荒内佑

第25回
東京の地図

4th Album『POLY LIFE MULTI SOUL』が各方面で大絶賛!!! 今、もっとも注目されるバンドceroのメンバーとして多くの楽曲で作曲、作詞を手がける荒内佑が、〈日常〉とそこに流れる音楽の話を綴る大好評の連載。 更新は毎月1回、第4水曜日になります。

 
 引っ越すことになった。今の家に住んで5年になるが、東京の郊外在住なので、仕事で都内へ行って戻る時間や労力がそれなりにかかり、一つ用事を済ませるだけであっという間に一日が終わってしまう。だったら都心部へ転居した方がいい、というのが大義である。音楽産業にまつわる施設が郊外へ移転する未来は来るのだろうか、関係者はいつまで渋谷付近でウダウダしてんだろ……しかし、実を言えば、あまりに閑散とした郊外の街並に飽きて来た、状況を変えたくなった、というのが正直な所である。最寄りの駅前で自分にとって何か意味を持つ場所は、強いて言えばドトールしかない。
 逆にこの数年間で都心部から地方へ引っ越していった友人、知人も数多くいる(その転居先のほとんどが長野県だったのは特筆すべき現象である)。バカ高い賃料や何十年もかかるローンを組んで都心部に住むことを考えると、例えば長野から東京へは電車で1時間強で行ける訳で、転居先で広い家に住み、仕事も得ている彼らの選択はスマートとしか言いようがない。


 今まで幾度も書いて来たが、都心でも田舎でもない、ただ家ばかりが建ち並ぶ、東京の郊外に生まれ育った自分にとって、郊外とはアイデンティティを求める場所ではなく、ある種、うまく乗りこなすべき場所である。要は、微弱な刺激しかない場所をどう楽しむか、ということだ。だから、今住む街に引っ越してからは、子供の時にゲットしたスキルを思い出すことが多く、必然的にこの連載でも郊外の話が多くなった。というか、この連載も、この5年間で作った楽曲も、この街に住むことなしには出来なかったと思う。
 郊外と関係がないように見える回でも、例えば、深夜の散歩はRPGでいえば平坦に見える街の「裏面」を探すことに似ている(第18回)。変化がないによう見えるなら物事を仔細に見てみる(第9回)。異質なものを接続させることが多いのは、郊外から社会の現実感を摑もうとしている痕跡だと思う……自分で解説してしまった。だけど、この連載に通底する「郊外感」は僕個人の私的な問題ではないと思っている。


 先日、本棚を整理していたら『動物化する世界の中で』(2003年 集英社新書)という東浩紀氏と笠井潔氏の往復書簡が出てきた。米国同時多発テロとアフガニスタンへの報復攻撃が行われる状況下で交わされたこの書簡集は途中、下世話にいえば大ゲンカになり両者は決裂してしまう。なかなかヒヤヒヤする本なのだが、本論とは大して関係のない第七信の冒頭が目を引いた。
 それは東氏が郊外から都内(西荻窪)へ転居し、返信が遅れたことを詫びる一文から始まる。ご本人は「雑談」としているが興味深かったので少し引用してみる。


「……コンビニとケータイとネットとJポップしかない九〇年代末の荒れ果てた郊外に住んでいた僕にしてみれば、この街は、世界の平板化の荒波のなか、『昭和的』としか言いようのない独自の価値観を守り続けている一種のテーマパークのように映ります。(中略)僕は、物心ついたときからずっと私鉄沿線の郊外に住み続けてきました。僕はいま、初めて、その足場を失い、『文化』という名の古き良き虚構のなかに漂い出しているように感じます。そのような虚構の求心力はいまはもう失われているのだ、と口を酸っぱくして言い続けてきた、まさにその虚構のなかに。」


 確かに中央線沿線、特に西荻窪から新宿間に漂う「昭和的」な「文化」は、他の私鉄沿線に比べれば多少その残り香を感じることができる。しかし、この文章が書かれたのは2002年、今から16年前のことである。あれから「平板化の荒波」は、東氏が「古き良き虚構」を感じた中央線沿線にも着々と迫っている。駅前の再開発が多くの駅で進み、各駅に「アトレ」「ノノワ」といったショッピングセンターが併設されている。僕もかつて住んでいた西荻窪は頑張ってはいるが、駅前にあった老舗の食料品店(喜久屋)はなくなり現在パン屋+ドトールという店が建設中。隣駅の吉祥寺については第23回で書いた通りだ。
 言うまでもなく「平板化の荒波」は強烈で、中央線に限らず、再開発が進む渋谷は今後どうなるだろう。聞くところによると、JRと東急のプランでは、駅上と駅前で商業とオフィスを集中させるものらしい。パルコの再建も含め、大きく勢力図が変わるのは確かだろう。枚挙に暇がないが、自分には「都心の郊外化」としか思えない。もちろん渋谷や新宿が大型ショッピングモールとデカい駐車場だけの街になるとは思っていないし、ミクロに見れば各街で歓迎すべき変化はあるはずだ。だけど、かつて「都心」と「郊外」が作っていたある種のダイナミズムは想像しているより早いスピードで失われていくのかも知れない。


 今、僕が原稿を書いている自宅の窓からは向かいの一軒家が見える。ここに越してきてから少なくとも5年の間、ずっと空き家のままだ。軒先には駐車場があり、そこが近所の小学生たちの溜まり場になっている。彼ら彼女らは放課後に自転車で集まり、DSをやり、駄菓子を喰い、キックボードで駆け回っている。東京の空き家問題が取り沙汰されて久しいが、郊外の空き家を「裏面化」する子供たちを見ながら、頼もしさを感じつつも、自分がずっと同じ所をグルグル回っているような気持ちになってくる。ここから引っ越すのはなんだか申し訳ない気もするが、東京の地図が書き換わっても、お互いうまくやんべ、と思う(が、僕の引っ越しはだいぶ先のことである)。

 

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