ちくま文庫

生きものの美しさをつなぐ糸

ちくま文庫『三ノ池植物園標本室 上・下』解説

十年前に書かれた小説『恩寵』が、単行本化時にカットされたエピソードを復元し、大幅に改稿、タイトルも新たに『三ノ池植物園標本室』とあらため上下巻(上・眠る草原、下・睡蓮の椅子)としてちくま文庫に入りました。『恩寵』の推薦帯を書かれた歌人で作家でもある東直子さんに、十年の時を経て物語がいかに熟成したか、お書きいただいた解説を公開します。

 自分が生き物である、ということを認識したのはいつだっただろう。生き物であるからには、いつか死ぬ、ということも同時に知ったような気がする。小さなときから、植物や動物などの図鑑を眺めるのが好きだったのだが、生と死の概念を知ってから眺めるそれは、子どもなりに、いっそう感慨深くなった気がする。それぞれの生きものの色や形、大人になる過程で変化していく姿、生きている場所、食べている物、繁殖の方法などなど、世界のあらゆる場所に存在している、生きているものについての本を開いて写真や絵を眺め、解説を読むのは、いつまでも飽きることがなかった。
 学年が進んで、生物の授業で細胞を学び、自分の身体が、小さな小さな細胞の集まりであること、細胞の中に「ミトコンドリア」という遺伝情報に関わるものがある、ということなどを知るにつけ、その神秘に引き込まれた。なにも考えずに偶然生まれてきたようで、無意識の領域に必然として緻密に繋がりながら生きる身体の仕組みがあるということ。それを知ったときの驚きと感動を、本書は小説として新鮮に味わわせてくれる。
 主人公の大島風里は、会社員の生活に疲れて退職したのち、とある街で公園に面した古びた一軒家を見つける。不動産会社の人に言わせると「草ぼうぼうで、廃屋同然」のその家に強く魅かれ、一人で手を入れて住むことになる。そしてその近所にある「往来大学付属三ノ池植物園」の研究所でアルバイトを始める。風里の借りた家とこの研究所の関係者やゆかりの人々の三世代にわたる数奇な運命の謎が紐解かれていく過程は、ミステリーのおもしろさがある。又、夢を繋ぎ目として時空間を超えていくファンタジーとしても読める。
 時空間を超えて展開する様々な要素のすべてを、「唯一の趣味」として風里がこつこつ刺し続ける刺繍の糸が繋ぎ止めているように思う。風里の刺繍は、カラフルで派手なものではなく、白い麻布に、ベージュ系の糸を一本取りにして刺す、シンプルな方法である。風里は、夢で見た風景を植物園の中に見つけ、その景色を刺繍し始める。
 植物園と刺繍。そのとりあわせだけでも、とてもワクワクする。実は私も小さなころから手芸、特に刺繍をすることが大好きで、針と糸と布ばかりの世界で生きていけたらどんなにいいだろう、とずっと思っていた。
 スケッチもせずに、布に直接刺していく風里の独自の刺繍の感触が、次のように描かれている。


 指先から世界が開かれていく。白い布のうえに、あの葉っぱたちの世界が広がっていった。(上巻、四二頁)


 記憶の中にある世界を、指先で出力しているかのようである。布の上に連なってく糸は、生きものの遺伝情報を伝えていくDNAの二重螺旋構造と、イメージが重なる。
 この物語は、書や建築など、優れた芸術的才能を発揮した人と、その子どもとの間で受け継がれる感性と反発心とのせめぎ合いや、才能の違いを肌で感じつつも関わりを持たずにはいられなくなる周りの人間の葛藤を絡ませ、視点を自在に変えながらうねるように進んでいく。高名な書家の娘の葉(よう)が生きていた時代と、その次の世代である風里のいる現在の、二つの時間軸がかわるがわるに現れ、さらに、それぞれの深層心理にふれる場所での転換もある。視点の変化は、時空間を超えるのである。遺伝として伝えられているもの、というテーマに沿ったスケールの大きさなのだと思う。


 木々の丸い隙間から空を見あげる。子どものころは、よくこうやって何時間も空を見ていた。草や花を摘んで、それを揺らしながら空の下を歩いた。どこまでもどこまでも、歩いていけると思っていた。
 その一歩一歩がステッチになって、布の上に刻みつけられていく。葉っぱや茎の
形になって。わたしが、布のうえを歩いていた。(上巻、四二─四三頁)


 詩人でもある作者の、浮遊感のある描写。出自により運命づけられた人生をそれぞれがもがきながら模索する姿を、息をつめて見守るように物語を読み進めつつ、文章は刺繍のように、エピソードやアイテム、登場人物の心理変化が繊細に絡みあう。対話の中でなにげなくこぼれた言葉が、次のエピソードにつながり、さりげなく書かれていた記憶が、物語の重要な鍵として再浮上する。なんて巧緻な物語なのだろう。やわらかい文章のうねりの中で、緻密に伏線が張りめぐらされているのだ。細い糸、一本一本が、全体でその世界観を示す。
 本書の前身である『恩寵』で、私は「毛細血管まで物語がしみこんでくる。ずっとこの世界にひたっていたい。」と、推薦文を書いた。文庫化に際して、物語はさらに膨らみと厚みを増し、ずっとひたっていたかった世界の滞在時間が大幅に増えたことは、とても喜ばしいことだと思った。
 後に恋人となる日下が、恐竜の骨を見て、「生きもののなかでいちばんうつくしいのは骨なんじゃないか、って思ってた」「生きてるものが少し恐かったのかもしれない」(上巻、九〇頁)と述べたことを受けて、風里は「わたしは、生きてるもの、きれいだと思います」「みんな奇跡みたいにきれいだ、っていつも思ってました」という言葉を口からこぼす。そんな、命あるもの全般への風里の慈愛の念が、より切実で説得力のあるものとして迫ってくるような気がする。
 風里が生きているものすべてがきれいだと素直に感じるその心は、小説全体のテーマでもあるだろう。この世界で、光を纏って現れるすてきな登場人物の、心に残るセリフたちを抜き書きしてみたい。


 世界には、さびしいときにしかわからないうつくしさというものがあるのよね。街灯が作る光の輪とか、空き地に落ちている錆(さ)びたスプーンとか。満たされているときにはなんでもないそういうものが、すうっと心にしみこんでくる(上巻、一九五─九六頁)


 これは、葉の尊敬する鳥越先輩が、父親のことで落ち込んでいるときにしずかに語りかけた言葉である。無理に励ますのではなく、さびしさを知っている人だからこそ感じ得るものがある、という視点を手渡すだけで、深く癒されるだろう。


 花という言葉ができることで、花は世界のほかのものから切り離され、『花』というものになる。文字も同じだよ。どの文字も必ずしもその形じゃなくてもいい。それをある形に封じこめる。もともとあった無限の可能性を切り捨ててね。そして、時代を経るごとに字の形は少しずつ変わり、古い形の持っていたさまざまな意味も抜け落ちていく。(上巻、二一八頁)


 これも葉が受け取った言葉だが、発信者は、父親の友人で、彼の書のことを深く理解している中山さんである。文字の成り立ちとそれによる認識の変化について端的に語りつつ、人が生きていくことの比喩としても読めるような、示唆深い言葉だと思う。


 世界にはいろいろな形の生きものがいるんだって。その驚きをどこかにとどめておきたくて刺繍してるのかもしれない。(上巻、二六〇頁)


 わたしのなかに死んだ人の声がたくさんはいっている、ような気がするんです。その人が生きているのとはちがうけど、人が完全に消滅するってこともないのかなって思うし……。(上巻、二六五頁)


 この二つの文章は、日下との会話の中で語った風里の言葉。生きている(た)者の記憶をとどめるための意識が見えてくる。それは、いろいろなことを留めておきたい、又、留めておいてほしいと思う、多くの人の願いに共鳴するのではないだろうか。この感覚は活版印刷を通じて様々な人の心がつながる過程を描いた著者のベストセラー『活版印刷三日月堂』シリーズに通じるだろう。
 最後に、葉の親友で、葉の義理の兄と結婚した友子が、出産後にその感慨を述べた言葉を。


 わたしというのは、身体という器に所属して、身体が生まれてから死ぬまで身体を動かしものを思う、独立したひとつの意識のことだと思っていたけど、ちがうのかもしれない、とも思いました。祖先からずっとつながった意識みたいなものが、個人のわたしの奥に膨大にふくらんでいて、わたしが死んでも子孫に引き継がれていく。(中略)
 そのつながっていくものから見たら、わたしたちひとりひとりの生は、一回ごとの可能性なのかもしれません。(下巻、一〇二頁)


 身体が、命の器であること。一人の命は、一つで完結するものではなく、引き継がれていくものであるということ。そういった認識は以前よりあったとは思うが、この柔らかな心地よい文章で、長い物語のエッセンスの一つとしてこうして伝えられると、身体の奥まで深く沁みる心地がする。『三ノ池植物園標本室』は、今、生きて見ている地平を、ぐんと広げてくれる小説である。

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