オトナノオンナ

第2回 うぐいす

おとなびた幼稚園児がいる、少女のような老婆がいる……。さまざまな年代の女性の仕事、生活、恋愛、を丁寧に追いながらそれぞれの「オトナノオンナ」を描く、一話読み切り小説。 

 


  親愛なるクリスティ。あなたはいま、どうしていますか。登山道に入り一時間ほど、息がだいぶらくになりました。
 ここは、高尾山。いままで数えきれないほどのぼっていますが、ひとりで来たのははじめてです。
 東京というと、ビルばかり、ひとごみばかりと思われるかもしれませんが、ここも東京、中心地から電車で一時間ほどで山のぼりができます。片道二時間くらいで山頂ですから、最近は海外からの旅行者にも人気があり、道の前後にたいてい人間のすがたが見えますから、女性ひとりでも心配いらないのです。
きょうも、すぐまえには、アメリカからきたご夫婦がいます。さっき、おなじところで休んで、すこし話しました。ちょうどうぐいすが気持ちよさそうに鳴いたので、得意の芸を披露しました。
 ……ホーウホケキョ
 高く響きわたる鳴き声は、山の春の合図です。春さきはまだあんまり上手に鳴けず、ケキョホケ。失敗して、かわいらしいのです。
 学校のすぐそばに声帯模写の芸人さんが住んでいらして、子どもたちに動物や鳥の鳴きまねを披露していただいたことがありました。そのときに、みんなで習った直伝の芸です。
 ほんもののうぐいすは、不思議そうにすこし黙って、それから返事をしてくれました。おふたりに喜んでもらって、嬉しかった。こんなやりとりも日本のおもてなしかもしれません。カタコトの英語を話していたら、あなたを思い出したのでした。
 あなたは、いまもカナダですか。あなたが子どものころにいたオウイメットというところは、すばらしい峡谷があるそうですね。息をのむほどの谷と、針葉樹の森で育ったあなたにくらべて、この整備された登山道ですら息を切らし、へこたれそうになっているので、はずかしいです。けれど、木や土の匂い、鳥の羽ばたき、日陰にのこる霜柱をざくざくと踏む心地よさについては、きっとあなたと話が弾むことでしょう。
 これまでも山の静寂に包まれると、ふとあなたのことを思いました。遠いカナダのおおきな自然のなかに、あなたが生きている。そう思うと、なぜか力が湧いてくる。クリスティ、きょうもそのことを感謝して、のぼっています。そんなことをきゅうにいわれても、めんくらってしまいますね。
 きょうは、三か月ぶりの高尾山です。
 前回は、佐野さんと、初詣にのぼりました。山頂に神社があるので、一年の安全と幸福を祈るためにのぼったのです。でもきょうは、ひさしぶりに、自分だけの時間です。このところほんとうに、とっても忙しかった。
 日本の中学校は、四月にはじまります。ことしは、桜の花が長く咲いてくれて、新入生の記念写真は、華やかになりました。勤めている中学校には、創立の日に植えられたという樹齢七十年ほどの桜の木があります。創立は、第二次世界大戦の敗戦直後。校長先生は、毎年入学式で、この桜を大切にしてくださいと話されます。
 ことしは、ひさしぶりに一年生の担任になりましたので、秋には生徒たちともこの高尾山にのぼれます。このところ三年生ばかりを受け持っていたので、まだあどけない子どもたちが、かわいらしい。生徒たちは、三年のあいだにそれぞれ進路を考え、進学のための試験を受けなければなりません。学業上の、人生はじめての試練。伴走者としての教師も、いつまでたっても緊張するものです。希望のかなう子も、そうでない子も、それぞれおとなびた顔になって卒業していきます。
 日本ときくと、どんなことが浮かびますか。
 桜、富士山、お相撲や着物。おむすびって、わかりますか。
 お塩をつけた手のひらに、ごはんをのせ、ボールのように握り、海苔という乾燥した黒い海藻で包みます。このとき、指の節をつかって角度をつけて、三角になるように握ると食べやすくなります。
 生まれ育った新潟県は、日本有数のおいしいお米の産地なので、おむすびを作るのは子どものころから得意です。きょうもナップザックに、ふたつ入っています。もうすこしのぼると、峠があります。ちいさな食事処があって、おいしいきのこのみそ汁といっしょに食べるランチが、この山のぼりのいちばんの楽しみなのです。
 あなたの作るお弁当は、サンドウィッチですか。サーモンや、メイプルシロップ、ビールにチーズ。東京のスーパーにも、あなたの国の赤いカエデの国旗のついたものがたくさんあります。いつか、長いお休みにたずねてみたいのですが、ことしは夏の休暇、落ち着けません。

 つらなる山にかこまれ、じぶんの足音をきいていると、日々の音が遠のき、大切なひとの声を思い出せます。佐野さんには、けさ、出がけに電話をしました。彼は植物園に勤めていますし、彼の両親の住む八王子はここから近いところにあるので、山や森までしょっちゅう出かけています。
 忙しくてくたびれているなら、高尾にのぼってきたらとすすめてくれたのも、佐野さんでした。知りあって三年、ふたりで、もう十回はのぼっています。木や花に詳しいので、とても楽しい登山になります。佐野さんは、おなじ山になんどものぼると、季節の花や鳥を覚えられると、友だちを紹介するように、名まえを教えてくれます。思えば、はじめから気どらずにつきあえたのも、この山のおかげです。
 東京での生活が長くなるにつれ、アパートと学校を往復する毎日、新潟の野山を駆けまわって育ったことさえ忘れてしまいそうになっていました。佐野さんのおかげで、自然があり、ひともいる。忘れてはいけないことを思い出し、だんだんと前をむいて歩く気もちになっていきました。
 おなじような博識は返せないけれど、できること、たとえば感謝をこめておむすびを作れるように、いっしょにいられたら。そう思って、去年の秋に結婚を決めました。そうして、先週、やっと新居が決まりました。
 ふたりの結婚を、まわりはとても祝福してくれています。佐野さんは、気が長く、手足も首もひょろっとして、キリンに似ています。彼とは、伯母の紹介で知りあいました。彼のお姉さんが、わたしの伯母と親しかったのです。
 クリスティ。日本には、オミアイという、適齢期の男女をまわりが出会わせる、むかしからのシステムがあるのです。もともとはそんな紹介はいやと反発したのですが、伯母の術中にまんまとはまってしまいました。この結婚にただひとつ難があるとすれば、その点になりますが、伯母のおせっかいがなければ、いまごろは孤独を認めることも、抱えることも、手ばなすこともできずにいたでしょう。
 花の咲く時期、葉を落とす時期。木々がまわりにまかせるように、ひとのこころの回復もまた、自力だけではどうにもならない部分があるのだと思います。
 佐野さんは、適齢期なんて個体差、ひともそれぞれだよといって、三年もゆっくり待ってくれました。ほんとうにありがたいことでした。佐野さんといっしょにいると、森のなかにいるみたい。とても素直になれます。
 来月の休日を使って、引越しをします。八月には、結婚式を挙げます。東京の八月は連日体温を超える猛暑になりますから、友人たちには文句をいわれてしまいました。けれど、教師のスケジュールが自由になるのは、夏休みくらいなのです。
結婚すると、姓も変わります。池田から、佐野になります。また、いろんな手続きが必要になります。
 中学生は、恋愛にとても興味があるので、生徒たちにはいまから結婚式のことをきかれています。バドミントン部の子どもたちからは、イケサヨのあだ名で呼ばれています。女の子たちが、ひそひそと、イケサヨからサノサヨになるんだよねえ、サノサヨサノサヨ、と呪文のように練習しているのには笑ってしまった。
 嬉しいのは、祖母が結婚式のときに着た振袖という着物が、ちょうどよい寸法だったことです。ドレスはまるで似あいませんが、華やかで、とても美しい振袖のほうは、いい感じです。生涯仲よしだった祖父母を、理想の夫婦としていけることでしょう。
 式場は、ふたりの行きつけのちいさなレストランです。先週、友人、親戚、職場の方々に招待状を発送しました。少人数のパーティーをする予定ですが、くだんの伯母が、なにごとにも口をはさんでくれますので、どうなることやら……。
 クリスティ。すべて順調にすすんでいます。
 けれどきょうは、あなたにだけ、打ちあけることがあります。

 先週末、招待状に宛名を書き終え、ほっとしてお昼を食べはじめたとき、あのひとから電話がありました。
 八年もたつのですから、ふられたのですから、携帯電話の住所録からはずしていたのは当然でした。あのとき、なにより悲しかったのは、それがだれの番号か、すぐにわかってしまった。
 ……東京に来ているんだけど、きゅうだけど、会えないかな。
 風の便りで結婚のことを知ったのかと思いましたが、もしそうなら、かけてくるようなひとではありません。
 会わないと、すぐにいうべきでした。でも、声が出ませんでした。ゼミでお世話になった教授のお祝いで、小豆島から来たこと。きのうから、学生のころ住んでいた小金井駅前のホテルに泊まっていること。張りつめていた糸がやわらかくたわみ、ゆっくりねじれていくのをながめているように、その声を聞いていました。
 ……会えないか、やっぱり。
 ……きょう、これから、すこしなら。
 ふたりがいったのは、ほぼ同時でした。そして、じぶんがじぶんに、いちばん、裏切られた思いがしました。元気でと笑って別れて、八年も忘れられなかった。もう会うことはないと思っていた。その長い時間が、迷いもしないひとことで、はじけた。
 きょうの三時、吉祥寺あたりで、一時間くらいなら。
 翌日になれば、ためらったでしょう。いそいでしたくをしました。中央線の景色をながめながら、かき消しては浮かぶのは、ほんとうに、お米ひと粒ほどの、手ばなしたはずの期待でした。もし、あのひとがもう一度といったら。手のひらはつめたくなり、高い山のうえのように、空気が薄く、息ぐるしくなりました。
 ちっとも変わらずに、つい先月会ったみたいに。あのひとは、よくむかし待ちあわせをしていた書店にいました。
 ……東京に来ても、とんぼ返りばっかりだったから。吉祥寺、ほんとうになつかしい。沙代ちゃんも、かわらないね。
 くりかえしていうなつかしさ。そのひとかけらとして、いまここにいるんだわ。気の抜けたような、がっかりしたような。そして駆けつけて、汗でほてって、恥ずかしかった。
 日曜日の喫茶店はどこも混んでいて、駅の近くの公園をぶらぶらしました。あのひとは、早起きをして小金井公園もひとりで散歩してきたといいました。そこは、毎日のようにデートしていた公園です。
 卒業してからいっていないのと、嘘をいいました。佐野さんに初めて会ったオミアイの帰りに、ひとりで散歩をして、あなたを思い出して泣いたなんて、さすがにいえませんから。
 変わったお店、変わらない道、ふたりで見つけて指さすうちに、一時間はあっというまでした。
 じゃあね、元気でね。別れた日とおなじでした。
 ここまでは、親友のゆみちゃんにも話しました。ゆみちゃんは、結婚まえにはほんのすこし感傷があるくらいがほんとうよと笑ってなぐさめてくれた。
 ここからは、みずしらずの、会うことのないあなたにだけ話します。
 結婚すると、いえないまま、駅のホームに立って。
 ……またね。
 電車の扉がしまる瞬間、あのひとは、まっすぐに見て、そういった。
 クリスティ、あなたにだけ話しました。あなたを知ったのは、あのひとのおかげだったのですから。

 通りかかったフリーマーケットで、似あいそうだったから。
 あのひとがくれた誕生日プレゼントは、明るいブルーの、ジャージの上着でした。古着のさらにおさがりでしょうが、鮮やかな色がひと目で気に入りました。
 ……このジャージのいちばんいいのは、ここ。
 襟もとに縫いつけた名札に、あなたの名まえと、オウイメットの住所、電話番号がありました。子どもっぽい字もそのはず、この上着はキッズサイズです。そのときもう二十歳でしたが、日本人のなかでもとてもちいさいので、かさねてみるとぴったりでした。へたっぴいな字だねえ、クリスティちゃん。あのひとと笑いました。
 きっと、あなたのからだは健やかに成長して、この上着がきゅうくつになった。そして、誰かのおさがりに譲ったのでしょう。その上着が海を渡り、はるばる日本まで届いていたのですよ。ちなみに値段は、百円。そちらの一ドルくらいだったそうです。
 ……似あうね、そのクリスティ。
 ……便利なの、このクリスティ。
 着るたびにどちらかが、あなたの名を呼びました。
 似あうし、便利だし。ものもちのよさをいいわけにして、あのひとと会わなくなっても、このジャージを捨てられなかった。学校でも着ています。はおるたび、あなたの書いた、かたことのアルファベットが目に入る。
 カナダの大峡谷の少女は、どんなおとなになっているのかしら。せわしない日々のときおりに頭をよぎり、見知らぬあなたの幸福を願う。そのことで、ほんとうに、あの失恋をうらまずにいられた。なんども救われました。きょうも、もちろん。暑くなって、ザックのなかにしまいました。いつもは話しかけるだけだけど、きょうはあなたの笑い顔も浮かぶ気がする。
 きょうの晩ごはんは、八王子のご両親のところ。佐野さんが、カレーを煮こんで待っていてくれます。引越しの荷づくりを始めなくてはならないし、山をおりたらまた、忙しいことばかりです。
 峠のお店の屋根が見えてきました。足がはやまります。おなかもぺこぺこです。
 いちばん大切な恋は、もう終わっているはずでした。
 あのひとは、またねといった。またねなんて、ないのも知らないで。子どもたちには、毎日のように前へ前へふりむくなといいつづけているのに。そして、会ったことを悔やめないのはなぜでしょう。
 ……ホウ、ホケキョ。
 うぐいすは、さっきよりじょうずに鳴いています。また返事をしたらいいかしら、梢を見あげながらのぼっています。足だけがいうことをきかず、順調にのぼっている。
 クリスティ。話し相手になってくれてありがとう。
 遠くにいる、あなたの幸福を、いつも願っています。

 

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