ちくま文庫

祈りにも似た感動
ちくま文庫『無敵のハンディキャップ――障害者が「プロレスラー」になった日』解説

透明感あふれる写真で今もっとも注目を集める写真家のひとり、齋藤陽道氏。じつは障害者プロレス団体「ドッグレッグス」のレスラーでもあるのです。そんな齋藤陽道氏による文庫解説です。

 ラオスでゾウに乗った。四千キログラムの巨体を目の当たりにすると、さすがに圧倒される。
 ラオスに来た目的は、ゾウ乗りの免許がもらえるというツアーのためで、通常は三時間で終わるところを特別に二泊三日の濃密なプランを組んでもらったのだ。ちなみに、ドッグレッグスに所属している「高王(たかおう)」も一緒だった。
 ゾウに「マプロング」(座って)と声をかける。座ったゾウの膝に足をかけて、ひょんとジャンプしてまたがるやいなや立ち上がるゾウ。ぐうぅんと視界が高く、広くなる。
 振り落とされないようにゾウの頭を足で挟むことになるのだけれど、ちょうどゾウの耳の裏になるそこは、人間の脇のように、体温がぽわあっと溜まっている。
 ゾウの頭に手を置くと、針金のように太くて固い毛がざくざくっと刺さる。皮膚が分厚いことはわかるのに、手に伝わってくる体温はとてもあたたかい。皮膚の向こうにある筋肉の動きがダイレクトに伝わってきて、艶めかしくすら感じた。
 体温がはっきり分かることに、なんだか驚いてしまった。ぼくとなんら変わらない血肉の通う身体だった。「たぶんゾウの体温って低いんだろうな」という見た目からの勝手な思い込みがあったことに気づかされる。触れることで、そんな先入観がすっかり覆された。
 トウキビをあげようとすると、長い鼻を使い、数本をなんなく一気に鷲摑みして、わっしわしと食べる。いろんなゾウの鼻の使い方を見ていると、好きなトレーナーにちょんちょんと触れたり、前を歩いていて邪魔なゾウのおしりをトントンと叩いてどくように促したり、しゃぶりながら居眠りしていたりと様々に活用していた。
 滞在している間、六頭のゾウの鼻を抱いてみた。そうしているうちに、それぞれのゾウの鼻から噴き出される吐息の匂いの微妙な違いに気づくようになる。
 ぼくが仲良くなったゾウは、三十二歳のオスで「キャーメィ」という名前だという。なんと二〇一八年で三十五歳になるぼくと同年代だったのだ。それまでは単なる雑学にすぎなかった「ゾウの寿命は平均七十歳」ということが、自分自身と地続きの生々しい事実に変貌したのをそのとき感じた。高王は二十三歳のメス「ティーン」といっしょによく散歩していた。
 それまで、ただ「ゾウ」とひとくくりにしてきたけれど、皆、それぞれに名前のあるひとつの存在なのだった。ひとりずつ名前があり、性格や個性がある。そのことに気づいてみれば、ゾウひとりひとりの性格がよりはっきりと見えてきた。落ち着いた子、くいしんぼうな子、すこぶる荒っぽい子、せっかちな子。
 みんな、生きている。みんな、性格が違う。
 当たり前だ。生命をもつ存在として、それぞれが一個人であり、みんながみんな異なっている。本当に、そんなのは当たり前のことだ。だけど、ラオスに来るまでのぼくにとって、それは当たり前ではなかった。
 イメージだけでは追いつくことのできない、現実の重みというものがある。一過性の体験ではなく、ちょっと粘り強く付き合ってみなければ、ゾウたちそれぞれの性格の違いを知るに至ることはできなかった。
 自分ではない誰かが体験した話や、本やテレビなどで読み聞きした「ゾウ」の断片的な情報をもとにして(なんと恐ろしいことに、その情報をほぼ絶対的なものとして)、一個人として存在している彼らの個性を無いものとしていたことがわかった。
 罪深いことだと思う。けれども、情報過多の現在、そんなふうにして現実の重みを引き受けず、個性を無いものとしている存在が他にもいるのではないか。

 * * *

 二十三歳のとき、「写真をやろう」と思った。なぜ写真なのかわからないままながらも、「写真じゃなきゃだめだ」という強い直感だけがあった。
 それまでは忌み嫌うものでしかなかった写真というものを知るために、地元の図書館にある本すべてを手にして、写真がどんなふうに使われているのかを学ぼうとしていたときがあった。長いあいだ写真を嫌っていて、撮るのも見るのも避けてきたというブランクがあったので、修行というかリハビリというか、極端なくらいのことをしようと思ったのだ。
 一体、何千冊あったのか。当時はサラリーマンをしていたので、休日を使って、一日中、図書館にこもりながら医学書から絵本までと幅広く本に触れていく。そうして数ヶ月後、最後に残ったのが福祉のジャンルにある本たちだった。そこは最も敬遠していたコーナーだった。
 障害者による自伝は、笑顔一辺倒のものが多い印象があったために苦手だった。笑顔を前面に打ち出した装丁の本は、まるで「障害があっても、頑張って生きていけばなんとかなるよ」という綺麗事をうそぶいているようにしか思えなかったからだった。
 ぼくは生まれつきの感音性難聴で、物心がつくころから周囲の大人たちに「聞こえる人のようになりなさい」と言われてきた。そうして、たくさん発音訓練をして、きれいに発音しようとしてきた。でも伝わらないことが多く、逆に、相手の発言を聞き取ろうとしても、全然、聞き取れなかった。どんなに努力しても、聴者のようにはできなかった。そんななかで差別やイジメを受けてきたことから、どうやったって障害者は健常者並みになれないんだという劣等感をもっていた。
 小学校にあがるころから、ぼくの顔には愛想笑いが張り付いていた。どんな人であれ、「健常者/聴者」と話すときは、格上の存在に対するように、追従するように愛想笑いするのが当たり前だと思っていた。能力的にはそんなに変わらないはずなのに、聞こえて話ができるというだけで認められていく(ように見えた)人たちが羨ましくて妬ましかった。
 社会は不公平だ。
 そんな思いが鬱積していたからこそ、その不公平さをごまかし、むしろ庇うような笑顔の写真には「綺麗事ばっかり!」と腹が立った。
 だから、歯を剝いて威嚇する人物が写った小ぶりなモノクロ写真で装丁された『無敵のハンディキャップ』(単行本)を手にしたときには、「これは、他と何かが違うぞ」と感じた。
 寝食を忘れ、のめりこんで読んだ。それまでに読んできた障害者関連の本とは次元が違っていた。
 まるで目の前にその人がいるかのような臨場感ある文章、頭でっかちの理屈だけではない体感の伴った生々しい描写、それでいながら全体に漂うのは、人と関わることの面倒くささや哀しみをそれでも肯定してくれる仄明るいユーモア。それがぼくを夢中にさせた。
 これまで「障害者」と一言で済ませていた者たちにも、ひとりひとりに名前があり、心が、苦悩が、容易には語りえない愛の形があるのだという当たり前のようなことを、深く、知り直した。同時に、抗えないような運命へ、それでも挑もうとする者にこそ、豊穣な生の瞬間が訪れるのだということをも教わった。
 ああ、こんなふうに、人間と関わることができたなら!
 ああ、こんなふうに、身体ひとつで対話をしたい!
 そう強く憧れた。この憧れは、ぼくの望む写真への大きな指標となった。

 * * *

 冒頭のゾウの件のように、誰かがあつらえた情報や、言葉ひとつで何かわかったようになる態度は、本書を読むまでのぼくの「障害者」という言葉に対するものでもあった。
 二十歳になるまでのぼくは、他の障害がある人と出会う機会がほとんどなかった。というよりも、「障害者」というレッテルを外して、「ひとりの人間」として接しようとする姿勢が備わっていなかった。
 さらに、愛が地球を救うらしい二十四時間テレビで「苦難をのりこえて頑張っている障害者」の姿を観ながら涙を流していた。またさらに最悪なことに「ぼくもあなたたちの側だからね、わかるよ、わかる」という甘えた言い訳をこしらえて一銭も募金せず。でも、翌日にはすっかり忘れていた。
 つまりは、うわべだけの感動をタダで消費して「自分よりも大変な人がいる」という優越感をもとうとしていた。なんという倒錯。今となっては、思い出すだけで、おへそがねじれとれそうなほどに恥ずかしい黒歴史である。

 たとえ自分が健常だと信じていても、事故にいつ遭うかわからないし、病気や老いを避けることはできない。死に向かう宿命をもつものとして、皆、遅かれ早かれ、誰であろうとも必ずなにかの当事者となる。本書は、自分もなにがしかの当事者であるはずなのにそのことを棚に上げて、他者への想像を欠いた人々へ鋭いナイフのように突き出されている。
 言葉や数字でまとめることは、ひとりの存在の重みを、たいらに均す効果がある。そうすることで統計がとりやすくなり、未来にあるべき形を予測・軌道修正することができる。そのためにも必要な視点ではあるが、処理することに長けたそのまなざしを、あまりにも当然のように使いすぎてはいないだろうか。
 本書を読みながら浮き上がってきたものは、ひとりの存在の重みと向き合うことをしないまま、小利口に屁理屈ばかりこねて自分の中へ閉じこもりながら、人間を消費・処理することになんの疑問ももたない傲慢さだった。
 社会の万人が飲み込みやすいようにと、徹底していびつさを取り除いた美辞麗句の物語がのさばる現状に対して、北島さんはドッグレッグスという団体を、アンチテーゼのナイフとして尖らせてきたのだろう。
 そのナイフは、ぼくにも刺さった。人生を大きく変えるほどに、深々と。

 本書と出会った日からわずか半年後、ぼくはドッグレッグスでレスラー「陽ノ道(ひのみち)」としてデビューすることになった。二〇一〇年以降に行われた興行にはすべて参戦している。
 入団テストとしてドッグレッグスのスパーリングへ初めて行ったとき、「ああ、本が、現実につながっている」と思った。初めての場所とは思えなかった。本書で描かれている情景が、そっくりそのままあった。本の続きへとスムーズに接続されていて、まったく図々しいことだけれども「ずいぶん、ごぶさたしちゃったな」というような懐かしさすらあった。
 つまりは、本書を読んだときから、ぼくの中にドッグレッグスのひとりひとりが立体感をもって棲みついていた。だから、初めてのはずのスパーリングにもすんなりと馴染めたのだろう。それほどまでに生々しい人物描写が本書にはある。

 * * *

 リングの上に立っている。眩しいライトに照らされて、リング一面は雪景色のようにただただ白く、ぎらぎら光っている。真っ白な荒野の果てには、相手がいる。ぼくにゴングの音は聞こえないが、レフェリーが手を振り下ろして試合の開始を告げる。
 向き合うその人は、だいたいがなんらかの特性を抱えている。下半身不随、精神の病、盲目、ひきこもり、脳性麻痺……。こんなにも人間の身体は多様だ。けれども、殴り殴られて、ときに血を流して、全身を、心を、揺すぶられるうちに、「障害」というものが溶けていって、ただの人間と人間のぶつかり合いとなっていく。向き合う相手の生身による現実の重さがのしかかる。
 痛い。痛い。汗。涙。肉の身体。筋肉。体温。血。血の味。鼓動。
 ああ、ぼくは生きている。同じように、おまえも生きている。この身体で生きている。ともに生きている。ただそれだけだ、ただそれだけだった!
 ドッグレッグスのリングで相手と向き合うたびに、この素朴な驚きを鮮烈に知り直している。まったくたまらないぜといつも思う。

 リングの上には、健常者も障害者もなく、ただの人間同士としてのせめぎ合いによる生の深みから噴きあがる感動があった。祈りにも似た感動は、決して消費されることがない。独り強く屹立する感動こそが、人の心を本当に揺るがす。
 揺れる心とともに、読者自身も己のうちにある弱さをこそ見つめたくなることだろう。そうして、その弱さをさらけだしながら、ゆっくりと時間をかけて、未知の他者と向き合おうとする勇気を与えられていることにも気づくだろう。
 ぼくはその恩恵を感じてやまない一人である。

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