ちくま文庫

笹井宏之『えーえんとくちから』解説

彗星のように短歌界にあらわれ、2009年、26歳の若さで惜しまれながら亡くなった夭折の歌人・笹井宏之。その透明でやさしく、繊細にして鋭敏な数々の短歌はいまも多くのひとに読まれ続けています。2019年、没後10年を機にベスト歌集である『えーえんとくちから』がちくま文庫に収録され、解説を笹井さんが敬愛した穂村弘さんにお書きいただきました。ご覧ください。

 笹井宏之の歌には、独特の優しさと不思議な透明感がある。

 ねむらないただ一本の樹となってあなたのワンピースに実を落とす

「あなた」に対する思いの深さを感じる。「ワンピースに実を落とす」ことがモノや言葉を直接渡すよりも優しく思えるのは何故だろう。この歌の背後には、人間である〈私〉と「樹」とが区別されない世界像がある。

 拾ったら手紙のようで開いたらあなたのようでもう見れません

 ここでは「手紙」と「あなた」が同化している。そして、「手紙」が記される紙とはもともと「樹」から生まれたものではないか。笹井ワールドの中では、〈私〉や「樹」や「手紙」や「あなた」が、少しずつ形を変えながら繋がっているように感じられる。

 あるいは鳥になりたいのかもしれなくて夜をはためくテーブルクロス
 風であることをやめたら自転車で自転車が止まれば私です
 しっとりとつめたいまくらにんげんにうまれたことがあったのだろう
 さあここであなたは海になりなさい 鞄は持っていてあげるから

〈私〉→「樹」や「手紙」→「あなた」と同様に、いずれの場合も、一つのものから別のものへ、一首の中で存在が移り変わっている。「テーブルクロス」→「鳥」、「風」→「自転車」→「私」、「にんげん」→「まくら」、「あなた」→「海」。本書の中に、このタイプの歌は多くある。
 従来の短歌の枠組みの中で見れば、それらは時に比喩であり、擬人化であり、アニミズムであり、成り代わりであり、夢であり、輪廻転生であるのかもしれない。だが、そう思って読もうとすると、どこか感触が違う。表面的にどのように見えようとも、笹井ワールドの底を流れている感覚はいつも同じというか、さまざまな技法というよりもただ一つの原則めいた何かを感じる。敢えて言語化するなら、それは魂の等価性といったものだ。
 私やあなたや樹や手紙や風や自転車やまくらや海の魂が等価だという感覚。それは笹井の歌に特異な存在感を与えている。何故なら、近代以降の短歌は基本的に一人称の詩型であり、ただ一人の〈私〉を起点として世界を見ることを最大の特徴としてきたからだ。

 真砂なす数なき星の其中に吾に向ひて光る星あり   正岡子規  
 桜ばないのち一ぱいに咲くからに生命(いのち)をかけてわが眺めたり   岡本かの子 

 いずれも近代を代表する有名歌だが、共通するのは、「星」や「桜ばな」と「吾」が命懸けで対峙するという感覚である。ここには、何とも交換不可能なただ一人の〈私〉の姿がある。他にも与謝野晶子や斎藤茂吉といった近代の歌人たちは、作風の違いはあっても、それぞれにこのような〈私〉の命の輝きを表現しようとした。その流れは現代まで続いている。
 そんな〈私〉中心の短歌に慣れていた私は笹井の歌に出会って驚いた。

 みんなさかな、みんな責任感、みんな再結成されたバンドのドラム

「みんな」がいて〈私〉がいない。しかも、「みんな再結成されたバンドのドラム」だって? 近代の和歌革新運動を経た歌人たちは、戦後の前衛短歌運動を担った歌人たちは、九十年代のニューウェーブと呼ばれた歌人たちは、誰もが「〈私〉は新結成されたバンドのボーカル」だと思っていたんじゃないか(近代にはバンドやボーカルって言葉はないけれど)。だが、〈私〉のエネルギーで照らし出せる世界がある一方で、逆に隠されてしまう世界があるのではないか。笹井作品の優しさと透明感に触れて、そんなことをふと思う。
 笹井ワールドにおける魂の等価性と私が感じるものは、一体どこからくるのだろう。その源の一つには、或いは作者の個人的な身体状況があるのかもしれない。

 どんなに心地よさやたのしさを感じていても、それらは耐えがたい身体症状となって、ぼくを寝たきりにしてしまいます。(略)
 短歌をかくことで、ぼくは遠い異国を旅し、知らない音楽を聴き、どこにも存在しない風景を眺めることができます。
 あるときは鳥となり、けものとなり、風や水や、大地そのものとなって、あらゆる事象とことばを交わすことができるのです。
(歌集『ひとさらい』「あとがき」より)

 ここには鳥やけものや風や水や大地と「ぼく」との魂の交歓感覚が描かれている。私は本書のタイトルとなった歌を思い出す。

 えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力を下さい

 口から飛び出した泣き声とも見えた「えーえんとくちから」の正体は「永遠解く力」だった。「永遠」とは寝たきりの状態に縛り付けられた存在の固定感覚、つまり〈私〉の別名ではないだろうか。〈私〉は〈私〉自身を「解く力」を求めていたのでは。
 前述のように、多くの歌人は〈私〉の命や〈私〉の心の真実を懸命に詠おうとする。そのエネルギーの強さが表現の力に直結しているとも云える。だが、そのような〈私〉への没入が、結果的に他者の抑圧に結びつく面があるのは否定できない。読者である我々は与謝野晶子や斎藤茂吉の言葉の力に惹かれつつ、余りの思い込みの強さに辟易させられることがある。これを詩型内部の問題としてのみ捉えるならば、魂の過剰さとか愛すべき執念という理解でも、或いはいいのかもしれない。
 だが、現実の世界を顧みた時はどうか。我々が生きている現代は、獲得したばかりの〈私〉を謳歌する晶子や茂吉の時代とは違う。種としての人類が異なる段階に入っているのだ。人間による他の生物の支配、多数者による少数者の差別、男性による女性の抑圧など、強者のエゴによって世界に大きなダメージを与えている。それは何とも交換不可能なただ一人の〈私〉こそが大切だという、かつては自明と思えた感覚がどこまでも増幅された結果とは云えないか。そう考える時、笹井作品における魂の等価性とは他者を傷つけることの懸命の回避に見えてくる。

 さかなをたべる
 さかなの一生を、ざむざむとむしる
 さかなは死体のように
 横たわっている

 さかな、
 二〇〇六年の夏に生まれ
 オホーツク海の流氷のしたを泳ぎ
 二〇〇八年初春、投網にかかったさかな

 いいかさかなよ、
 わたしはいまから
 おまえをたべるのだ

 容赦なく箸をつかい
 皮を剝ぎ、肉をえぐり、
 骨を抜き、めだまをつつくのだ

 さかなよ
 まだ焼かれて間もないさかなよ
 わたしは舌をやけどしながらも
 おまえをたべる

 このように始まる「再会」という詩の続きはこうだ。

 二〇〇八年初春の投網が
 あすのわたしを待ち受けているかもしれないのだから

 ここに見られるのは「さかな」と「わたし」の運命の等価性だ。種のレベルの課題に対して、個の意識としての対応が試みられている。

 きれいにたべてやる
 安心して、むしられていろ

 そして、
 今度は二〇〇六年夏のオホーツク海で
 奇跡的な再会を果たそうではないか

 そんなことを考えながら、改めて本書を開く時、笹井宏之が遺した一首一首の歌が、一つ一つの言葉が、未来の希望に繋がる鍵の形をしていることに気づくのだ。

 それは世界中のデッキチェアがたたまれてしまうほどのあかるさでした

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