piece of resistance

34 演歌歌手

なんでそんなことにこだわるの? と言われるかも知れないが、人にはさまざま、どうしても譲れないことがあるものだ。奥様とは言わない、本に書き込みはしない、ご飯は最後の一粒まで食べる、日傘は差さない……等々。それは、世間には流されないぞ、というちょっとした抵抗。おおげさ? いやいや、そうとは限りません。嫌なのにはきっとワケがある。日常の小さな抵抗の物語をつづります。

 時は夕暮れ。
 処は夜行列車。
 一般車両の通路側席で巡業帰りの疲れを後れ毛から滲ませていた愛曽野椿子に、半白(はんぱく)の男がそっと歩みより、ためらいがちに「すみません」と声をかける。
「愛曽野椿子さんですよね。私、ファンなんです」
 表情を一変させ、「まあ!」と艶やかに微笑む椿子の目尻のしわには、演歌一筋三十年の芸歴が如実に刻みこまれている。
「それはそれは、おおきに。お父さん、うちの曲をご存じで……?」
「知ってますとも。とりわけ『夜霧にけむる港の恋かもめ』は大好きで、カラオケでもよく歌わせてもらってます」
「まあ!」と椿子は満面の笑みを微塵も崩すことなく、むくんだ両手で男の手を包みこむ。
「『夜霧にけぶる港の恋つばめ』を歌ってくれはってるんですか? ほんまにありがとうございます。どうぞどうぞ、これからも愛曽野椿子をよろしゅうお願い申しあげます」

 時は昼下がり。
 処は地方テレビ局。
 素人のど自慢大会の審査員として招かれたものの尺の都合で持ち歌は披露させてもらえず収録を終えた愛曽野椿子に、赤いセーターを肩にひっかけた三十前後とおぼしきプロデューサーが歩みよる。
「愛曽野さん、お疲れ」
「まあ、田村さん!」
 振りむく前から椿子の腰はほぼ九十度に湾曲している。
「こちらこそ、ほんまにお疲れ様でございました。このたびはお世話になりました」
「悪かったね、新曲、歌ってもらえなくて。北川さんがさ、どうしても二曲歌いたいって言いはるもんだから」
「なんも、なんも。大先輩の名曲を二曲も聴かせてもろて光栄です。これぞ役得ちゅうもんやと思うとりますわ」
「俺は買ってるよ、愛曽野さんの新曲、『さあ乾杯、心ばかりの祝い酒』だっけ。コンサバティブな曲調が逆に新しいよね」
「まあ!」
 信じがたいとばかりに頬をつねった椿子の目は涙で濡れている。
「田村さん、『ああ完敗、心残りの独り酒』を聴いてくれはったんですか? 田村さんみたいなお忙しいお方が……ああ、ほんまに、ほんまにありがとうございます。どうぞどうぞ、今後とも愛曽野椿子をよろしゅうお願い申しあげます」

 時は夜更け。
 処は大阪難波の銭湯。
 営業中に酔客からべたべた触られた肌を濡らしタオルでごしごし擦りながら、「故郷も男も今では哀しいダムの底~」と新曲のサビの部分をくりかえし練習していた愛曽野椿子に、大仏パーマのおばちゃんが「なあなあ、あんた」と声をかける。
「あんた、あれやねんな、あれ……愛曽野桜子や」
  まあ、とすっぴんの顔をひくつかせながらも椿子は精一杯の笑みを湛えてみせる。
「お姉さん、うちのことをご存じで? 愛曽野椿子の曲を聴いてくれはったことあるんですか?」
「あるもないも、あんた今、歌うとったやないの。最近ようパチンコで流れとる曲や。朝から晩まで毎日何遍も聞かされて、もう耳にタコができとるわ。なんやっけ……そやそや、『哀愁と豊胸と餞別のララバイ』や」
「まあ!」
 冷えた肌の上で石鹸の泡がしぼんでいくに任せつつ、椿子は風呂場のエコーを最大限に生かして声を張りあげる。
「お姉さん、『哀愁と望郷と惜別のバラード』を、そんなにしょっちゅうお耳に入れてくれはっとるんですか。ああ、ほんまに、ほんまにほんまにほんまにありがとうございます。皆さま、どうぞこれからも愛曽野椿子を、愛曽野椿子をよろしゅうお願い申しあげます」

 時は黄昏。
 処は自宅アパート。
 年代物の携帯電話を片手に愛曽野椿子は独り逡巡をくりかえしている。
 作詞家へ電話すべきか。それとも事務所の社長にすべきか。
 思い悩んだ末に椿子は幾分ハードルの低い後者の番号を押す。
「……社長にはほんまお世話になっとるさかい、こないなお願いするのは気ぃが進まへんねんけど、そろそろ、ええかげん、作詞家の先生に言うたったほうがええんちゃうやろか。憶えやすい曲名ちゅうのはヒット曲の必須条件ちゃうの?」