上田麻由子

最終回・それでも幕は上がるので

2年間にわたって、2・5次元舞台のあまたのきらめきに併走し、その魅力をお伝えしてきた「2・5次元通信」、いよいよファイナル・ステージです!

 さきごろ第69回紅白歌合戦の出演者が発表され、その企画コーナーに「ミュージカル『刀剣乱舞』」より刀剣男士たちが出場することが明らかになった。チケットが取れない、大作だといわれてきたいくつかの作品に、色々な意味で終止符が打たれた2018年は、2・5次元にとってひとつの大きな区切りになりそうな予感がずっとしていた。そんな1年の締めくくりとして、これ以上ふさわしい出来事もないだろう。

アイアからNHKホールへ

 3年前、ミュージカル『刀剣乱舞』トライアル公演がAiiA 2.5 Theater Tokyoで行われたとき、史実をベースに、刀剣男士が「もの」としての刀剣だったころの主(歴史上の人物)との因縁と折り合いをつける物語が描かれる1部と、サイリウムの海のなかアイドルさながら歌って踊るライブが繰り広げられる2部、そのすべてを恐るべき体力でこなそうと必死になる、息も絶え絶えのキャストへのオーバーワークなのではという心配も含めて、大変なものが始まったなという印象はあった。

 しかし、それから3年。刀剣男士たちはいくつかの公演に加え、世界遺産・嚴島神社で白装束を身にまとった奉納行事を行い、インド・デリーのアニメイベントに出演し、中国・上海や広州、そしてフランス・パリで公演を行い、「真剣乱舞祭」というライヴイベントで日本武道館や大阪城ホールを満員にしてきた。来場者25万人を超えたという「特別展 京のかたな-匠のわざと雅のこころ ―」(京都国立博物館)などで、実際の刀剣を目にすることで、「彼ら」が道具として、あるいは宝具としてあった時代に馳せた者も多いだろう。「もの」でありながら「人」の身体を得た付喪神であるという、あわいの存在である「刀剣男士」たちは、ある意味では2・5次元というフィールドそのものを体現しているのかもしれない。結果としてこの3年で「刀剣男士」たちはその輪郭をくっきりとわたしたちのなかに刻みつけ、その存在感はあいまいなのにこれ以上なくたしかなものになった。また、どの刀剣男士よりも「キャラ」としてキャッチーな加州清光がまっさきに「単騎出陣」という名のソロライヴを行ったのに続けて、優美さと逞しさとの対比が鮮烈な、どの刀剣男士よりも身体表現に特化した髭切・膝丸の兄弟による「双騎出陣」が予定されていることも象徴的だ。

 しかし、まさか紅白にまで進出する日がくるとは夢にも思わなかった。AiiA 2.5 Theater Tokyoと(紅白歌合戦の収録が行われる)NHKホール、遊歩道の目と鼻の先にある2つの会場の距離は、見た目よりもずっと遠いのだから。

2・5次元のための劇場

 くしくも同じ2018年12月31日、2・5次元舞台を上演してきたAiiA 2.5 Theater Tokyoの閉館が決まっている。2012年9月「マッスルミュージカル」専用劇場だった場所が「AiiA Theater Tokyo」と名称を変更してオープン、2015年3月より「2・5次元専用劇場」として現名称になった。

 最後尾からでもそれほど疎外感を感じることなくステージを見渡せるし、830席というキャパシティもちょうど良い。実際、ミュージカル『刀剣乱舞』や『あんさんぶるスターズ!オン・ステージ』のような作品のライヴパートでの舞台と客席との絶妙な「近さ」は、この会場だからこそ成立していた部分も大きい。「アイドル」から受けたファンサービス、『ハイパープロジェクション演劇「ハイキュー!!」』で最初に盆舞台が回り出した瞬間の迫力、ここだから生まれた思い出は無数にある。

 もちろん、決して評判が良いだけの劇場ではなかった。劇場というよりスポーツスタジアムのそれのように硬く、観客の腰を破壊しようと虎視眈々と狙う座席、工事現場のようだったお手洗い、想像力の活性化を余儀なくされたサイドシート、外の祭囃子や街宣車の音が筒抜けになって大事なシーンが台無しになることもあった。2・5次元ならではのものすごいパワーを持ったキャラクターに、物語のなかでのようにいっそ破壊してほしいと願ったことも一度や二度ではない。そんなふうに、いつまでたっても「仮設」というイメージが抜けなかった会場は、2・5次元というどこか地に足のつかないジャンルと少し似ていたのかもしれない。

お客様がたった1人でも

 そんな会場ができたばかりのころ行われた、個人的に思い出深い作品のひとつが、2013年11月14日〜24日まで行われた、グレイスフルプロデュース 『亜雌異人愚なグレイス』だ。これは『マグダラなマリア』の代替公演である。湯澤幸一郎が原作・脚本・演出・音楽、そして主演をつとめ、2008年に始まった『マグダラなマリア』の7作目(ライヴ含まず)として行われるはずだった「マリア・マグダレーナ来日公演『マグダラなマリア』~郵便配達は二度か三度くらいベルを鳴らす~」は、湯澤氏の「個人的な事情」により突然、中止となった。その代替公演として、それまで準主役的な立ち位置だったグレイス役の俳優・声優の津田健次郎が急遽、脚本、演出をつとめ、この『亜雌異人愚なグレイス』が上演された。

 歌手で女優で娼婦のマリア・マグダレーナを主人公に、彼女が経営する1940年代ごろのウィーンにある高級娼館「魔愚堕裸屋」で起こるドタバタを描いた『マグダラなマリア』は、耽美と、笑いと、ナンセンスと、下ネタと、少しだけせつない人間関係と、それを吹き飛ばすキャラクターのパワーに溢れた作品だった。これが2・5次元の文脈なしに語れない作品であるのは、2・5次元の作品があまり多くない10年前にあって、『ミュージカル「テニスの王子様」』や『ミュージカル「エア・ギア」』で活躍した若手俳優の「その次」の作品として、2・5次元ファンにおおいに支持されたからだ。オール・メールでありながら多くが女装によって美しさや可憐さを引き出され、アンナ・エーデルマン、ローズマリー、エスメラルダ……と、いまだにその凜とした立ち居振る舞いや騒がしいキュートさ、熱情ほとばしる歌などを思い出せるキャラクターを何人も生み出した。

 そんな『マグダラなマリア』の新作が中止になり、詳しい事情もわからないまま上演された代替公演『亜雌異人愚なグレイス』は、あと一週間で閉鎖されてしまう劇場を、キャラクターがそれぞれの特技を活かしてなんとか立て直そうと奔走する物語が描かれ、突貫工事ならではの粗はあっても、あくまで笑いに、エンターテインメントに徹したキャラクターたちの姿は、たった3週間でこの作品を1からつくりあげたキャスト・スタッフのそれと重なって力を持ち、涙を誘った。ただ、代替公演にこぎつけるまでの内幕はあくまで作品に語らせるにとどめ、何度アンコールが起きようとも、グレイスはいつもの含み笑いで「また会いましょう」と笑うだけだった。だからこそ、今でも忘れがたい作品になっている。

怒りと恥辱が

 来年、そんな『マグダラなマリア』の「新章」として、舞台『メゾン・マグダレーナ』が制作されることが発表された。これが決して喜ばしいニュースではないのは、湯澤氏の「個人的な事情」が、のちに児童福祉法違反で逮捕されたことだったと判明し(ここには演出家による役者志望の少女へのパワーハラスメントもある)、そのうえで翌年、執行猶予なしの実刑判決を受けたせいである(このあたりの経緯は中町氏の抗議サイトなどを参照のこと)。

 原作のある2・5次元ではなく、湯澤氏の完全なる「オリジナル」だからこそ、新作の上演は可能だし、誰に止めることもできないのかもしれない。ただ、性犯罪者の社会復帰において具体的な再犯防止策が必要不可欠であること、そして新たに制作を請け負う株式会社CLIEの説明責任が十分には果たされていないこと、つまり普通ではない経緯がある作品だからこそ、新章を始動させる前にもっと慎重な手続きが必要だったことなどは、すでに多くの指摘がある(この批判を受けて出されたプロデューサー吉井敏久のコメントで「一部の方々よりお問い合わせ」「一部の方から公演反対のご意見」「一部で様々なご意見」と「一部」が繰り返されているところにも、この問題の重大さを受け止めきれてないところがうかがえる)。

 たとえば動画やDVDなどで『マグダラなマリア』に触れた人は、新作と聞いて純粋に観てみたいと思うかもしれない。『CLUB SLAZY』や『Like A』など、2・5次元ファンにアピールするオリジナル作品を送り出してきた制作会社CLIEの作品ならばと期待する者もいるだろうし、自分の「推し」の俳優が出たら行きたい、行かざるをえないという人もいるだろう。ただ、当時チケットを手に振り回された者のひとりとして、なによりあの代替公演の劇場での緊迫感、それを勢いよく笑いに変え、まさにエンターテインメントとしてやりきったキャストやスタッフの姿を実際に見たからこそ、既存のファンをあてにするような「新章」の幕開けを手放しで受け容れることなど到底できない。かつて作品を支持していたからこそ、ことの経緯が明らかになったときの残念な気持ちはいまだに拭えない。

まぼろしを追いかけて

 そう考えると、ライブビューイングや配信などで、劇場に赴かずとも2・5次元舞台が楽しめるようになったいまでもなお、観劇記をつけることはやはり必要だなと思えてくる。実際、今回の『亜雌異人愚なグレイス』についても、当時の観劇ブログなどをいくつか読むことで、いかなる記録も残っていない作品の雰囲気を、いくぶん思い出すことができた。「写真には映らない」「教科書には載っていない」「授業では教えてくれない」式の紋切り型にはおおいに異議があるものの、ライブビューイングやDVDには映らないものが実際にあることを、観劇者なら誰でも知っているだろう。

 記録をするぞと、肩肘張って観劇するのはときに窮屈ではあったけれど、おそらく後から振り返ってみても2・5次元の記念碑的な作品の多かったこの2年を、連載という形で記録できたことは、とても良い経験になった(なにしろほとんど毎月、原稿用紙5枚程度というきまりを大幅に超えて書きたいと思う作品に恵まれたのだから)。

 チケットを取るのにもものすごい労力を要するだけでなく、演劇という蓋を開けてみないとわからないものに、結構な金額を投資する、先物買いのようなことを続けていくのは、なかなかに大変なことである。いつでも・どこでも観られる動画配信サービスなどが便利になるいっぽうで、決められた時間、決められた場所(しかも平日の18時とか!)に行って、3時間越えなどという演目に出くわしたりすることは、体力的にもけっこうしんどい。けれど、少なくともこの2年間に観た、いわゆる2・5次元といわれる演劇作品のなかに、巷で言われるような「虚無舞台」はそれほど多くはなかったと思う。求めていたものが得られなかったことはあるけれど、少なくとも、誰ひとり楽しみを見いだせないような作品はなかった。2・5次元舞台がこれからどんな道を辿るかいまはまだわからないけれど、いや、わからないからこそ、願わくは、この記録が誰かが劇場で過ごしたひとときを思い出すための、ささやかなよすがにならんことを。
 

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