先生がノーベル医学生理学賞を受賞された。癌の治療薬オプジーボにつながる、免疫細胞の中にある癌細胞を攻撃する仕組を解明されたのだという。それはいい。それはいいが、「癌を治す」という方向にばかり進んで、「人はなぜ癌になるか」がほとんど解明されていない。
 癌は感染症じゃない(はずだ)。それなのに癌患者がどんどん増えて行くのはなぜなんだろう? 我々の生きている空気や環境の中に発癌性物質が増えてでもいるのか? あるいは食物に。なってからでは遅い─というか早期発見もあるが、なぜなるのか分からないと防ぎようがない。

PR誌「ちくま」11月号

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