ちくまプリマー新書

「障害学」、はじめの一冊に
渡辺一史『なぜ人と人は支え合うのかー「障害」から考える』

PR誌「ちくま」から、評論家の荻上チキ氏による 『なぜ人と人は支え合うのか 「障害」から考える』(渡辺一史著、ちくまプリマー新書、12月刊)の書評を公開します。障害の問題を考えるに際し、初めて読むのにうってつけの、ありそうでなかった本と紹介くださっています。

 ああ、とうとう、という一冊に出会えた。

『こんな夜更けにバナナかよ』(北海道新聞社、のちに文春文庫)の著者として、介護の実態をユーモラスに描くと同時に、障害者の当事者主権について、多くの読書家の蒙を啓いた渡辺氏。彼の新作は、障害者支援や障害者運動の現場から汲み上げられた数々の知見を、とても優しく諭すような仕方で、しかしこれまたユニークなエッセイとして仕上げられている。

 私事だが、僕の人生にはいくつかの社会理論との出会いが大きな影響を与えている。「障害学」はその重要な一つだ。と、そんな話を例えば大学生あたりにすると、「じゃあ、オススメの入門書はなんですか?」と聞かれる。他の分野については何冊か例示してみせるのだが、障害学については「これぞ」という、幅広く土地勘をつかめる一冊がみあたらずに難儀していた。

 もちろん、少し深く踏み込んだ書籍としては、つらつらとあげることができるのだが、本を薦めろとオーダーしてくる人には、大抵「一冊だけで、それなりに喋れるようになりたい」という欲望が見え隠れするので、何冊かあげた後、「その中から一冊選ぶなら?」と畳み掛ける。

『なぜ人と人は支え合うのか』は、障害学のキー概念や、障害者運動の歩みを、渡辺氏が個人的に体験し、思索した痕跡を辿りながら血肉化させていくことのできる本だ。何より読みやすく、面白いのがいい。リコメンド決定!

 二〇一六年の相模原市津久井やまゆり園での障害者虐殺事件を受けて、優生思想とは何かが改めてクローズアップされた。容疑者の「思想」にばかり着目されるが、そもそもこの社会には数多くの障害者が生きており、そして彼らに対する差別は蔓延している。時には露骨に、時には間接的に。

 差別とは、人が直接誰かを攻撃したり排除することに止まらない。相手がいないかのように振る舞うことも差別の最たる例だ。健常者の帝国は、これまで「人は段差があっても足で越えられる」といった類いの自明視をし、障害者がアクセスしやすい社会の構築を怠ってきた。これもまた差別であり、無知と偏見が横たわっている。

 渡辺氏は本書で、様々な当事者の生活を活写する。それも、わかりやすい障害者像を壊すような仕方で。様々な要求を、渡辺氏に、あるいは社会に対して要求する当事者の姿は、人によっては「わがまま」「身の程知らず」と扱われてしまう。

 しかし渡辺氏は、その都度立ち止まり、思索する。なぜ、健常者なら当然に行えることが、障害者には許されないのか。わがままだということにされてしまうのか。時に我慢を強いられることすら、しようがないことであり、社会は変わらないのだからお前が馴染めといい、時には腹をたてる人さえいるのはなぜなのか、考えていく。

 障害学では、インペアメントとディスアビリティを分ける。例えば足がある人とない人がいる。足がある人は歩ける、足がない人は歩けない、というのは本当だろうか? 足がないというインペアメント(症状)と歩けないというディスアビリティ(能力欠如)は同じことなのだろうか。そうではない。

 電動車椅子があれば、あるいは介助者がいれば、足がなくても移動できる。場面によっては這って移動することもある。移動できるのに、わざわざ「歩けない」と表現する必要はない。そして、その移動を妨げるのは、「足がないこと」ではない。

 車椅子が手に入れにくい。街に段差が溢れている。建物がバリアフリーになっていない。具体的なオーダーを伝えても企業などが配慮をしてくれない。こうしたことから、障害は個人に宿るのではなく社会に宿ると捉えられる。

 かつては「過激な運動」だと位置付けられていた様々な活動は、今では多くの人に生きやすい社会を提供している。障害者運動があったからこそ、ノンステップバスや駅でのエレベーター設置が進められた。

 本書はさらにあなたに問いかける。本書の登場人物たちとともに、あなたはどんな社会を作る当事者になるのか、と。読んだ上で、応答してほしい。