荒内佑

第26回
俺のサブスク元年

4th Album『POLY LIFE MULTI SOUL』が各方面で大絶賛!!! 今、もっとも注目されるバンドceroのメンバーとして多くの楽曲で作曲、作詞を手がける荒内佑が、〈日常〉とそこに流れる音楽の話を綴る大好評の連載。 更新は毎月1回、第4水曜日になります。

 
 「嫌いなものを好きになる」は、「好きそうなものを好きになる」より、ボクシングでいうなら引きの力が大きいので、パンチとして強い。坂口健太郎さんの顔ファンが、羽生結弦さんを好きになっても何ら不思議ではないが、ある日、桐谷健太さんに夢中になる、という方が経験として鮮烈である。どういうことかといえば、僕は今年、嫌いだった武満徹(という現代音楽の作曲家)が好きになった。「ノヴェンバー・ステップス」って曲で、尺八と琵琶の邦楽器と、西洋のオーケストラを組み合わせて有名になった人です。どうして好きになったのか。前回書いたように今度引っ越すのだけど→転居先にアップライトピアノを置けるかなと一瞬思案した→どんな部屋の配置がいいだろうか→そういえばタケミツがピアノを良い塩梅で仕事部屋に設置してたな→画像検索→タケミツのエッセイを再読→久しぶりに聴いてみるか→めちゃ良かった→という具合である(「ノヴェンバー・ステップス」と「系図」はやっぱり嫌だけど)。
 ところで嫌いという割には、エッセイを持っていた、しかもかつて結構読んでいた、というのがキモである。


 現代音楽というのは、馴染みがない人には「19世紀末~20世紀初頭にヨーロッパを中心に勃興したコンセプトがガチガチで小難しいクラシックのジャンル」といえばいいだろうか。僕は学生時代、今よりもずっと熱心な現代音楽のリスナーだった。CDを買い漁り、コンサートに行き(シュトックハウゼンが生前最後に来日したコンサートで「少年の歌」を聴いたのがプチ自慢である。一部では有名な話、テープを再生するだけ)、そして半分はよく分からなかった。もちろん好きなものも沢山あった訳だが、それにしても少し前まで高校生だった奴にとっては、裸で樹海を歩くようなもんである。その時、自分が欲したのは件のエッセイや本だった。ディスクガイドよりも、作曲家に移入するためのエピソード。音楽のサイドストーリーである。例えばGHQに誤射された作曲家。かつてレジスタンスで銃弾により片目を失くした作曲家。武満だったら戦中、蓄音機でこっそりと聴いたシャンソンに影響を受けたエピソード。ナチスに捕らえられた作曲家が収容所内で作曲した逸話。もちろん作曲技法の数々についても。だけど、当時の自分は清純だったのだろうか。音楽の周辺に張り付いた情報を消費するばかりで、なかなか「音楽を音楽として」楽しめないもどかしさがあり、自分の行いを不潔に感じるようになった。そうして次第に現代音楽から遠ざかった。一応いたいけな青年を擁護しておくと、意味ばかりが過剰で強度がない作品が多いジャンルである。文脈にがんじがらめになってしまう「エヴァ」のファンみたいなもんだ。


 市場に出回っている音楽を「聴くこと」と「消費すること」は不可分である。別に現代音楽じゃなくても、例えばBTSの「音楽だけ」聴いているファンはこの世にいないだろう。メンバー個人のニュースやゴシップだけでなく、MVも、ダンスも、ライブのMCも、ファッションも、消費の対象である。
 自分だったらレコ屋に行ってレコードを掘る時は、ジャンル分け、ジャケットのアートワーク、フォント、プロデューサーやプレイヤーのクレジット、レーベル、レコーディングスタジオ、発売年数、といった音楽に付帯する情報を必死に読み取る。その情報が大なり小なり、音楽の聴き方に影響を与えている。
 そもそも音楽が消費財として「出版」されたのは16世紀のイギリスで、最初は楽譜のレンタルだった。たしか砂原良徳さんが「その楽譜の表紙に<花>が描かれていたら、その時点で音楽とは別の価値が与えられる」と仰っていた。エピソード、サイドストーリー、文脈、呼び方は何でもいいが、それらは<花>のヴァリエーションなのかも知れない。


 アップルミュージックやスポティファイといったサブスクサービスは、CDやレコードに比べて、<花>のような情報が極端に少ない。僕はそういった情報をほぼシャットダウンして音楽に接するのはストイック過ぎると感じていた不貞なリスナーである。サブスクの良し悪しは知っているつもりだけど、じゃあさ、何の文脈も知らずにタケミツを直接耳に突っ込むのは難しくないか? と思っていた。
 タダ同然で音楽が配られ、そこに絡む情報もほとんどない。あるいは音楽「そのもの」が情報になっているともいえるが。いずれにせよ、かつての消費財としての価値はほとんどない。音楽を生業とする者としても、リスナーとしても、そういう理由で僕はサブスクを遠ざけていた。


 しかし、「何の文脈も知らずに音楽を直接耳に突っ込む」のはもちろん悪ではない。それは16世紀以前とまでいかなくても、<花>が描かれ始めた頃の音楽の在り方に近いように思える。難しいかどうかはいったん措いておいて、例えば音大生とインテリの所有物としての現代音楽は、そこから逃れる可能性が格段に上がった。僕はある日、そこに風通しの良さを感じるようになったのである。
 先日、自分がやっているバンドのワンマンライブがあった。自分はステージの中央の方を向いてキーボードを弾いているので客席を凝視できないのだけど、何曲か演奏しているうちに、いつもと客のバイブスが違うな、と感じた。やたら客層が若いし。何が違うんだろう、別段サイドストーリーとか期待されていないというか、「消費感」が希薄というか……もしかして、これってサブスクがもたらした雰囲気ではないか……このカラッとした感じ。もちろん自分の思い込みなのはわかっている。でも、0.5%くらいは影響あると思うんだよな、プレートがずれて地殻変動が起きるみたいに。


 数日後、僕は8年間使い続けた携帯を機種変して今更スポティファイを始めた。そして、夜な夜な学生の頃に聴きそびれた現代音楽を検索しては「これもあんのかーい」と新しい携帯に向かって独りごちている。かくして今年はタケミツ元年とサブスク元年となった。


 ではまた来年。

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