Re-think 現代写真論――「来るべき写真」への旅

第11回  杉本博司
「写真の世紀末」から、江之浦測候所へ

1  写真の「分岐」と「変成」の中で

「私の半生は、夢見がちな私の妄想や仮想を、いかに私の網膜上に再現して実際に見える形にするか、という作業に費やされてきた。その為には写真という道具がいちばん適しているように思われたので、私はそう呼ばれることに違和感をもちつつも写真家と呼ばれるようになった。他に私のしているような仕事に対応するような適当な職名が見つからなかったのだ」(杉本博司『苔のむすまで』あとがきより)

 

 杉本博司こそ、この時代における「写真」の意味の「変移」と「本質」を語る上で、最も重要なアーティストの一人であると思われる。

「劇場」や「海景」の「写真」で知られるが、本人が自らを「写真家」と呼ぶことへ「違和」を感じるその中に、ことの重要性が潜んでいる。

 それは言い換えれば、何をもって写真がコンテンポラリーアートとして扱われるようになったか、その経路を知ることにも繫がるがるだろう。

 60年代、大学で唯物論経済学を学び、その後、世界放浪を経てヒッピーカルチャーとコンセプチュアルアートに沸きかえるアメリカ西海岸にたどり着き、そこで写真を学んだ杉本博司が、学校卒業とともに、ニューヨークへ移り住み、日本の古美術を扱うアート・ディーラーをしていたことはよく知られている。当初は異国での生活を支えるために始めた古美術の商いが、さらに彼に日本美術の霊性を拓くことになる。

 それらの全ての因縁を統合するものとして、彼が「写真」というオペレーションを選択したことが、何より稀有なことであると思われる。

 こんなルートで、「現代写真」「現代美術」を切り拓き、そして90年代末から新世紀にかけて、グローバルなアートワールドで成功した者が誰一人いないということは、もっと重視されなくてはならないだろう。

杉本博司『SEASCAPES』青幻舎、2015年

 この時代に杉本と並び重要な「写真家」であり、また類い稀なる「批評家」でもあるジェフ・ウォールは、若い頃にカナダのバンクーバーにいて、杉本同様コンセプチュアルアートの洗礼からアートに入った。彼は、ロバート・スミッソンやダン・グラハムらコンセプチュアルアーティストたちが、「コンセプト」を表現するために「写真」を使うことの意味を、早くに気づいた。

 ウォールはそれを「アマチュア写真のパロディ」と呼んだ。素人写真の「凡庸さ」「退屈さ」を意図的に選択することだ。

 例えば、ランドアートの「証拠」とも言うべきスミッソンの写真や、杉本博司の真ん中に水平線がくる「海景」、果てはウォーホルの、延々とフィックスで24時間ビルを撮り続ける映画『エンパイア』を思い浮かべてもらえばよいだろう。

「こんなの誰でも撮れるじゃないか」という声が聞こえてくる。

 しかし、写真の発展の歴史が常に「新奇」なるものを追い、「決定的瞬間」と「真実」によって、その強度を生成してきたことを考えると、「凡庸」の選択は、自殺行為であると同時に、「凡庸」という新たな美学の開拓という二重性を持つ。これは、写真にとっての大きな「分かれ道」「分岐」なのである。

 これは詳しくは別の章で書くけれど、ベッヒャー派や杉本博司のように、類型を美学的に進化させた者。ブルース・ナウマンやシンディ・シャーマンのように、パフォーマンスを凡庸なスタイルで記録するにとどまらず、映像そのものを作品化するためにパフォーマンスピースとして写真を構築する者。そして、そのオペレーションの変移の重要性に気づきつつも「合成」や映画的な「セットアップ」へと向かったウォールやグレゴリー・クリュードソンのような者。

 このような70年代から90年代への「写真の分岐」と「変成」の中で、杉本博司の「写真」は生成されたのだが、さらに大切なのは独自の「深化」である。ヴァリエーションの「変化」やテクノロジーの「進化」ではない。

 先に述べたように写真は「新奇」を求め、水平な旅をし続けてきた。被写体は、未知の大陸であり、アウトサイダーであり、戦場やアスレチックのフィールドであった。それは人間の宿業とも言うべき「欲望」の純化された衝動であり、極論すれば、差異を活用して飽くなき価値を生み出そうとするモダンな資本主義の運動性と根を同じくするものだ。

 しかし、杉本は、そのようには写真装置を使わない。先取りして書いてしまうが、彼は人工知能に人工知能の意味を考えさせるように、写真機というモダンな装置を使って、モダンな都市性の自己批評を行わせるのである。それは、写真が生まれ、世界を視覚化することで人間が認識するようになった、写真そのものの意味や可能性を垂直に旅することを意味する。

 杉本は、記憶や認知を旅するマシーンとして、写真を再定義する道に向かったのだ。

 いや、それだけでもない。

 杉本博司の根源にある時間感覚のことを語らなければならない。

 振り返ると世紀末は、「世紀末」という奇妙なエフェクトに覆われた季節であった。1999年5月、ニューヨークタイムズの紙面を、ある展覧会のレビューが大きく飾ったことを思い出す。

 それは、ジャパン・ソサエティー・ギャラリーで行われた「Crosscurrent: Masterpieces of East Asian Art from New York Private Collections」をめぐるもので、展評というよりニューヨーク在住の写真家・杉本博司と、彼が私蔵し、出品した3つの美術品の関係についての論考だった。

 御神体である鹿を描いた神道曼荼羅、小さな丸い木の横に肉筆で文殊菩薩像を描いた懸仏、そして13世紀の名僧、明恵が綴った『夢記』の断簡。杉本の選択と審美眼に舌を巻く。

 ニューヨークタイムズでのインタビューの冒頭、杉本博司はこう言うのだ。

「私は、私が撮った写真の質の基準を、収集した美術品と比較することでセットしようとしているのです」と。

 90年代のことだが、杉本博司のニューヨークの部屋を訪ねたことがあった。1階は暗室、そして2階が彼のアトリエ兼オフィス。真っ白な壁のシンプルな部屋の壁際に1か所、床の間風にそこだけ半畳ほど畳が貼られた台があった(今は変わってしまったが、日本の白金にある彼の自室も同様のつくりが施されていた)。その壁に、2つの作品があった。

 一方は数百年を経た墨跡の名品であり、そしてもう一方は、杉本の写真シリーズ「海景」の1枚だった。それを見ていると彼は僕にこう言った。

「やっぱり一番強敵なのは書かな。室町の夢窓の字なんか、毎日かけて観ているうちにどんどん存在が大きくなっていく。普通、イメージというものは摩滅していくものなのにね。骨董を扱っていると価値の基準やスケールが変わっていくんだ」

 いかにすれば現代において、夢想疎石の書のような「価値」を帯びたものをつくることができるのだろうか?

 古美術品は、小さな人間の力だけではなく、時間を味方につけ、生成される。

 観念やヴィジョンだけではなく、いかにすれば、何百年も生き長らえるものを生成しうるのか。

「神社に御神体の石とかある。やっぱり、神が宿る石というのは、そこらへんに転がってる石と違って特殊なクオリティーがある。アートは、工芸的なレベルの高いところへ行かないと、観念なんて宿ってこない。そのために最初から自分に課している課題は、自分の“目”をどのへんのレベルに設定するかってこと」

 彼は早くから平安時代や鎌倉の骨董を買ってきて、枕元において観続けることを日課にしてきた。果たして、そんな現代写真家、アーティストが他にいるであろうか?

 空と海が二分された海景の写真。

 しかし、そこをよく見ると、微細な白い波があり、雲の動きがある。手で現像をしたのではムラが発生してしまうので、彼は歯医者の機械などを設計する工業デザイナーに特注し、現像液がランダムに、一定方向に偏らない攪拌装置を開発していた。

「波の一つひとつが、神の依代(よりしろ)になるぐらいのクオリティーを帯びなくっちゃ」

 モノとトキとコト。現代美術でありつつ、古典的マスターピースであること。そのオペレーションのために、写真/写真機をタイムマシンとして活用すること。

「コンテンポラリーアートとしての写真」。それもまた世紀末をまたいで本格化した事象であった。そのような時代に先行して、杉本博司がどのような展開を見せたのか、さらに検証してみたい。

Sea of Japan,Oki 1987 © Hiroshi Sugimoto

2  写真の世紀末以降/「無情」ではなく「無常」へ

 

 先日、熱海のMOA美術館で「信長とクアトロ・ラガッツィ 桃山の夢と幻 + 杉本博司と天正少年使節が見たヨーロッパ」展(2018年)を観た。

 MOA美術館は、創立者・岡田茂吉の遺志を継ぎ、熱海にて1982年に開館した美術館だが、杉本が建築家・榊田倫之と共同主宰する「新素材研究所」によって、2017年2月にリニューアルオープンが果たされた。その時も人間国宝の漆芸作家・室瀬和美によるメインエントランスドアや、左官技術の粋を込めた幅20メートルにおよぶ黒漆喰の壁、樹齢数百年の行者杉を使った框(かまち)などを導入した、現代と伝統が見事にかけ合わされた、タイムレスな空間を創出していた。そして同時に、MOAが所蔵する古美術の名品と、杉本博司の写真による「海景-ATAMI」の展示が行われた。

 古美術と写真のリエゾン。その試みをさらに発展させたのが、「信長とクアトロ・ラガッツィ 桃山の夢と幻 + 杉本博司と天正少年使節が見たヨーロッパ」展であった。

 1534年に生まれた織田信長は、天下統一を目指し、上洛にあたっては、唐物の「名物狩り」を行なった。なんとこの展覧会は、信長が所持した、初花茶入や新田肩衝茶入など名物が全て一同に揃うという奇跡のような機会であり、それに加えて、信長の寵愛を受け、安土城の障壁画を描かせた狩野永徳の「花鳥図押絵貼屛風」や「洛外名所遊楽図屛風」が並ぶ「桃山の美学/眼」が支配する展覧会となった。

 そして、天正遣欧少年使節である。信長の死後、日本巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノが布教の成果をスペイン国王フェリペ2世とローマ教皇に知らせるために、伊東マンショ、千々石(ちぢわ)ミゲル、中浦ジュリアン、原マルティノの4名を派遣した。杉本博司は、たまたま「劇場」シリーズの新撮のため訪れていたヴェネチアの劇場テアトロ・オリンピコで、天正遣欧少年使節歓迎の場面を発見する。

 それが起縁となり、自分が撮影してきた足取りを振り返るに、今まで撮影してきたイタリアの建築が、天正遣欧少年使節に重なる場所と多いことに気づいた杉本は、それを補助線としてさらに撮り進めるプロジェクトに取りかかる。「ヨーロッパを初めて見た日本人使節団のまなざしと、自らの視線を重ねること」と、杉本は、展覧会オープニングのスピーチでもその意図を語っていた。

 彼が新作として撮影した、深夜のパンテオンやヴィラ・ファルネーゼの螺旋階段室、フィレンツェ大聖堂、「天国の門」などは、すべてモノクロームで、明確な細部が表されていた。

 しかし同時に、そこには、形が溶けてまさに記憶の彼方の映像のようになった、ピサの斜塔の写真も並んでいた。その制作年代を見ると2014年であり、まだあの「建築」写真シリーズが現在進行形で続いていたことに、少し驚かされた。

 今「建築」写真と言ったが、それは90年代末に始められた杉本博司の連作「Architecture」のことだ。

 ときおり、「写真は未来を予言する」ということが発生するが、杉本の建築写真もまさにそれに当たる。彼は1998年に、ギャラリー小柳で建築写真展を行うのだが、その3年後に9.11のテロがあり、自らが撮影したワールドトレードセンタービルが灰燼(かいじん)に帰すとは、もちろん知るよしもなかった。

 ギャラリー小柳での個展にあたり、印刷されたパンフレットでは、光栄にも僕が対談のお相手に指名された。この対話は、当時の杉本博司の意図がよくわかる。長い対談なので抜粋にて失礼する。(1998年4月12日収録)

 

後藤 今回はどういうきっかけで建築物を、それも「twice as infinity」の手法、無限大の「倍」の焦点で撮影することになったんでしょう?

杉本 そもそも、このシリーズをやろうと思ったのは、MOCA(ロサンゼルス現代美術館)で『建築の20世紀展――終わりから始まりへ』という展覧会が企画され、僕に20世紀の建築物を撮影してほしいという依頼があったんです。僕はコミッション・ワークはやらないし、そういうテーマを自分でやることは全く考えていなかった。ところが、美術館から送られてきた建築物の候補リストを見ているうちに、「twice as infinity」の手法でアプローチ出来るんじゃないかと思ったんです。建築家が建築物を造る以前、初めに浮かんだスケッチやイメージみたいなものが写るんじゃないか、建物の中での時間が逆行していくイメージが浮かんだのが最初です。(中略)まずありとあらゆる「撮影された建築写真」を集めたんです。有名写真家から素人写真家まで色々見る。それに加えて図面もチェックしながら、完全に建物のシミュレーションを頭の中に作っていくんです。太陽の光がどこからはいるとかまでね。そうやって、もらったリストの建築物を自分で選び直しました。例えば、グロピウスの靴工場に行くには、ハノーバーまで行き、そこで車を借り、2時間ぐらい迷いながらドライブする。でももう頭のなかで完全にできてるから、ただ行って撮るだけなんです。

後藤 まず、『すでに写真になった建築物』の調査があるわけですね。

杉本 技術的な問題がはっきりわかりますよね。周りにどんな建物があるかとか。あらゆる角度から総合的に判断して、その建物を撮るとか、撮らないとかが決まってきて濾過されていくんです。

後藤 どの建物を撮るかという、はっきりした基準はあるんですか?

杉本 彫刻的なクオリティーの無い建物は撮れないですね。その建物特有のキャラクターがつかめない、中心がなくてはぐらかされてしまう建物は難しい。特にポストモダンのものは、逆に撮れない点がすごいことだとは思いますが。

後藤 ポストモダン建築というのは、建てることの「根拠」を無くす、「ロゴス」を排すること、ある種の表面性のコラージュだからでしょうね。杉本さんの今回の建物は、モダニズムに集中してる所がありますね。

杉本 ヨーロッパの場合、バロックだとかルネッサンス様式、復興ギリシャ様式だの、各世紀・各時代の文化を代表する建築スタイルがある。すると20世紀を考えてみると「モダニズム」という事になるんだろうと思ったんです。(中略)建築は、圧倒的に力をふるうための権力装置みたいな役割をずっと歴史的にしてきた。今回この写真をドイツの出版人に見せた所、さぞ有名建築ばかりだから、輝かしいサクセスストーリーとして写っているのかと思っていたらしいんだ。見てみると、なんか非常に悲しいという。20世紀文明は、こんなに悲しいものだったのかという、ある種のペシスミスティックな批評であると言うんですね。

後藤 でも、確かに杉本さんの全ての写真に共通する「悲しさ」が今回もあります。

杉本 楽天的ペシミズムかな(笑)。

(中略)

後藤 今回のシリーズを始めるにあたって、杉本さんが最初に撮ったのは、フィリップ・スタルクが建てたアサヒ・ビール本社だったでしょう。1回めの撮影のときからこれはできると思ったんですか?

杉本 あれは周りに人がたくさんいたんだけど、撮ってみたら溶けちゃって建物しか写っていなかった。

後藤 人間が死滅したあとの、建物だけ残った地球みたいな印象もある。(中略)

杉本 最初に、建築家の頭の中に浮かんだイデアを写せるんじゃないかって言ったけれど、「twice as infinity」の手法によって10年や20年の時間を飛ばすことができるのね。建物の真髄みたいなものは、出来たてのときは生すぎて見えにくかったりする。ディズニーランドだって、あれが倒産し、50年も100年も経って廃墟になっていたら非常に撮りやすくなるってことはある(笑)。

後藤 「twice as infinity」で、建築を「骨董化」するわけですね。

杉本 そういうのを骨董業界では「古色をつける」って言うんだよ(笑)。

後藤 「骨董」っていうのは一種、時間を感じることの訓練だと思うんですが、杉本さんはそのプロセスを20世紀建築でやっちゃってるんでしょうね。

杉本 風景を見ているときでも、いつも建築がなかったときのことさえ思っちゃうしね。(以下略)

 

 無限の倍の焦点で撮ること。

 その像を人間の脳はイメージできない。

 それはデュシャンのような「もし○○が与えられたとせよ」という仮定による思考実験である。

 しかし写真装置は、それを可視化する。

 杉本博司にとって重要なのは、浮かび上がる形態の造形性以上に、やはり写真がタイムマシンとして、つまり記憶の古層にワープすることを可能にするということではないか。

「建築」写真のシリーズは、世紀末において20世紀建築を振り返る意図で進んだプロジェクトであった。杉本は、それらモダニズムの産物を写真装置で撮らせる思考実験を行なった。そこには批評性が見事に浮かび上がる。しかし、9.11の未曾有のカタストロフィーを経て、本体の建築物は消滅し、そして「影」だけが残った。

 建築の世紀末、写真の世紀末、人類の世紀末。

 いやもはや、事態は単なる世紀末の「無情」などでは済まされないということを示している。

 人類の「無常」である。

 ミレニアムを締めくくる杉本の建築写真プロジェクトは、今から振り返れば、もっと大きな、例えば人類の消滅すらも、予言する作業になっているのではなかろうか。

 なんと、写真の恐ろしき定め。

 杉本という鏡に、さらに何が写るのか。

 

3  「写真」から「能の時間」へ

 

 2019年の秋に、杉本博司はパリ・オペラ座350年の記念公演としてバレエ『At the Hawk's well/鷹の井戸』の演出・美術を行う。これは作家 ウィリアム・バトラー・イェイツが、フェノロサの遺した能についての資料からインスパイアされてつくった原作に基づくものである。『鷹姫』など、創作能ヴァージョンは様々に上演されるものの、かつてロンドンで上演されたオリジナルなダンスに近い形では初演以来かもしれない。

 建築ばかりか、杉本の古典芸能への傾倒を、写真家の余儀などと、決して拙速に判断してはならない。近松の世話物を人形浄瑠璃文楽として忠実に舞台化した『杉本文楽 曾根崎心中』(2011年)は、マドリード、ローマ、パリ、東京、大阪の観客を魅了したし、人間国宝・鶴澤清治と組んだ『杉本文楽 女殺油地獄』(2017年)、あるいは『ディヴァイン・ダンス 三番叟』(2018年)を演出するなど、杉本博司にとって実に重要なフィールドとなった。

 瞬間的な刹那の中、古代の人間のイマジネーションを検証する装置という点で、杉本にとってそれは、写真における時間の問題の拡張、応用編に等しいのだ。

 杉本が舞台芸術に踏み出したのは、能においてであった。それも因果というか、新世紀の行方を宿命づけた2001年の9.11直後の10月、杉本はニューヨークのディア・センターで予定していたショーを躊躇いながらも強行した(ブレゲンツ美術館での個展を巡回させた)。厄禍の真っ只中において、アメリカ市民が喪に服しているときに、彼は自身の個展の一部として、能 “Noh Such Thing as Time”「屋島」を上演したのである。それは舞台すら杉本が設計した作品(装置)であり、能舞台につきものの鏡板の代わりに自作の「松林図」を見立てていた。伝統的な能空間ではなく、全く杉本の解釈によるインスタレーション作品であった。このときの心情を杉本は、自著『苔のむすまで』の中でこう語っている。

「私をこの異常事態での演能へと決心させたものは、他でもないその曲のテーマにあった。能“屋島”は修羅能と呼ばれる。修羅能は物狂い、鬘物、といった能のひとつの範疇なのだが、戦場で無念のうちに死んだ者の霊が浮かばれずに旅の僧に昔語りを聞かせる、というのが定番である。しかしこの能“屋島”は勝修羅と呼ばれる特異な曲で、屋島の戦いで勝った義経の霊が成仏できずにさまよい出て、旅の僧に弓流しの語りを語るという筋である」

 崩れ落ちるWTC。そして、戦場という修羅で勝者も敗者も成仏できない「屋島」の世界。

 その翌年、直島の家プロジェクト「護王神社プロジェクト」に指名された杉本は、ここにおいても崇徳院の怨念を調伏し、神社を鎮護するために能の奉納として、ニューヨークと同様に「屋島」を上演したのである。

 護王神社は、古墳時代における磐座(いわくら)信仰と神道を繫ぐものとして、杉本博司における「日本的霊性」へのアプローチが全面化した、記念碑的な「作品」である。

 直接質問したことはないけれど、やはり9.11というカタストロフを間近に体験したことで、杉本博司の中における小さな「写真」「アート」というものが変成してしまったのではなかったか。もはや、近代芸術の思考の枠組みによる小さなカテゴリーの差異よりも、もっと大きなこと、時空の揺らぎに向かったのではなかったか。

 杉本博司は、自著『苔のむすまで』の中で自問自答もしている。

 

Q:あなたにとって能とはなんですか?

A:時間の流動化です

Q:といいますと。

A:時間は過去から未来への一方通行ですが、能は時間から自由なのです。

 

4  小田原 江之浦測候所にて

 

 小田原の根府川の海の前に座ったとき、実に腑に落ちる場所にいるのだと、気がついた。

 そう。まるで夢に見た場所に、現実世界で巡り合ったような倒錯の瞬間である。

 杉本博司が20年をかけてつくった江之浦測候所は、雲一つなく晴れていた。昨夜日本を縦断した台風24号は、もはや東北の洋上に去ってしまっていた。

 赤錆びた鉄板で囲われた地下隧道の果てを見ると、そこには海と空が見えた。それはまさしく杉本博司の代表作である「海景」そのものだった。

 あらためて言うまでもなく、江之浦測候所は杉本博司の最大の「作品」である。すべての作品の売り上げによる財産を一文無しになるまで投入し、根府川の断崖の地1万坪を購入して実現され続ける作品。「これが実現できて、思い残すことは何もない」と自ら語るほど。

 長い2本の隧道があり、1本は、ガラス張りの美術館「夏至光遥拝 100メートルギャラリー」。長さは100メートルあり、柱なくガラス面が続く。そして構造壁は大谷石の自然石。一直線の壁面には海景の写真がフレームに入れられ展示されている。

 もう1本は先に挙げたものだが、70メートルの「冬至光遥拝隧道」。この地下の隧道は、冬至の朝に、太陽光が貫くようにつくられている。リチャード・セラの彫刻を連想する人もいるかもしれない。

 敷地内には、移築してきた門や待合。様々な石材による庭園。石舞台や光学硝子舞台。化石を展示したトタンばりの東屋など、さながら時空とマテリアルが寄って組み合わされた、まさしく「数寄」を尽くした佇まいである。

 この装置の中で、これからいかなる様々な「遊び」が行われるのであろうか。

100メートルギャラリー 先端
The tip of the Summer Solstice Observation Gallery © Odawara Art Foundation
冬至光遥拝隧道
Winter Solstice Observation Tunnel © Odawara Art Foundation

 しかし、大切なのは、一見すると石庭美術館、あるいは海景美術館に見えるこの「装置」全体が、写真的思考の拡張によりできあがった「測候所」であるということだ。

 しかるに、測候所とは何であろうか。

 岩の上に座って海を見ながら、再度想起する。

 1999年にインタビューをして長い杉本論を書いたことがあった(『VOGUE』日本版 創刊準備号「写真に神が依代う」)。その時は、世紀末だったし、カタストロフも、舞台芸術への展開も、日本的霊性への全面展開も、まだ今ほどではなかった時期だった。

 杉本博司は、様々な「写真」作品をつくっていた。

 映画1本分を撮影し、逆にただ真っ白なスクエアが浮かび上がる「劇場」シリーズ。自然史博物館の剝製やワックスミュージアムの人物を撮った「ジオラマ」。そして、世界中の海を同じ構図で撮影し続ける「海景」。三十三間堂の千体仏すべてを撮影した「仏の海」etc.

 人間の目にはシャッターがない。だからイメージを覚え続けられない。人間は写真がないと世界を捉えられない。写真が誕生する前と後では全く人間が変わってしまった。人間の文明のすべては、目玉と脳の欲求の中で生まれている。

 これらのコトバは、杉本博司が一貫して口にするコトバであり、その問いは、今も片時も彼の頭を去らない。眼と脳の回路の仕組み、その相関する謎を提示する方法が写真であったのだ。それが拡張し、この「場所」にたどり着いた。

 建築に当たって、杉本は次のようなステイトメントを書いている。

「悠久の昔、古代人が意識を持ってまずした事は、天空のうちにある自身の場を確認する作業であった。そしてそれがアートの起源でもあった。 新たなる命が再生される冬至、重要な折り返し点の夏至、通過点である春分と秋分。天空を測候する事にもう一度立ち戻ってみる、そこにこそかすかな未来へと通ずる糸口が開いているように私は思う」

 江之浦測候所は、杉本博司の「邸宅」でも、普通の意味での「写真美術館」でもない。

 彼が見つけたことは、大仰に聞こえるかもしれないが、「この世にアートによる希望の場所をつくる」ということなのだ。「未来へ通ずる糸口」なのだ。

 ゆっくりと測候所を彷徨った。まず似ているなと連想したのは、ジェームズ・タレルのローデンクレーターだった。タレルは、ネイティブ・アメリカンの遺跡からヒントを得て、古代天文台のようなランドアートをつくり続けているからである。

 そして次に、ロスコ・チャペルが浮かんだ。メディテーションの場所だ。確かに江之浦測候所の石の庭と対峙していると、意識がシフトする。しかし、ロスコ・チャペルが内に閉じているのに対し、杉本の装置は、外に「禅機」が偏在している。

 また、マルセル・デュシャンの「遺作」のことも頭をよぎった。デュシャンは妻のティニーの他には誰にも告げず、密かに装置をつくったが、杉本博司は、遺作を公開制作し続ける道を選択したのではないか。

 しかし結局、何にも似ていない場所だと思い当たる。なぜなら杉本博司自身、この江之浦測候所という作品が近代的な意味での「作品」として永らえることを、作品の未来としていないからだ。

 それはどういうことか。

 江之浦測候所から帰ってきて、杉本さんにあらためてインタビューした。そのときに彼はこう言った。

「5千年か、1万年経ったら、ガラスの壁なんてとっくになくて、かろうじて鉄の壁や石の壁が残っているぐらいだろうね。一体この遺跡が、何のためにつくられたのか。未来の人々にはどう見えるだろう」

 彼の中には、すでに未来の廃墟が見えている。

 さて、どうやって彼は、写真を使ってそれを測候するのだろうか?

「もうプリントもフィルムもストックは1年半分しかないんだよ」と笑った。

 僕が、「ところで、この江之浦測候所が、杉本さん自身のお墓になる可能性もあるんですか?」と聞いたら、意外そうな顔をして、「いやあ、考えたことなかったなあ」と、まるで人ごとのように、さっきより、もっと明るく笑ったのだった。

 さて、写真の道行きは、何処へ。